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今週の聖書のお話

「信頼して」 2022.10.2

使徒たちがイエスさまに、「信仰を増してください」と願っています。その理由は色々とあったのだと思いますが、聖書の直前の箇所を読むと、誰かをつまずかせたり、罪を犯した兄弟を戒めることができなかったり、悔い改めている兄弟を赦すことができなかったり、という出来事があったようです。

れに対してイエスさまは、「からし種一粒ほどの信仰があれば…」とおっしゃっています。そんな少しだけで本当に良いのですか?と聞き返したくなるようです。しかし信仰というのは、これくらいありますと誰かに見せることも、その量を客観的にはかることもできない。他の人と比べて多いとか少ないとか言えるものでもない。信仰=わたしに対する信頼=が“有るか無いか”なのだとイエスさまはおっしゃっているのでしょう。 

私たちは日々、様々な問題に行き当たります。それらひとつ一つの出来事は、それにかかわる人々を時に混乱させ、容易には解決策を見いだすことができないことも多々あります。そのような時でも、自分の都合や思いを優先させるより、神さまに信頼してその思いを聞く。祈りをもって神さまの声に聞き従うとき、なすべきことが示されるでしょう。 

そのようにしてひとつ一つ行ないを積み重ねてゆく時、もしかしたら桑の木が地面から抜け出して海に根を下ろすような奇跡が起きることがある。できるはずがないと思っていたことが実現する。信仰生活とはそういうものだと言われているようです。

私たちも「もっと信仰があったら…」と思うことがあるかもしれません。しかし、立派なことをなそうとして大きな信仰を求めるより、なすべきことを、神さまへの信頼をもって祈り求めつつ淡々となして行く時、新しい視野が示されるに違いありません。新しい世界がきっと拓けることを信じて、今日も歩みを進めていきたいと思います。 

牧師補 執事 下条 知加子

「『神の助け』を邪魔しない」 2022.9.25

今日の福音書の内容はイエスさまの「たとえ話」なので、そこに登場するラザロは、実在の人物だったかどうか、定かではありません。それにしても、ラザロ(ギリシア語)という名前は、ヘブル語だとエレアザル(「神は助けです」の意味)になるというのは驚きです。身寄りもなく、他人の家の門の脇に身を横たえ、雨風にさらされながら、残飯が投げ捨てられるのをただ待っている人生。しかも悠々と過ごしているのではなく、痛みや痒みのある皮膚病で全身が覆われ、それが治る/治すという見込みもない。犬が寄ってきて体を舐めても、それを払い除ける体力も気力もない。

「何故、自分は生きているのだろう」と思わなかった日はなかったかもしれません。このような状態にある人を、「神は助けです」として登場させています。

一方「金持ち」は、自宅の門前にラザロがいたことを知っています。名前まで記憶していますが、亡くなってもまだラザロを上から見下ろし使い走りをさせようとします。自分の苦痛を取り除くためにラザロを寄越して欲しいと言い、それが駄目ならせめて身内の役に立つようラザロを使って欲しいと言い、断られても更に食い下がり、それまでは一瞥もしなかったラザロを、自分は利用できると思い込んでいます。

ラザロのような人生が「神は助けです」なのは、お腹を空かせたまま人々から惜しまれることもなく人生を終えても、天上では美味しい食事でもてなされ、アブラハムの歓迎を受けたからではないでしょう。

一方アブラハムは「金持ち」に対して「子よ」と呼びかけるものの、この世的な視点で一目置かれた地位や名誉は、神の目には何の力もないことを示します。
 わたしたちの住む東京にもそしておそらく教会の門前にも、ラザロは座っているのでしょう。わたしたちがその人々を直接「助け」ることには、たとえ失敗しても、神の「助け」を妨害しないことはできるのではないでしょうか。それは、神が最も大切にしている家族の一人として、この人々をわたしたちが認識し得るかどうかにかかっていると思うのです。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「大切なこと」 2022.9.18

「ある金持ちの管理係をしていた人が、主人の財産を使いこみしていると訴えられ、仕事を取り上げられそうになった。彼は他にできる仕事はなく、どうしたら良いか考え抜いた末、主人に負債のある人たちを一人ずつ呼んでそれぞれの証文の負債額を少なく書き替えさせた。そうすれば、仕事を失ったときその人たちが助けてくれるだろうと考えたのだ。すると、主人は彼のそのやり方をほめた。」

これはイエスさまがなさったたとえ話ですが、そんなことをしたら、普通ならば主人の財産を目減りさせたと言って叱られるのではないかと思います。ところが、叱られるどころかほめられたというのです。なんとも不思議に感じますが、何をほめられたというのでしょうか。

管理係には貸し付けの利子の割合を決める権限もあったということで、証文を書き替えさせたとき、自分がかけた利子の分を割り引いてやったのかもしれません。自分に都合がいいように高い利子をつけて、その中から取り分を得て裕福な生活をしていたであろう管理係ですが、仕事を失えば、貧しい生活を強いられるでしょう。その時には、証文を書き替えさせてもらい感謝している人たちが、きっと彼を仲間にいれてくれるに違いありません。

「(主人は)この管理係を、良い感性で対処したと、ほめた」と訳されている聖書があります。貧しい人々から多くの利子を取って不当に散財していた人が、仕事を失うという危機に直面して初めて、貧しい人々の状況や気持ちを理解し、寄り添うようになった。主人はそのことをほめたのかも知れません。

自分のことだけを大切に考えて行動するとき、人間はどうしても間違った方向に行ってしまうのでしょう。そうではなく、貧しさをはじめとする、困難や苦しみ、悲しみの内にあって生きづらさを抱える人々に心を寄せることができた時、私たちは信頼できる仲間を得ることができるのではないでしょうか。何を一番大切にして生きるか。私たちはそのことを問われていると思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「『99匹の側』の羊」2022.9.11

ひとり迷子になり、見つかるまで捜索される1匹の羊の話。子ども時代の私のリアクションは「うらやましい」でした。いなくなったことに気づいてもらえ、自分の99倍の人数(羊数)を長いこと待たせた挙句、発見されたら叱られるのではなく、「喜んで」もらえる。一体そんな世界がどこにあるのだろうか、と思っていた次第です。

しばしば人生に「迷ってしまう」厄介なわたしたちなのに、神さまは諦めず、心を込めて探し出し、真っ当な道に連れ戻してくださる。そういうことなのでしょうが、1匹の捜索中に置き去りにされる99匹の安全についてはどうなのだろうか。羊飼い不在のまま野獣に襲われ天候が急変して犠牲が出ても、そちらの羊は「仕方がない」と諦められてしまうのだろうか。何か腑に落ちない気持ちになります。

このモヤモヤを解決するには、自分自身を「1匹」側だけに投影するのではなく、「99匹」側として読む必要があるのではないかと思うのです。つまり、迷子になった羊に対し「迷惑だ」と思っているだけで良いのだろうか、「1匹くらい諦めたらいいのに」と考える態度に、何か深い落とし穴があるのではないだろうかと。

例えば礼拝で、何十年も唱えているお祈りは、もう暗唱してしまって見なくても知っている、ということがあると思います。それはそれでとても豊かなことですが、そこに「初めて」の方がおられる場合、「暗唱ペース」でどんどん先に行ってしまうのは、神さまは決してお喜びにはならない行動だと思うのです。そんな初心者に対する配慮くらいとっくにしてくださっていると信じたいのですが、礼拝も、聖書の学びも、そして日常生活も「ひょっとしたら自分は99匹の立場かも」と心に留めることで、新たな視点が与えられるのではないでしょうか。たった一人でも、「1匹の羊」がそこにいたなら、いやむしろ「1匹の羊はいる」という前提で、心の目を開き続けていたいと思う次第です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「捨てるべきもの」 2022.9.4

イエスさまはご自分について来た大勢の群衆に向かって、「(~ならば)わたしの弟子ではありえない」とおっしゃっています。小見出しにある「弟子の条件」というよりも、弟子になる覚悟といった方が良いようにも思いますが、それが三度も語られているところに、イエスの弟子になるということの厳しさを感じます。

自分の家族そして自分の命を憎まないなら…と言われていますが、憎むというのは嫌いになるということではありません。二者を比較して他方を大切にするという意味です。つまり、イエスさまよりも家族を、また自分の命を大切にするならば、イエスの弟子ではあり得ない、ということになります。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹というのはかけがえのない存在ですから、平常時ならば何よりも大切にして良いものだと思います。けれども、二度にわたってご自分の死を予告され、いよいよ十字架に向かって歩んでいく緊迫感の中では、平常時と同じというわけにはいかないとのです。

自分の十字架を背負ってついて行く、というのは、自分の命をささげる覚悟をもって歩みを進めるということでしょう。イエスさまの死、それも処刑されることが予想されるような緊急事態の中で、大切にしなければならないことは何でしょうか。

わたしたちは、家族を含めた様々な人間関係の中で、また色々な物に囲まれて生きています。そのような中で日々取捨選択しながら生きているわけですが、自分がその中で一応安定して過ごせているときは、現在手にしているものを手放すことに抵抗を感じるものだと思います。しかし、それらは必ずしも自分の命を生かすものとなっているとは限りません。実は、獲得していると思っているものに縛られて、自分自身が窒息しかけていることがあります。そして、手放すことができないために、関わっている誰かを縛ってしまっていることもあるのです。

そのことに気づく時、手にしている一切のものを捨てる覚悟はあるのか、とのイエスさまの問いかけ。すべてのものから開放されて自由になり、イエスさまに従う道を選び取り、命を輝かせることができますように。

牧師補 執事 下条知加子

「末席に着く」 2022.8.28

昨今、さまざまな「宗教」が話題となっています。ことに「カルト」と「宗教」の区別がわかりにくい人々にとっては、自然科学の考え方と相容れない「宗教」の存在そのものが、嫌悪の対象となりうる場合もあるでしょう。いろいろな考え方があると思いますが、ざっくり整理すると、「カルト」は①思考停止を求める ②団体の提示する教えを鵜呑みにすることが「信仰」 ③個人の決断や決定は尊重されない ④優越意識や利益を強調、といった特徴があると思います。一方、真っ当な宗教に共通することは、①自己理解、他者理解を深め続ける ②疑問や異論も歓迎される ③自分の人生は自分が決める ④損得感情に振り回されない、などが挙げられるかもしれません。人がまっとうに生きようとする志を支えるのが、本来の宗教の役割であるはずです。

その中でもキリスト教は、しばしば「負け犬の宗教」と称されることがあります。(キリスト教を信じると)「人より優れます」「こんないいことがあります」などとは語られず、人生の中でも「負けている」と感じるような辛いとき、惨めなときこそ一緒にいてくださる、と強調するからでしょう。でもそれは、「惨めなわたし」に留まろうという意味ではなく、弱さ醜さも持つわたしたちを最後まで見捨てないことを約束される神、その存在を伝えるからかもしれません。

旧約聖書の中のイザヤ書の53章には、とても不思議な「しもべ」の姿が描かれます。「軽蔑され」「見捨てられ」「懲らしめられ」「他の人が犯した罪を全て背負う」、そしてこれらの苦難の結果、人々が人生を取り戻すのを見て満足すると。あまりにも人が良すぎる話だと思ってしまいますが、イエス・キリストは、ここに真の神の姿を見たようで、この「しもべ」として生き、生涯を捧げるのが自分の使命だと理解されたようです。そして、そのようになりました。同胞や一族の者から誤解され軽蔑され、一緒に活動していた弟子たちからも理解されず、死刑の判決が下ると人々は彼を見捨てて逃げ、最後は窒息死をする。それがキリスト教の神です。

今週の福音書の「宴会に招かれたなら、(なるべく)末席に座りなさい」ということの意味は、謙遜ぶって人に上席を譲っていれば、やがて周りが持ち上げてくれる、というノウハウ話ではないでしょう。辛さや悲しみから立ち上がれず「末席」から動けないでいる人々に対し「そんなところにいないでこっちへ来い!」と、上から目線で「上席」から叫ぶのではなく、最も底辺に降りてその苦しみを分かち合ったイエスのように、どん底の苦しみを味わっている人々のところへ、こちらから出向き現実を分かち合う。それがイエス・キリストのなさったことであり、わたしたちにも求められていることであると思うのです。「あなたが大切だ」ということを伝えるために何でもする神は、「負け犬」と称されることも厭わず、誤解されること軽視されることも恐れません。わたしたちの日常生活の葛藤や苦しみ、生きる難しさなどをよく知り、そして2千年前ではありますが、実際にこの世で生きた神。その方はわたしたちに、「負」の部分を切り捨てて無かったことにするのではなく、そこから立ち上がり前へと進む力になってくださる神です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「狭い戸口から入る」 2022.8.21

イエスさまの時代、ユダヤの都市は城壁にかこまれていました。都市に入るための門は広く、市民生活を支えるものとなっていました。ただ、そこを堂々と通ることができるのは、市民権を持つ、社会的に認められた人たちだけでした。城壁の脇の目立たないところに小さな通用門があり、そこから出入りしている人がいました。広い門を堂々と通ることのできない人たちが、人目を避けて利用していたのです。

広い門を通っている人たちは、そこを通るたびに「自分たちは広い門を通る権利があるからここを通っているのだ」などと意識することはおそらくなかったでしょう。それが当たり前だと思っているので、そこを通ることができることの有難味も、感じることは少なかっただろうと思います。また、そこを通ることができない人たちがいることを意識したり、その不便さを思いやることも、あまりなかったのではないかと思います。

一方、通用門を利用している人たちは、そこを通るたびに、自分たちが広い門を堂々と通ることができない存在であることを意識させられていたはずです。人一人しか通れないような狭い戸口を通る不便さ。それに通用口は目立たないところに設けられていましたから、その戸口を探すのにも苦労したかもしれません。

イエスさまは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。普段広い門を当たり前に通っている人たちは、その言葉をどう受け止めたでしょうか。広い門を通ることを許されている人びとが通用門を利用することはないですから、そこを利用する人々の不便さや苦労を想像することも難しいかもしれませんが、「何故わざわざそんなことをしなくてはならないのか」と思ったのではないでしょうか。しかし、自分だけが狭い門を通る必要のない人間で“あの”人たちとは違うと思っている限り、救われることはないということかも知れません。

ある面で自分自身も「狭い戸口」から入るべき人間だと自覚し、そこから入って行く時、本当の救いが訪れるのではないかと思うのです。

牧師補 執事 下条 知加子

「時を見分ける」 2022.8.14

「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と、イエスさまから言われてしまうと、もっと多くの情報を入手し人の意見も聞いて、冷静に判断できるよう頑張らねば、などと思ってしまいそうです。現代社会の中でどんなニードがあるのか、時を見分けた上で何が正しい行動なのか、専門家でも意見が分かれるところですから、さてどうしたものかと途方に暮れます。でもイエスさまは、さらに情報を得て「見分け」るようになれと勧めているわけではなく、わたしたちは大切なことはすでに知っているのに、その事実から顔を背け、本当のことは知らなくていい、現状は変えたくない、と叫んでいる自分の心と向き合うよう、促されている気がするのです。

私もそうですが、変化は苦手です。言い訳をするとか、まあ後でいいやと思うなど、自分のやり方を変えないで済むために、いろいろな手法を用います。人にもよりますが、一番不得手な「変化」の一つは、人と対立しなければならない状況に追い込まれることかもしれません。今まで穏便に関係を保ってきたのに、家族や友人との関係が崩れてしまうのは避けたい。特に、対立したら困ることになるとわかっている職場では、あえてリスクをおかすよりは「とりあえず穏便」な方法を選択する。それは、身を守る必要のある日常生活の中では、正しいことでもあるでしょう。

少し前の節ではイエスさまが突如、「受けなければならない洗礼」(原文では「私が洗礼を受けなければならないその洗礼」)に言及していますが、これは水に浸る一般的な「洗礼」のことではなく、「十字架にかかって死ぬ」ことを示していると言われています。それは、心身に悶絶する苦しみを受け、仲間から見捨てられ、誰にも理解されない、というイエスさまに与えられた独自の「洗礼」です。「とりあえず穏便」とはほど遠く、出来れば避けて通りたい道であり、その結果は闇の中。ひたすら神さまに信頼するしかない道です。

わたしたちの日常生活でも、現実を直視してしまうと、もう元には戻れないような不安が存在することでしょう。現実と向き合うのは苦しいですが、それを回避するため、「敵対されない」「世間から後ろ指をさされない」ことだけを絶対的価値として、様々な決定をしてしまうと、イエスさまの十字架から遠く離れた人生となってしまうのではないでしょうか。

それではどうすれば良いのか。
イエスさまがこの物語を通じて伝えようとされていることは、こういうことかもしれないと思います。
「不安から逃れるために耳を塞ぎ、本当は知っていることを“わからない”と、自分を言いくるめるのはやめなさい。不安と直面することを避け、心を閉じて、“決められない”と言うのもやめなさい。あなたが不安の真っ只中に投げ込まれ、誰からも忘れられていると感じていても、わたしは一緒に居て最後まであなたと共に歩き通す。なぜならば、それはとても孤独な道だが、わたしと近い道であり、わたしはすでに通ってきた道。そして神さまを信頼しなければ進めない道。だから、さあ勇気を出して、時を見分ける心の目を開こう」と。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「常に備える」 2022.8.7

こどもが親の見ていないところでいたずらをするというのはよくあることですが、こどもだけでなく大人だって、誰も見ていないだろうと思うと、本当は良くないと思っていることをついやってしまうというのは、多かれ少なかれ、誰しもあることではないでしょうか。反対に、誰かが見ていてくれることを期待していることを期待してあえて、世間的に良いとされる行いをすることもあるかもしれません。わたしたちの行いは、誰かほかの人の評価に左右されがちだということでしょうか。

僕が、真夜中か明け方か、いつ婚宴から帰って来るかわからない主人を目を覚まして待つというのは、なかなかできることではありません。主人の評価を得たいと思っていても、何日も起きて待ち続けるなどということは、そうそうできることではないでしょう。でも、泥棒がいつやって来るかということだって、誰にもわかりませんね。

いつ起こるかわからないことのために備えること。それは必ずしも体に鞭打って24時間起きている、ということではなく、必要なことは何かということを常に思いめぐらしている、ということなのではないかと思います。本当に必要なことを知るために、思い巡らし、神さまに祈る。そこには他の誰かの評価は必要ありません。他人の評価を基準に考えていては、本当に必要なことを見失ってしまうかもしれません。

この主人は、帰って来た時に僕が目を覚ましているのを見たならば、帯を締め、僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれると言っています。普通ならば、待っていた僕が主人のお世話をするのでしょうが、この主人は僕のために、帯を締めて、自身が僕となって給仕してくれるというのです。僕にとっては想定外の喜びに違いありません。

現実の世界を見渡すと実現不可能ではないかと思える世界の平和。それでも、その平和の実現を心から求め祈る時、必要なことは神さまが示してくださいます。平和実現という喜びに向かって、わたしたちも常に備えて行きたいと思います。 

牧師補 執事 下条 知加子

「本当の豊かさ」 2022.7.31

ある人がイエスさまに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と訴えました。この時代のユダヤ教の先生は、法律家のように人々の生活の具体的な事柄についても教えていたようです。しかしイエスさまは、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言って、次のようなたとえ話をされました。 

ある金持ちの畑が豊作で、収穫した物が倉に納めきれなかった。「どうしよう」かと考えたその人は、倉を壊してもっと大きい倉に建て直し、その中に穀物や財産を全てしまっておこうとした。そして、「さあ、これから何年も生きて行くだけの蓄えができた」ぞ、喜べ、と自分自身に言いきかせようとした。さて、それはこの人にとって本当の喜びとなったでしょうか。

倉に蓄えがあれば、多少の安心を得ることはできるかもしれません。けれども、そんなに多く持っていたところで、一生かけても使い切れないでしょう。もしかしたら、この人の命は今夜限りかもしれない。死んでしまったら、蓄えた物は何ひとつ持っていくことはできません。残った財産はどうなるのでしょうか。それに、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」、つまり、地上の財産によってはその命をひと時も引き延ばすことはできないのです。

「貪欲」という言葉は、聖書のギリシャ語では“さらに”と“持つ”という2つの言葉が組み合わさった言葉です。今あるもの、与えられているものに満足せず、さらに持ちたいと思ってしまう。イエスさまは、自分にも遺産を分けて欲しいと願った彼が正当な権利を主張したことが良くないと言っているのではなく、「もっと、もっと」と欲が増してゆくことに「注意を払い、用心しなさい」と言っておられるのだと思います。

どんなに沢山持っていてもさらに欲しがってしまう。それは遺産のことに限ったことではなく、人間の常と言えるかもしれません。けれども、その先に本当の喜びは生まれないのです。倉を建て帰るのではなく、沢山とれた収穫物を持っていない人に分け与え、豊作の恵みを人びとと分かち合う時にこそ、本当の豊かさ、心からの喜びが湧きおこるのではないでしょうか。

牧師補 執事 下条知加子

「『祈り』の本質」 2022.7.24 

「求めよ、さらば与えられん」文語の聖書を読んだことのある方には、こちらの言い回しの方がピッタリくるかもしれませんね。でもここでイエスさまは、「祈り求めれば何でも無条件に叶えてくれる神さま」の話をしているのではなく、「祈る」ことについての本質を伝えておられるのではないかと思うのです。

少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「実はこうしてほしい」とは言いにくいものです。つまり一般的には、言葉化して相手に何かを伝える時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見通しがあると確信している、とも言えるでしょう。

しかし、もし「祈る」ことについても、わたしたちが同じように考えると、神さまを矮小化してしまう危険があります。当然ゆるされているという前提で「わたしたちの罪をお赦しください」と主の祈りを唱え、飢えるはずないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、安全な生活を確保している、という気休めに近いかもしれません。

神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたち自身は、神さまの考える「最善」が常に見えているとは限らないでしょう。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと招かれるのではないでしょうか。実現される保証を得たら、神が聞くなら祈ろうではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、それが祈りではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「必要なことはただ一つだけ」 2022.7.17

イエスさまとその一行がある村に入ると、マルタという人がイエスさまたちを家に迎え入れました。大切な方をお迎えするというので、マルタは色々と気をつかい、立ち働きます。そんな時、姉妹(妹?)のマリアはマルタの手伝いをしようともせず、イエスさまの足もとに座り、イエスさまの話に聞き入っていました。

そんなマリアの姿に、マルタは少しいら立ちをおぼえたのでしょう、イエスさまに向かってマリアに何とか言って欲しいと頼みます。しかしイエスさまは、「必要なことはただ一つだけである。…それを取り上げてはならない。」とおっしゃいました。マルタはなぜ不満を直接マリアに言わなかったのだろう、そもそもイエスさまを招き入れたのはマルタなのだからマリアに手伝いを強要することはないのでは…などという疑問も湧いてきますが、「ただ一つ」の「必要なこと」とは一体何なのでしょうか。

大切な方を家に招くという時、わたしたちは掃除をしたり、お茶の準備をしたり、食事を作ったりと忙しく立ち働くことがあるでしょう。そんな時、わたしたちは散らかった家の片付け、用意するお茶や食事のことなどに、必要以上に心や体を使って「思い悩み、心を乱して」しまうことがあります。限られた時間を、迎え入れたその方と共に過ごすこと、分かち合うことが大切なのだけれど、そのことに集中できなくなってしまう、そんなこともあるのではないでしょうか。

教会の活動においても、それと似たようなことがあるように思います。礼拝は、イエスさまをお招きし、イエスさまと共に過ごす大切な時間です。そのためになされる準備ももちろん大事です。イエスさまは不平を言うマルタに、「マルタ、マルタ」と愛情込めて呼びかけられ、彼女を叱責することはしていません。しかし、「思い悩み、心を乱」すことなく、マリアのように聴くこと、そのことが大切で「それを取り上げてはならない」とおっしゃるのです。

どうか祈りに、そして神さまの、イエスさまの声を聴くことに集中して、この限られた恵みの時を過ごしてゆくことができますように!

牧師補 執事 下条 知加子

「よきサマリア人」 2022.7.10

聖書には、「よきサマリア人」という言葉はありませんが、絵画や彫刻、絵本で表現されるこの物語には、多くの場合「よいサマリア人」というタイトルがついています。しかしながら「サマリア人は良い人たちだ」という話ではなく、当時の一般的な先入観が厳然とある中で、自分を正当化しようとする律法学者に対し、イエスさまがわざわざサマリア人を持ち出して「たとえた物語」と言った方が近いのかもしれません。

元々、イスラエルの民も住んだサマリアの地は、イスラエルの首都が置かれたこともある歴史的な場所でしたが、他国の支配にさらされ、外国からの他民族の植民が行われ、結果的に様々な宗教が入って融合したことにより、イエスさまと同じアラム語を話す人々なのにも関わらず、イスラエルの社会から排除されてきました。

それは、彼らが「聖書」と認めるのは「モーセ五書」のみだったり、過越の祭りは祝うのに別の預言者を求めたりといった、彼らの独特な解釈や社会的特質を、ユダヤ人が忌み嫌い、見下す習慣となって行ったようです。そしてそれは、イエスさまがおいでになる700年以上も前から、ユダヤ社会の中に浸透していましたので、それはもう民族に根付いた差別感覚だったとも言えるでしょう。

サマリア人を見下していただけではなく、血を流している人に触れた祭司は、礼拝の司式をすることができませんでしたし、遺体に触れたレビ人は、神殿での奉仕ができないことになっていました。もしこの人々が神殿のお務めに向かう道中であったなら、「命の危機に瀕している人を冷たく見捨てたわけではない。できるなら私だって助けたかったが、お務めができなくなるので」という言い訳ができてしまうわけです。

しかしイエスさまは、彼らが見下しているサマリア人を登場させて、あたりまえの行動をする話をする。それが、「隣人」の定義を求めた律法学者への答えでした。

この物語でイエスさまは、わたしたちが倒れている人を見かけたら「必ず病院に連れて行きなさい」と薦めているわけではなく、食べるに困っている人を見つけたら、2万円(2デナリオン)与えなさいと言っておられるわけでもありません。「隣人とは誰か」と定義を求め、それがわからないと愛することはできない、永遠の命を得ることができないと言い訳をしている、この律法学者のようになってはいけない、と諭されているのではないでしょうか、わたしたちが本当の意味で真の愛と命へと進むために。


牧師 司祭 上田 亜樹子

「財布も袋も履物も持たず」 2022.7.3

イエスさまは、ご自分が行くつもりのすべての町や村に、弟子たちを二人ずつ先に行かせました。それは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われます。イエスさまは続けて、「財布も袋も履物も持っていくな」と言われました。それほど厳しい旅となることが予想されるというのに、遣わされてゆく弟子たちは不安にならなかったでしょうか。

何かをしようとするとき、まず準備万端整えて…と考えるのが一般的な感覚だろうと思います。そしてつい、あれがない、これがまだない…と、足りないものばかりに目が向いてしまいがちです。そして準備ができていないことを言い訳に、‟だから無理だ”とあきらめてしまう(事を始めようとしない)こともあるのではないかと思います。

けれども、必要なのは無いもの探しではなく“あるもの探し”なのかも知れないと思うのです。わたしたちには様々なものが与えられています。ところが、与えられていること、その豊かさに、思いが至らないことが多々あるのです。そして、あれもこれも足りないからうまくいかない、できないのだと考えてしまう。けれども、必要なものはすでに与えられていると、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。

後にイエさまが「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と聞いた時、弟子たち(使徒たち)は「いいえ、何もありませんでした」(ルカ22:35)と答えています。そのままで十分、必要なものはすでに与えられているからそれを探してごらん、と言われているように思います。

イエスさまはわたしたちを、それぞれににふさわしい場へと遣わしておられます。そこでは豊かな実りが約束されています。けれども「収穫は多いが働き手が少ない」とも言われています。どうかわたしたちに、ともに働く仲間が与えられますように。そして、わたしたちの願う、イエスさまの願う平和が実現するよう、祈り求めてゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「真にイエスさまの味方は?」 2022.6.26

ひとつの仕事を、チームで成し遂げようとする時、そこにはさまざまな意見や立場、感じ方があって、それを擦り合わせていくのが楽しいと感じる人がいます。その一方で、議論の内容や目的ではなく、「誰と一緒の立場を取るか」を優先する人もいるように思います。時によっては、どちらも功を奏する場合があると思いますが、今日の福音書では、弟子たちが自身の心の在り様は問わずに、ただ自分たちはイエスさまの「味方だ」と思うことで、頓珍漢な言動をする様子が描かれているのではないでしょうか。

十字架の出来事の前に、イエスさまはご自分の身にこれから起きることについて、また良い知らせ(福音)の真髄について一生懸命語りますが、弟子たちはあまり理解していなかったようです。意味があまりよくわからなくても、イエスさまについて行こうと考える弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なのでそこに加わらない人々は排除してもかまわない、というふうにも聞こえます。

登場する「サマリア人」というのは、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになった人々ですので、ユダヤ人は、付き合いを絶ち、一方、サマリア人も、自分たちが見下されていることを知っていますので、互いを避けていた関係でした。そんな壁を乗り越えて、せっかくサマリア人の村に寄ってやったのに、イエスさま一行を「歓迎しなかった」。そんな輩はやっつけてしまいましょう、と弟子たちは憤ります。

また、弟子かどうかは書いてありませんが、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人も、イエスさまの言われることを真に理解しようとするよりは、「イエスさまに従う」という雰囲気に酔っているようにも思えます。

わたしたちも例外ではないでしょう。教会に来て礼拝をする、イエスさまのことを知っている、神さまの前に正しい生活をしていると、もし思い込んでいたら、もしそんなわたしたちが「イエスさまの側の人間」であり、そうでない人々に対して一線を引く、というような気持ちがあったとしたら、それは果たして本当の意味で「イエスさまの味方」なのでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「自分の十字架を背負う」 2022.6.19

「十字架を背負う」と言うとき、現代では、その背負うものはわたしに背負わされている苦労-生きる上での困難さ-だと解釈されることがあるように思いますが、イエスさまがおっしゃる十字架とは、そのようなことを指してはいません。 

この時代(一世紀)に「十字架を背負う」といえば、十字架刑に処せられるために、イエスさまがなさったように、その十字架を自身が処刑される場所まで担いでいくことに他なりませんでした。「わたしについて来たい者は…自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、イエスさまについて行くならば、自分の持っているもの全てを手放す覚悟を持て、ということになるでしょうか。

わたしたちは様々なものを持っています。物質的なものばかりでなく、仕事、家族や友人、職場その他での人間関係など。そして地位や名誉を含めて、多くのものに恵まれ、それらの中で心地よく生きていればいるほど、あるいはそうでなかったとしても、わたしたちは持っているものを失うことに恐れを感じるものだと思います。けれども、それらのものを失うまいと握りしめている限り、イエスさまに従うこと-本当の命を得ること-はできないのです。

イエスさまがスーパーヒーローのように人々を救い、“世直し”をしてくれるかもしれないと期待し、ぞろぞろとついて回っていた群衆は、「(自分が)排斥されて殺され」ると語るイエスさまに失望し、離れてゆきました。けれども、そんなイエスさまに、迷いながらもついて行った弟子たちがいました。イエスさまは彼らに、今価値を感じているものを、必要な時には捨て去りながらイエスさまについて来るならば、真の意味で命を救うのだと教えられました。

「あなたがたはわたしを何者だというのか。」
イエスさまは今もわたしたちに問われています。イエスさまに従うことこそが救いの道であると信じ、自分を捨てつつ進んでゆくとき、わたしたちに与えられる「命」。その価値は計り知れません。どうかその道を進む勇気と力が与えられますように…。

牧師補 執事 下条 知加子

「三位一体?!」 2022.6.12

先週は「聖霊降臨日」でしたが、今週は「三位一体の神」を覚え記念する日曜日。「聖霊なる神」も理解が難しいですが、「三位一体の神」は、さらにハードルが高いかもしれません。しかもイエスさまは、「三位一体」という言葉を用いませんでしたので、何を根拠に?ということにもなりかねない。しかし、「それゆえあなたがたは行って、〜父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイ28:19)と聖書に書いてあることもあり、何とかして教会は「父、子、聖霊」の3者の関係を説明しようとしてきました。悩ましいのは、「神が3人いる」ことが三位一体ではないし、「一人の神が何役かを演じ分けている」ということもおかしい。また、「最初から存在した」のは、父なる神だけだったのか、それとも父と子だったのか、という議論なども行われました。朝夕の礼拝で用いられる「使徒信経」は、かなり初期に成立していると言われていますが、ここでは既に、父と子と聖霊は並列されて登場します。後に(紀元後325年)、ニケヤという場所で行われた会議において、「父と子は最初から存在したが、聖霊なる神は、父と子から出て来た」そして、「父、子、聖霊なる神は同等にして一体」という教義に至り、それが、わたしたちが今、毎週日曜日に唱える「ニケヤ信経」に反映されるかたちとなりました。

結論としては、神さまは一人であることに変わりはないのですが、やっぱりよくわからない話です。人間の場合、別の人格であれば、意見も異なり、行動も言動も違ってきますので、何か一緒にやろうとしても、意見が一致するとは限らず、時には一人が他方を制し、渋々ではあっても全体の善のために皆が従うことはあるでしょう。でも神さまの場合は、三位一体のうちの「一体」が他の2体を制する、ということではなく、「一人の方だ」という理解に立たないと、整合性が取れなくなる、ということなのだと思います。たとえ「三位一体」が今は毎日の生活に必要を感じないことであったとしても、何かあった時に役に立つ説明かもしれません。そんな意味も込めて、わたしたちの教会では、「三位一体の神さま」は、わたしたちのためにそのようなかたちをとってくださったと信じている次第です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「豊かな賜(たまもの)」 2022.6.5

イエスさまが天に昇られた後、弟子たちは同じ場所に集まって祈っていました。そこへ、突然激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、家じゅうに響きました。そして弟子たちは「霊が語らせるままに」様々な国の言葉で話し出したというのです。

大きな物音に大勢の人が集まってきたようですが、その物音に一番驚いたのは、家の中に隠れるように集まっていた弟子たちだったことでしょう。それまで導いてきてくれたイエスさまが不在の中、自分たちだけで何とか頑張って行こうとしてはいても、相変わらず「十字架で処刑された者の仲間」と見られていたでしょうから、不安で身も心も縮こまっていたに違いありません。そんな彼らの心と体を、突然の大きな物音が揺さぶりました。それは聖霊の働きでした。

弟子たちが突如として「他国の言葉で話し出した」のは、神さまから遣わされた聖霊が強い風のように彼らの体と心を揺さぶり、その愛の力によって彼らの心と体が解放され、それぞれの中に隠されていた力が発揮されたという出来事ではないかと思うのです。様々な国や地方から集まった人々は、それぞれの故郷の言葉を聞くように、その魂に響く言葉、愛の言葉を、弟子たちから聞きました。

人は、不安だったり、緊張したりしていると、その人の本来持っている能力や素晴らしさは発揮されません。わたしたちは、自分でもまだ気づかない沢山のものを神さまからいただいていますが、その賜はわたしたち自身がが愛されていることに気づいて安心し、心と体が解放される時、初めてその力が豊かに発揮され、わたしたちの住む社会も豊かに、素敵に変化してゆくと思うのです。

神さまの豊かさの中にあって、それぞれがいただいているユニークな賜が、聖霊によってその力を発揮し、愛に満たされた豊かな社会・世界が実現してゆきますよう、願って止みません。

牧師補 執事 下条 知加子

「『一つになる』ということ」 2022.5.29

十字架にかかられる前、最後となった夕食の時、イエスさまは自ら弟子たちの足を洗われました。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合う」ようにと教えられました。それは、身分や立場を超えて、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と教えるためでした。

そして、いよいよ裏切られ、逮捕される直前、イエスさまはその時が来たことを知り、天を見上げて、ご自分のために、弟子たちのために、そして「すべての人」のために祈られました。イエスさまを愛したのと同じように、神さまはすべての人々を愛しておられることが、世界に知られるようにと。そしてそのために、「すべての人を一つにしてください」と祈っておられます。「一つになる」とは、どういうことでしょうか。

「あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように」(あなた=神さま、私=イエスさま)と言っておられるのは、神さまの愛がイエスさまの内に充満しており、イエスさま自身が神さまの愛の中にいる、ということではないかと思います。すべての人が一つになるというのは、すべての人に愛が充満し、(すべての人が)神さまに愛されていることを知るということでしょう。愛するとは、尊厳を認め、大切にすることです。

一つになるということは決して、みんなが仲良くなるとか、争いがなくなるということではありません。また、人々の考え方が画一的になることでも、価値観が同じになることでもありません。人にはそれぞれ違った個性があります。性別も、人種も民族も、みな違います。それは神さまが与えてくださったものです。そんな一人ひとりを、神さまは心から愛しておられるのです。そのことをすべての人に知ってほしい。そして、互いの個性を尊重し合ってほしい。それこそが、イエスさまの願いだったのではないでしょうか。

牧師補 執事 セシリア 下条 知加子

「おそなえはいらない」 2022.5.22

今日は、使徒書(使徒言行録)の話に触れたいと思います。リストラは、イエスさまが活動されたガリラヤやエルサレムからは遠く離れた内陸の町(現在はトルコ領)です。一緒にいる時はほとんどイエスさまの言うことが理解できなかった弟子たちですが、復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通じて、神さまによる平和、真の愛の力がわかると、遠い国々まで福音を広め始めました。

さてこのリストラに、「生まれてから一度も歩いたことのない男」がいました。「生まれてから一度も歩いたことのない」人生とはどういうものなのか。私には乏しい想像しかできませんが、少なくとも当時の社会では、先天性にせよ後天的にせよ身体や精神に不調をきたすのは、何か悪いことをした結果だと信じられていました。つまりこの人は「歩けない」という具体的な不便さに加え、社会的には「恥ずべき人」「神様に見捨てられた男」というレッテルも貼られていたのだと思います。

しかし、イエスさまの事をどこかで伝え聞いていたのでしょう、彼はパウロたちが話を始めると、じっと座って聞きます。そして「癒やされるのにふさわしい信仰」があると認めたパウロが、この人に声をかけると、彼は躍り上がって歩き出します。物理的に立ち上がって歩き出したのかもしれませんが、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げて、神さまが愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんなふうにも思います。

ところがそれを見ていたリストラの町の人々は、パウロたちを「神だから」この男の人を治癒したと考えます。つまり、自分たちは心を入れ換える必要も、何かを変える必要もない、それよりも偉大な神が自分たちの味方となってくれれば、魔法のようにあらゆる必要を満たしてくれる、という構図です。これに対して弟子たちは、躍起となってやめさせ、雄牛や花輪のおそなえを捧げて、自分たちの都合のいいように神を操作しようとする町の人々の勘違いを指摘します。

わたしたちの知っている神さまは、おそなえもので行動が変わる神さまではないでしょう。そんなことより、何よりも一番、わたしたちが喜びで満たされることだけを望んでおられる神さまです。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「互いに愛し合いなさい」 2022.5.15

十字架にかけられる前、イエスさまは弟子たちに新しい掟を与えられました。「互いに愛し合いなさい」。この言葉はその夜、繰り返し語られています。それは、最も大切なこととして弟子たちに伝えようとしたこと、もっと言えばイエスさまの命令です。そしてイエスさまはその「愛する」ということを、言葉だけでなく、ご自身が弟子たちの足を洗うという行為によって教えられました。

当時の人々は、舗装などされていない道を素足にサンダル履きで歩いていましたから、コンクリートの上を靴下や靴を履いて歩くことの多い私たちに比べたらはるかに足が汚れるわけです。その足を洗うのは億劫なこと、本来は奴隷がする仕事でした。自らたらいに水を汲み、腰に手拭いを巻いて彼らの足を丁寧に洗い始めたイエスさま=自分たちの師の姿に、弟子たちは心底驚いたことでしょう。立場や身分を超えて愛する=尊敬の念を持って大切にする、そこに新しさがあります。

私たちは、誰かのために何かをしたいと思っても、つい、自分にふさわしいことは何かと考えたり、相手よりも自分のことを優先させたりしてしまいがちです。相手を愛して(大切にして)いるつもりでも、常識にとわられたり、何か制限をつけてしまっていたりします。でも、イエスさまの愛は無制限。身分や立場を超えて、あるいはそんなものには全っく左右されることなく、相手が予想も期待もしていなかったようなこと、普通には考えられないようなことさえしてしまう。ひとのためにご自分の命さえ差し出してしまう愛なのです。
このイエスさまの命令に従って、「互いに愛し合い」つつ進んで行く私たちでありたいと願います。

牧師補 執事 下条 知加子

「共感する羊にならう」 2022.5.8

教会では、イエスさまを羊飼いに、そしてその生き方に共感するわたしたちを羊にたとえる習慣があります(そういう宗教画も多いですね)。それは、聖書の中で「わたしは良い羊飼い」とご自身で言っておられることもありますが、人々にとっての特別感はなく、身近でわかりやすい喩えを考えたらそうなった、ということかもしれません。都市に住むと、羊や山羊と対面するには動物園に行かなくてはなりませんが、わたしたちが当たり前に電車や地下鉄を利用するように、当時は羊や山羊が生活の一部だった、ということなのでしょう。

数年前に、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって走って来ました。それは歓迎しているのではなく、侵入者をチェックするような威圧的な態度でこちらを睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。後に聞くところによると、山羊はテリトリーの守備意識がとても強く、飼われているという自覚もないとのこと。一方羊は、心身共に脆弱で、知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するのかなど、あまり心配したことがなく、ただただ身を守るため、そして自身のメンタルを安定させるために、常に群れの一部として過ごすことが大切とのこと。山羊も羊も個性はあるのでしょうが、(山羊と比較した)羊の特徴を聞けば聞くほど、人間の話をしているような気持ちになってきます。

しかしながら、動物の羊とわたしたちの異なる点は、イエスさまの声を「聞き分ける」ことではないかと思うのです。それは、音声を認識するということではなく、また、言われたことを鵜呑みにするということでもなく、イエスさまの語る内容に納得し共感し、その生き方に心が揺さぶられ、そのように生きたいと自分で決断し従っていくことが、「聞き分ける」内容ではないでしょうか。イエスさまからの声、それは時にはわたしたちの理解を超え、全体像が見えなかったり、落とし処がわからなかったりもします。でも、わたしたちがそれをイエスさまからの声だと確信するときは、大きな計画の中で信頼して前に進も追うという決断ができる羊になりたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「ともにいる」 2022.5.1

復活されたイエスさまに出会い、イエスさまがともにいてくださることを一度は実感した弟子たちでしたが、彼らを取り巻く状況が好転したわけではありません。捕らえられ処刑されたイエスの仲間として、当局から目をつけられていることでしょう。イエスさまと共に行動していた時は良かったが、自分たちだけで何をどうしていったらいいのだろう。弟子たちは途方に暮れていました。

漁師だった7人はガリラヤ湖畔に戻り、何も手につかないまましばらくの時を過ごしていました。そんな中でシモン・ペトロが、とりあえずできることをしようと思い立ったのでしょう。「私は漁に出る」と言うと、他の弟子たちも「一緒に行こう」と言って漁に出て行きました。しかし、夜通し頑張っても、何も捕れませんでした。

夜が明けるころ疲れ切って戻って来ると、誰かが岸に立っていて「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と聞いてきました。誰だかわからないその人に「捕れません」と答えますが、「舟の右側に網を打」てば「捕れるはずだ」と言われます。常識的に考えてそんなわけはない、疲れているし、どうしよう。でもこの人を空腹のまま放っておくわけにもいかないか、と思って網を打ってみると、びっくりするほど沢山の魚が掛かりました。

網を引き上げられないほどの魚が捕れて驚き、そういえば「子たちよ」と呼び掛けられていたことに気づいた一人の弟子が、その人がイエスさまであることに気づき、「主だ」! と言います。イエスさまは、火をおこし、魚を焼き、パンを用意し、弟子たちとともに食事をされました。弟子たちは誰も「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。イエスさまがともにいてくださることを改めてしっかりと、心に刻むことができたからです。

イエスさまのご復活を一度は確信したとしても、また見失ったり、迷ったり。そんな私たちにイエスさまは、何度でも“ともにいる”ことを知らせようとしてくださいます。途方に暮れているとき食事に招き、ともに食し、そこに網を打てと声をかけ、力づけてくださるのです。

ご復活の喜びを覚える復活節。イエスさまがともにいてくださることに信頼して、新たな一歩をあゆみ始めたいと思います。

「信じられないときもある」 2022.4.24

大盛り上がりだった礼拝と盛大なお祝いで過ごしたイースター。その次の日曜日は一転して、とても地味な日曜日、といったイメージがあるようです。さらに何故だか、ABC 年のいずれの日課でも、この日の福音書は、お弟子さんのひとりであるトマスの物語が読まれます。

十字架の上で亡くなってから三日目によみがえったイエスさまは、お弟子さんたちのところに出現しますが、「イエスさまはいなくなったのではない、私たちと共におられる!」と皆に言い伝えて怯まない女性たちよりも、息を潜めて恐怖の真っ只中に引きこもっているお弟子たちが気になって仕方がなかったのかもしれません。彼らが鍵をかけて籠る家に、イエスさまが入って行ったとき、トマスは不在でした。そしてあとで、イエスさまの訪問を聞いたトマスは、「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。のちに教会では、このトマスを「疑い深いトマス」などと呼び、なんだか恥ずかしい例と決めつけてきましたが、自分以外全員のお弟子さんが「イエスさまは生きてここに来た」と言っている中で、「いや、わたしは信じられない」と言うのは、なかなか大変なことだと思うのです。心の中でこっそり「いや、あり得ないでしょ」と思っていても、口に出さないでいる方が非難されないし。

このようなトマスのために、イエスさまは再び来てくれます。そしてトマスに直接「さあ、この傷に手を伸ばすように」と語ります。それは、神さまの愛をわかってもらうために、イエスさまが繋いでくださった永遠の命が伝わるために、そのためなら、なんでもしようとする神さまの姿です。

わたしたちも、ひょっとして「信じたつもり」になっていないかどうか、時々自分に問いたいと思います。このトマスの率直さに学びつつ、神さまを信じている時も、信じたつもりになっている時も、そして信じられない気持ちでいる時も、変わりなく呼びかけ続け、そして愛で包んでくださる神さまが共におられることを忘れないでいたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「復活された」 2022.4.17

週の初めの日の明け方早く、婦人たちはイエスさまが葬られた墓に行きました。ところが、入り口を塞いで動かせないと思っていた大きな石はわきに転がされ、それどころか、葬られていたはずのイエスさまのご遺体は、そこには見当たらなかったのです。

愛するイエスさまが亡くなってまだ三日と経たないこのとき、彼女たちは、ショックと悲しみのどん底にいたに違いありません。イエスさまとの出会いを与えられて救われ、頼りにして生きてきたのに、ずっと自分たちを導いていってくれると信じていたのに、十字架刑という残酷な仕方で殺されてしまった。せめてその亡骸を丁寧に葬ることでイエスさまを感じていたい。そばにいると思いたい。愛する人を亡くした人ならだれでも、そんな風に思うのかもしれません。

けれども、おられるはずだと考えていたところに、イエスさまはおられませんでした。もはやできることは何もなくなってしまった。どうしたら良いのだろう。途方に暮れる彼女たちにの前に、輝く衣を着た二人の人が現れました。そして言います、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。

わたしたちは、傷つき、苦しみ、悲しむとき、過去を振り返り、原因を探したり、誰のせいかと考えたりすることに時間を費やしてしまいがちです。まるでお墓の中を調べに行くように。けれども、過去を、うしろをふりかえることの中に救いはありません。イエスさまは死の世界に閉じ込められてはいない。今も生きておられ、わたしたちの人生を共に歩いてくださっているのだ。「三日目に復活することになっている、と言われた」イエスさまの言葉を思い出しなさい、と言われています。

「復活」を信じることは、過去から解放されて「今を生きる」ことだと思います。イエスさまご復活の喜びが、すべての人々に伝わっていきますように。
イースターおめでとうございます!

牧師補 執事 下条 知加子

「降りてこられる神」 2022.4.10

いよいよ、イエスさまの十字架を記念する「聖なる週」を迎えました。今日の第一日課として登場する、イザヤ書第53章を読むと、わたしたちがどんな神を信じているのか、よくわかる気がします。

それは「君臨」とは対極をなす神。圧倒的な力で相手をねじ伏せ、精神的に人間を支配するようなタイプとは全く違う神です。

この社会に生きていると、どうしても「わかりやすい」ことを求められます。「私を納得させろ」という重圧も感じますし、利益をもたらす片鱗をチラつかせて初めて話を聞いてもらえるという現実があります。そういう意味では、イザヤ書の神は、「神々しい」どころか、まるで押しが効かず、誰にも相手にされないような姿を晒します。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかも、「わたしたちの病、痛み」を代わりに負ったのに、「神に懲らしめられている他人」と傍観していたのは、他でもないわたしたちであったと続きます。しかし、神は「わたしたち」に怒りや罰則を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と。呆れるばかりの人のよさです。

人に誤解されたり、やっていないことで糾弾されたり、あるいは無視されたり、軽蔑されたりするのは、とても辛いことです。あまりに辛いので、白日の元に事実をあばき「私は間違っていない」と声を大にして言いたくなります。そして深い孤独に襲われます。しかし聖書の物語は伝えます、事実を知る神、心の奥底の深い悲しみや痛みを分かち合う神、わたしたちの惨めさ見捨てられる辛さを理解する神を。

おそらくイエスさまはユダヤ教徒の習わしとして、こどもの時から、このイザヤ書を繰り返し暗唱なさったに違いないのです。そして、ご自分がどんな道を歩むことになるのか、咀嚼しつつ成長され、十字架への道を踏みしめていかれたのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子


「自分勝手なのは?」 2022.4.3

「ぶどう園と農夫」のたとえ話に出てくる農夫たちは、ぶどう園の収穫を納めさせるために主人が送った僕を袋だたきにし、侮辱し、何も持たせないで追い返したり、傷を負わせてほうり出したり、挙句の果てに、送られて来た主人の愛する息子を、ぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。このお話を初めて聞いた中学生の頃は、「そんなひどいことをする人がいるんだろうか」くらいに思っていました。そして、イエスさまを捕らえ、無き者にしたいと考えている律法学者や祭司長たちが「自分たちに当てつけて」このたとえ話をされたと気づいたと書かれていたので、ああ、そんな自分勝手な人たちも実際いるんだな、と他人事のように考えていたことを覚えています。

でも、繰り返しこのお話を読んだり聞いたりし、歳を重ねても来るうちに、実は人間だれでも、ぶどう園の収穫を(主人に渡さず)自分たちのものにしようとしてしまうことがあるのではないかと思えてきました。主人が送った愛する息子がイエスさまであるなら、このぶどう園はわたしたちの住む世界そのものということになるでしょう。主人である神さまは、ぶどう園を造るように、丹精込めてこの世界を造られました。そこで生き・働く農夫であるわたしたち人間は、そこで得られる豊かな収穫を仲良く分け合っているでしょうか。すべての人に行き渡るよう心がけているでしょうか。もし、わたしたちがそのようにしていたら、戦争や紛争が起こったりしないのではないでしょうか。

人間だれしも、どこかに身勝手な思い持ってしまうものではないかと思います。自分さえ良ければというその思いは、他の誰かを疎外し、分断を招き、争いごとを招きます。
2015年の国連サミットから始まったSDG’s(世界中にある環境問題・差別・貧困・人権問題といった課題を、世界のみんなで2030年までに解決していこう」という計画・目標)でも、「誰一人取り残さない」ということが掲げられています。
どうかわたしたちが、自分勝手な考えや思いから解放され、平和に向かって一歩一歩、歩みを進めてゆくことができますように!

牧師補 執事 下条 知加子

「迷子になりやすい?!」 2022.3.27

実は私は方向音痴なところがあって、右折左折を繰り返すと、もうどっちへ向かって歩いているのか見当がつかなくなります。今日の聖書は「迷子になった羊」そして「家の中で迷子になった銀貨」の話に続いて、「放蕩息子」の話となりますので、この話もおそらく、迷子になった話ではないかと思うのです。

ある家族の中、家督を継ぐお兄さんはしっかり者。家族中が信頼を置いています。一方の次男は「自分はどうせ当てにされない」とばかりにやりたい放題を繰り返し、やがて食うにも困り、はっと気がついて家に戻り、父に赦しを乞う。この次男は、自由や解放ということを履き違えた挙句、生きる目的を見失ってしまいます。そして、生まれて初めて「貧困」という壁に打ち当たったことで、自分が人生の「迷子」になっていることに気がついた。「生きる」ことそのものが、実はとても尊いという真実に気がつき、父親に自分の負の行動を隠すことなく詫び、頭を下げて仕事を与えてくれるようお願いする。すると、父は次男の謝罪を受け入れて、彼が生きて帰ったことをすなおに喜ぶ。

しかし、しっかり者のお兄さんは苛立ちを隠せません。父親が「あのひどい」弟の謝罪をへらへらと受け入れたようで、家に迎え入れたことが面白くありません。自分ももっと自由に生きたかったのに我慢した。自分の希望も願いも犠牲にして、家族一族のために尽くしてきた。それなのに、苦労一つしたことのない弟は歓待される。さんざん迷惑をかけられた兄として、素直に喜べない気持ちは、わたしたちも共感するところ大かもしれません。

でも、このお兄さんも「迷子」になっていると思うのです。最初は家族のため、大切な人々のため、身を粉にする働き尽くめの毎日に、愛する家族のためですから何の不満もなかったことでしょう。しかし、生活が安定し、自分の役割や地位が確定してくると、だんだん「何のために生きているのか」見えなくなってきたのだと思います。

兄パターンかあるいは弟パターンか、わたしたちもきっとそれぞれなのでしょう。でもいのちの輝きと、生かされている事実に気がついたとき、常に大きな腕を広げて待ち続けていてくれる神の存在を忘れないでいたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「忍耐強い方」 2022.3.20

園庭に藤棚があるのですが、このとろこ何年も、ほとんど花芽をつけていません。原因をあれこれと想像し、専門家にもアドバイスをもらい、木の周りに肥料をやったり剪定の仕方を工夫したり、色々と試してみたけれど、なかなか咲いてくれないのだとか。それでも、ある年小さな花芽をひとつ見つけた時には、皆で喜び、他にも花芽がついていないかと熱心に探しました。そして、来年こそはもう少し…と期待したりしています。

イエスさまが「実のならないいちじくの木」のたとえ話をされました。その土地の主人は、自分の畑に植えたいちじくがもう3年もの間「実を探しに来ているのに、見つけたためしがな」かったので、園丁に「切り倒せ」と言いつけます。しかし園丁は、「今年もこのままにしておいてください」と頼みます。「木の周りを掘って、肥やしをやってみ」るから、「そうすれば、来年は実がなるかもしれ」ないから、と。そして「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言います。

では、このいちじくが翌年実をつけなかったら、切り倒されてしまうのでしょうか。いいえ、この園丁は、今年は、ではなく「今年も(このままに…)」と言っています。ですから、次の年も、もしかしたらその次の年も実を見つけられなくても、「今年もこのままにしておいてください」と主人に頼むことでしょう。来年こそは実がなるかもしれないから、と。

このいちじくの木がわたしたち人間だとすれば、この忍耐強い園丁はイエスさまかもしれません。期待されている実をみのらせることができないでいるわたしたちに、イエスさまは、周りを掘り、肥やしを与え、必要な時には剪定し、ひたすら見守ってくださっているのではないでしょうか。そして、その実というのは、神さまの願う平和ではないかと思うのです。

どうかわたしたちが、愛に基づく平和という果実を実らせることができますように。困難に次ぐ困難がわたしたちを襲ってきているようなこの時にあっても、忍耐をもってわたしたちを支えつづけてくださる方がいることを覚えて、祈りをもって進んでゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「狭い門から入る」 2022.3.13

「せまい戸口(←「門」とも訳される同じ言葉)から入るように努めなさい」
偏差値高めの私立、一流大学、有名企業入社などを目指す人はたくさんいるので、そんな「狭い門」に入れるよう自分を磨きなさい、といった意味で使われることが一般的かもしれませんが、聖書のこの言葉は「人に誇れる人生を手に入れる努力」という意味ではなく、「救いを得るにはどうしたらいいか」という流れの中で登場しています。

ある程度生活が安定し何とかやっていける、という階級の人々に対し、イエスさまは少し厳しいところがありますが、安定がいけないと言っておられるわけではなく、保身志向というか、手に入れた物を失わないためには目も耳も塞ぐ、自分を守るためには他人はどうなってもかまわない、といった姿勢に対しての指摘なのだと思います。不安定な生活を余儀なくされる時、あるいは不安定な心を抱えて苦しい時は、きちんと定収入があり穏やかな生活を送っている人々の人生が、夢のように美しく見えることがあります。そして、そんな生活を手に入れれば、自分も幸福になれるような気がして、みんなが求める広い門、つまり大勢の人が入っていくような安定した広い門に自分も向かおうとする。しかし、そんな広い門の中にいざ入ってみると、心の中に葛藤が生まれます。これが本当に、神さまが私に備えて下さった人生なのだろうか、これが果たして幸せなのだろうか、と。

この大斎節の40日間は、イエスさまの十字架刑がジリジリと迫るのを感じつつ、その物語を、ひとつひとつ噛み締める期節でもあります。わたしたちに「救い」、つまり人生の意義を見い出すこと、他の人と比較する必要のない「わたしの存在」そのものが尊いこと、わたしたちを大切に思う神さまの存在を確信すること、愛の力強さを信じること、をもたらすために、わたしたちのために十字架にかかる決断をしていくイエスさまの姿を追います。

「みんなが行くから」という理由で広い門に流されていき、その中に入って保身や諦めを決め込むのではなく、「狭い門」を見つけそこから安心して入りなさい、とイエスさまはすすめます。何故ならば「狭い門」は、あなただけのために神さまがわざわざ作られた門であって、あなた以外は誰も入れないからです。人と比較したり、争ったりする必要が全くない門でもあります。しかし「狭い門」は、人の賞賛を得られないかもしれず、周りから理解されにくく、価値も認められないかもしれません。でも、自分の門を見つけ出し、その門を入ることが叶うなら、わたしたちは最上の幸せを見出すに違いないのです。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「悪魔の試み」 2022.3.6

ガリラヤでの伝道を始める前、イエスさまは「霊によって荒野に導かれ、40日間、悪魔から試みを受け」たと聖書に書かれています。その間イエスさまは、ご自分の進もうとしている道について想い巡らし、ひたすら神さまに祈っていたことでしょう。40日間という長い間、どのような思いで過ごされたのでしょうか。

私事で恐縮ですが、かつて聖職への道を示され、そちらに進んでみようかと考え始めたとき、本当にそれでよいのか、それが神さまが示してくださった道なのか、いくら悩み祈っても確信が持てず、とても迷っていました。そんなとき、図書館でマザー・テレサの本に出合いました。そこには、彼女が自分の進む道について迷い、奉仕の道に進み始めてからもずっと悩み、祈り続けたことが書かれていました。他の人がなし得ないような奉仕の働きを始められた、多くの業績をなして人々からとても尊敬されているマザーのような人は、神さまの示された道を迷いなく進んで行ったに違いないと思っていたわたしにとって、それはとても意外なことでした。そして同時に、神さまに対する信頼さえあれば、迷い悩みながら進んでよいのだという励ましを受けたのです。

イエスさまはどうだったのだろう、と考えます。神さまの子なのだから、正しい方だから、与えられた使命をはっきりと自覚し、不安も迷いもなく宣教し、十字架への道を進んで行かれのだろうか。決してそうではないでしょう。人として悩み、苦しみ、迷いつつ進んで行かれたに違いありません。しかしそこには、揺るがぬ神への信頼がありました。3つの大きな試みをも退けたイエスさまに、「悪魔はあらゆる試みをし尽くして」離れてゆきました。

コロナ禍にあって、また人の命が大切にされにくいこの世の中にあって、わたしは、わたしたちは、そして教会は、どのように進んで行ったらよいのか。その道はたやすく見つけることはできないかもしれませんが、神さまへの信頼を忘れず歩むところに光が与えられることを信じて、ともに悩み、迷いつつ進んでゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条知加子

「大斎節がはじまる」 2022.2.27

その時、イエスさまのお弟子のペテロさんはとても眠かったようで、何か大事なことがおきているから、しっかり見ておかなくてはと頑張ったけれども、イエスさまたち三人が話している内容が理解できず、眠気と戦いながらその場を耐えていた。それはちょうど、誰かが議会で答弁をしている間、不本意にも舟を漕ぎ鼾をかく様子がネット配信されてしまう議員たちのよう。2千年たった今も「ペテロさん、あなたはあんな大事な場面で居眠りしてましたよね」と繰り返されるのは、少しお気の毒かもしれません。

いろいろな解釈があるとは思いますが、「夢」とは別に、聖書の中の「眠り」は、その人が不在だということを示すひとつの暗号ではないかと思うことがあります。つまり「心ここにあらず」と言ったりするように、外見はそう見えなくても、心がそこに無ければ、その人はそこには居ないと。ペテロさんは積極的に居なくなろうとしたわけではないですが、その時点では「居られなかった」という話ではないかと思うのです。

先週、ハードルの高すぎる「愛すること」のお話をしましたが、この時のペテロさんも「愛すること」の意味をおそらくわかっていなかったのでしょう。そしてまた、これから起ころうとしているイエスさまの十字架が何故必要なのか、まるで失敗者のように惨めな最後を遂げられることも含めて、わけがわからなかったのだと思います。そして、「小屋を三つ建てましょう」などと口走りますが、まだこの世的な成功、つまり皆から称賛を得ることや、理解され歓迎され喜ばれるイエスさまのイメージしか、思い描いていなかったのかもしれません。

それでも、です。神さまはペテロをはじめとしたお弟子さんたちに、イエスさまの生涯を語り伝える役割を託しました。わたしたちは、この後の聖書の物語を読んでいるので、イエスさまが一番辛いその時に、自己保身のために逃げ出し、言い逃れの嘘もついてしまう彼らであることを知っています。でも「だから駄目」なのではなく、底辺の底辺から180度転換して、イエスさまの伝える「愛すること」を伝える使命に、いのちがけで取り組んでいく弟子たちに変えられた。それは、無力で人の役にはとても立てないように感じるわたしたちも、「愛すること」の真意を受け取る可能性が開かれ、人生が変えられていくということなのだと思います。今年は、3月2日から大斎節が始まります。わたしたちの本当の心の姿、弱さ、情けなさをすべて受け止めた上で、愛することを教えてくださっている神に、一瞬でも顔を向けることが出来ますように!

牧師 司祭 上田 亜樹子


「敵を愛する」 2022.2.20

誰でも、自分と関係が良い人を愛することは易しいものです。けれども、関係が悪くなってしまうと、その相手を愛することは難しくなります。それは、同僚であれ、友人であれ、家族であれ、同様でしょう。ましてその相手が「敵」であるならば、とてもじゃないけれど愛することなどできない、と感じるのが普通でしょう。それなのに「敵を愛しなさい」とは、どういうことなのでしょう。

また、憎まれたら憎み返し、呪われたら呪い返したくなる、それが一般的な感覚ではないかと思うのですが、聖書では「あなたがたを憎む者に親切にし」「呪う者を祝福し」なさい、また「奪い取る者」にはそれ以上に与え「取り戻そうとしてはならない」と言っています。

そんなことは無理だ、と思います。けれども一方で、もしかしたら私たちは、人に何かを与えるという時、相手から同じだけ返してもらうことを期待しているのかもしれない、あるいは何か取られたら、同じだけ取り返さないと気が済まないのかもしれないと気づかされます。同時に、与えることができる人は、すでに多くを与えられているのだ、ということにも気づかされるのです。そして、与えてくださっているのは、神さまだと。

いま自分が持っているものは、すべて神さまからいただいたものだと感じることができる時、私たちは「求める者には、誰にでも与え」ることができるのかもしれません。また、愛するよりも先にまず、神さまから愛されていることを知る時、私たちは「敵」を愛することができる者とされるのではないでしょうか。

神さまは私たちを豊かに愛し、必要なものをすべて与えてくださっています。その慈しみ深さに信頼して、私たちが、愛し合える関係を築いて行けるようにと願い、祈ってゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「幸いな人は、神からの力を見る」 2022.2.13

宗教の目的は、「人として幸せに生きる道」を示すことであるはずなのに、今日の福音書の中でイエスさまは、貧しかったり飢えていたり泣いている人々を「幸いである」と表現します。「幸いである」と言われても、「泣く人はラッキー」と言われているようで、なんだかついていけない気持ちになります。

わたしたちは、人と比較して「幸いである」かどうかを測ってしまうことがあります。誰かに「経済的に恵まれていて幸いですね」と言っても、そうですねとはなかなか返ってきません。それはどこかで、「もっと上」の人に比べて自分の幸せ加減はまだ薄い、と感じているからなのかもしれません。「勉強をする機会があって幸せですね」と言われても、「もっと恵まれている人はいる」と心の声は響き、そんな人々をうらやましく思う気持ちだけが膨らんだりします。生きるには必要なのですが、地位・学歴・収入を、他者との比較で捉えると、「幸いである」と安心して言えないような現実があります。

ここでイエスさまが言われる「幸いである」という言葉ですが、辞書によると「神々における、不安、労働による苦しみ、死のない至福の状態を示す」意味とのこと。英語では「blessed」〜祝福されている〜と訳すのが一般的で、カトリックの本多哲郎神父は「神からの力がある」と訳します。

誰しも、貧しかったり飢えていたり泣くような人生は避けたいです。でもそんな状態にある時こそ、神さまを身近に感じることができる、と言っておられるように思うのです。普段は心に壁を築いて、神さまの愛や慈しみを妨害してしまう人々も、貧しく飢え泣けてくるような節目には、その壁が打ち砕かれ、万人に満遍なくずっと注がれてきた太陽の光のような暖かさの存在を認知するチャンスなのだと。つまり「非の打ちどころの無い自分」ではなく、無防備な状態で生きるしかない時こそが「幸いである」と言っておられると。わたしたちも「神からの力」を望み見る心を持ちたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「疲れ果てているとき」 2022.2.6

ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の湖畔で、舟からおりた漁師たちが網を洗っています。その日は一晩中漁をしたのに、悔しいことに何も撮れなかったのです。きっと皆くたくたに疲れて、そろそろひと眠りしたいと思っているところだったかもしれません。

そこへイエスがやってきて、漁師の一人シモンに、自分を舟に乗せて岸から少し漕ぎ出してほしいと頼みます。疲れ切っていたシモンでしたが、言われたとおりに舟を漕ぎ出しました。岸に集まっている人々に向かって話をした後、イエスは沖へ漕ぎ出して漁をするように言われます。シモンは「こんな時間から漁をしたところで何も捕れるはずがない」と思ったけれど、この人がそう言うのなら、もう一度だけ…と思って網をおろしてみました。すると、信じられないほど沢山の魚が捕れたのでした。

漁師として生きてきたシモンは、プロとしての経験を頼りに漁をしてきたことでしょう。そんな自分があんなに頑張ったのに、成果が出せなかった。心も体も疲れ切っていたであろう彼に、にもかかわらず「もう一度」トライする力が湧いてきたのは、舟の上で人々に話をしていたイエスの言葉が彼の心を動かしたからに他ならないと思うのです。

「お言葉ですから」と、イエスという人の促しを受け止め、沖へと漕ぎ出した結果、それまで経験したことのないような大漁になるという思いもかけない状況に遭遇したシモンは、「すべてを捨ててイエスに従」ってゆきました。彼にとって“すべてを捨てよう”と思ってしまうほどの衝撃的な出会いが、出来事が、そこに生起していたということでしょう。

シモンの心に響いたイエスさまの言葉が何であったか、それがシモンにとってどんな出会いであったのかは、聖書に書かれていません。なぜなら、イエスさまの言葉も、その時に起こる心や体の変化も、客観的な言葉で説明できるような事柄ではなく、その人の内側で起こる、その人だけが経験する出来事だからです。

わたしたちが疲れ果てている時にこそ、イエスさまは「ともに漕ぎ出そう。一緒にいるから、もう一度やってごらん」とはげまし、声をかけてくださるに違いありません。

牧師補 執事 下条 知加子

「耳を傾ける」 2022.1.30

生まれ育ったナザレに行き、安息日に会堂で聖書の朗読に続いて話をされるイエスさまの言葉は、素晴らしい恵みの言葉でした。けれども、それを聞いた人々の反応は冷ややかでした。イエスさまは、聴衆(ユダヤ人たち)のそんな心の内を見抜いておられました。

「この人はヨセフの子ではないか。」この発言は、イエスという人がどんな境遇の人間かということを聞き手が判定している言葉です。同じエピソードがマタイの福音書では「母親はマリアと言い…」と語られていますが、これには“父親のはっきりしない子”という侮蔑の意味合いが込められています。そんな人間の言うことなど、自分たちが聞く価値はないと言っているようです。

次にイエスさまは、異邦人が救われたエピソードを、ユダヤ人が大切にしている聖書(旧約聖書)から引用して話し、ユダヤ人だからという理由では誰一人救われることはないのだということを示しました。すると、聞いていたユダヤ人たちは皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。

この出来事は、イエスさまがナザレで教え始められてすぐに、一日二日で起こったことではないかもしれませんが、そう長くない期間のうちに、イエスという人を排斥しようという動きが起こったのではないかと想像します。

私たちは誰かの話を聞く時、その人がどういう人かということを勝手な物差しでジャッジしてしまい、話の内容に関わらず、聞いたり聞かなかったりするということがあるのではないでしょうか。また、恵みがあると語られていたとしても、それが自分たち-しかも、特権を持っている自分たち-に恵みがあるという話ではないとしたらどうでしょうか。自分には関係ないと無視するだけでなく、“そんな人たち”に恵みがあるなんて許せないという、ある種の憎しみのような感情を抱いてしまうことはないでしょうか。

イエスさまの言葉が語られる時、自分たちの都合でなく、偏見を持たず、素直にその言葉に耳を傾けられる私たちでありたいと願います。

牧師補 執事 下条 知加子

「聖霊に包まれて生きる」 2022.1.23

私がかかわる別の教会で「礼拝の休止」や「ZOOMのみの礼拝」となったことをお知らせすると、数人の方が「またかと寂しい気持ちになりますが、一方でどこかホッとしている自分もあります」とお返事くださいました。礼拝がなくなってホッとしている、という意味ではなく、大切な方の命を危険に晒しながら、(ことにオミクロン株は、症状が全然出ない人もおられるので)知らない間に、誰かに感染させてしまっているかも、という不安を口には出さないけれどずっと抱えておられたことに、改めて気づかされました。

今日の福音書は、イエスさまが洗礼を受けられて聖霊に満たされ、故郷に帰り(ユダヤ教の)会堂で聖書を読み上げるシーンです。そして、わざと?なのか、それとも現代のわたしたちのようにその日に読まれる聖書の箇所が決まっていたのかは、わかりませんが、よりにもよって「貧しい人に福音を告げ知らせ、囚われている人に解放を、目の見えない人に回復を、圧迫されている人を自由にする」という旧約聖書イザヤ書の箇所が選ばれています。これはまさに、イエスさまの生涯そのものです。つまり、教養人や権力者、また人々から尊敬されている人などは、全く無視されています。それどころか、当時の社会で「神さまの恵みから漏れている」と決めつけられていた貧しい人、病気の人、抑圧されている人こそが、イエスさまからの愛を注がれる人であり、神さまがもっとも関心を持つ人々であると告げています。

しかしながらそれは、「かわいそう」だから、神さまが豊かに哀れみを下されるという意味ではなく、生きていることが苦しくてたまらない、なんとか自分の生き方を変えようと七転八倒している、努力してもいっこうに事態が改善されない、そんな人々の最も近くに神さまがおられる、その人々の苦しみや悲しさを理解し寄り添ってくださる、そういう神さまである、と告げに来られたイエスさまを、表していると思うのです。

今回のコロナ禍で、できなくなったことがたくさんあります。失ったこともたくさんあります。未だにどうしたらいいのかわからないことも多いです。でも、今すぐ変えることのできない現状に、圧倒的な無力感を感じて立ち尽くすのではなく、わたしたちは今この瞬間も、神さまの霊に包まれて守られていることを思い出したいのです。自分でなんとかして不都合なことを捻り伏せようと力むのではなく、聖霊が働くのを邪魔しないこと、これもまた、神さまへの大きな信頼ではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子




「カナの婚礼で」 2022.1.16

イエスと弟子たちが招かれた婚宴の席は、多くの人々が招かれて一週間ほども続くような大きな催しでした。そこでは沢山のぶどう酒が必要でした。そんな最中、その大切なぶどう酒が足りなくなるという事件が起こります。それはあってはならないこと、人々を招いた側にとっては大変な事態でした。

母マリアがイエスに、ぶどう酒がなくなったことを訴え、助けを求めます。そして召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。イエスは、水がめに水をいっぱい入れるように言いますが、そこには80~120リットルも入る石のかめが6つもありました。水は井戸から汲んで来なければなりません。井戸は2㎞位離れた所にあったと思われます。空身で歩いても20分くらいはかかるその道程を、水を運ぶのは大変な仕事です。召使たちは一生懸命重たい水を運び、かめの縁まで水を満たしました。そして、イエスに言われるままに、その水を改めて汲んで宴会の世話役のところへ運んで行くと、何と美味しいぶどう酒になっていました。人々は大変驚きます。

一番驚いたのは、その水がどこから来たのかを知っている召し使いだったかもしれません。汲んできたのは確かに水だった。水は水でしかないはずなのに…。けれども、水は生活のため、私たちが生きて行くため、命のために欠かせないものです。毎日井戸からせっせと水を汲み、飲んだり、料理に使ったり、身体を洗ったり。そんな日常そのものの中に「命」があるのです。

ぶどう酒が無いという訴えは、婚宴にはぶどう酒が欠かせないという常識、私たちの‟こうあらねばならない”という思い込みから発せられているのかもしれません。大切なのは常識ではなく、水(命)そのものであることを、私たちは忘れがちなのではないでしょうか。

イエスさまに頼り、イエスさまにお任せしたとき、無味無臭で価値が薄いと思い込んでいた水が、実は芳醇で美味しいぶどう酒(とても価値のあるもの)であることに気づく。常識を破るこの出来事(しるし)を見た弟子たちは、イエスを信じました。

水からぶどう酒に変えられるのは、私たち自身かもしれません。すべての人の命が、イエスさまの光によって解放され、その輝きを取り戻してゆきますように。

牧師補 執事 下条知加子

「洗礼の意味は?」 2022.1.9

クリスマスの季節が終わり、1月6日から顕現(=いろいろなことが明らかになるという意味)節に入りました。そんな顕現後の主日は、バプテスマのヨハネと、イエスさまの洗礼の記事です。それにしても「洗礼」とは何でしょうか。イエスさまにとって、洗礼を受ける前と後では何かが変わったのでしょうか。信徒ではない方々からはしばしば「洗礼を受けると、不安がなくなるのですか」というようなことを聞かれることがあります。これは「その通り」の部分と、「ちょっと違うかな」という両方の部分があると思います。

「その通り」については、とにかく精一杯、自分の生涯を生き切れば、最終的には神さまがどうにかしてくれる。失敗したり、不十分だったりしても、わたしという存在を否定なさることは決してなく、「よくやってくれたね」という眼差しで迎えてくれるような安心感はあります。生きている以上、様々な選択や決断をしなければならないことは多いですが、結果が正しかったのか間違っていたのか、ずっと後になってもわからない時もあります。また、その時は我が意を得たりと自信満々でも、だんだんその思いが濁ってくる時もあるでしょう。でも、神さまの時間の中で生かされ、限界や弱さを抱えたまま我々は、自分に出来ることをやればいいし、完全さを自分に強いなくて良い。そのままで神さまが大切にしてくださる、という意味では、「その通り」なのかもしれません。

一方、「ちょっとちがうかも」の部分は、洗礼を受けると嫌な目には合わなくなる、という意味では、ちょっと違うかなと思います。洗礼を受けても、相変わらず迷ったり苦しんだり、悲しいことが起きたり、人に誤解されたり、という、人生の苦しみは避けられないです。

な〜んだ、そんなことなら、洗礼を受ける意味はないじゃないか、ということになるかもしれません。でも、もし「洗礼」ということを、「損か得か」というような視点で捉えてしまうと、イエスさまが伝えようとされた一番大切な核心を見失う気がするのです。礼拝に「慣れて」きたり、聖書の知識が増えたり、キリスト教や教会の伝統やしきたりをたくさん知っていたり、ということは、イエスさまが命がけで伝えようとされたこととは、全く別のことだと思うのです。

そうではなく、神さまの愛に触れること。社会がどう否定しようと、人々が何を言おうと、わたしたちが疑おうと、神さまは揺るぎなく、わたしたちを愛してくださる、そのことを信じること、信じようとすることが、洗礼を受ける、という内容なのだと思います。

わたしたちは礼拝を通じて、神さまの愛に触れます。また、一緒に聖書を読んだり語り合ったりして、ひとりでは気がつかなかった神さまの世界を知ります。それらが、必ずしも都合の良いことばかりとは限りませんが、概念的に頭で理解できたら神さまがわかった、ということではなく、心の一番底にストンと落ちるというか、世界がちがって見えてくるような「神さまの世界」を、本当に信じて生きていきたい、ということが一番、基にあるように思います。

イエスさまは、神さまの愛の中でこの世に送り出された。そして、改めて「神さまの世界」をこの世に伝えるために生かされている、そのことを身体に刻みつけるために、改めてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「弱さを持っているからこそ」 2022.1.2

モーセは言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記 31:1-8参照)

不可能とさえ思える神の召し出しに応えて、「奴隷の家」エジプトから同胞たちを導き出したモーセは、約束の地を目前にして自分の後をヨシュアに託すこととなりました。モーセもヨシュアも神に選ばれ召し出された人ですが、彼らに並外れた頭脳や体力、強固な信仰があったわけではありません。むしろ人として、弱さを持ち、それを深く自覚している者だからこそ、民を新しい天地に導く使者として選ばれたのです。

弱さ・足りなさのゆえに恐れを抱くヨシュアに、神は繰り返し「強く、雄々しくあれ」と呼びかけます。神は、困難な道程を行く彼をはげましつつ、常に民とともに歩もうとされました。

牧師補 執事 下条 知加子

「神への信頼という原点へ」 2021.12.26

旧約聖書の一番始めに位置する「創世記」は、書かれた年代が一番古いわけではありません。しかも聖公会の教会では、創世記が記すストーリーを文字どおり「こうやって人類が誕生した」とは考えていないのですが、それでもなお、「人が生きるは何のためだろうか」という問いに応える神話として、含蓄は深いものがあります。

今日の特祷では「(神は)驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造」り、「さらに驚くべきみ業によりイエス・キリストによって、その似姿を回復してくださ」ったとありますが、この2つが並列していると、以下のように読む人がいるかもしれません。

目に見えない神さまを、そっくりそのまま目に見えるかたちにした被造物がわたしたち人間であり、最初から「完全無欠で完璧な存在」として造られた。しかしその後、人類は途中で道から外れ、神が意図した「完全さ」から離れていった。元の「神のみかたち」に戻すため、イエス・キリストがこの世に送られ、十字架刑によってわたしたちは、神に似た存在へと復帰したと。新約聖書の中にも似た表現があるので、「傷のない神の似姿に復帰した状態が、わたしたちの本来の姿」という認識を強めてしまうかもしれません。でも、本当にそうなのだろうかと疑問にも思います。創世記の「甚だ良かった」という表現は、果たして「傷のなさ」を意味するものなのでしょうか。神さまが望んでおられるのは、わたしたちが失敗を避け汚点を作らないことなのでしょうか。

わたしたちがこの世界で、うまく生きていくためには、失敗を避けることは必須でしょう。しかも人にわからない範囲なら、心の中で何を考えていても自由だし、誰にもバレないと思っています。だから、人に知られるような汚点を持つことや、失敗を指摘されることを非常に恐れている、というのが正直な心中かもしれません。こんな現実の私たちが、イエスさまの十字架によって回復されなければならないのは何なのか。それは間違いをしでかさない強靭な精神力や完璧さではなく、神への混じり気のない信頼なのではないかと思うのです。何をしていても、あるいは何もできなくても、神さまが全てを統治し、無駄なことは何一つないのだと心の底から信じること。それが信仰の核心であり、そして神へのそんな信頼は、わたしたちを本当の意味で自由にしてくれるはずです。今年の最後に今一度、神さまへの信頼があなたを自由にしているかどうか、心に手を当てて問うてみましょう。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「マリアの賛歌」(アヴェ・マリア) 2021.12.19

イエスの母となったマリアが天使ガブリエルから「身ごもって男の子を産む」と告げられたのは、ヨセフと婚約中でまだ結婚する前、しかも彼女がまだ13~14歳という若さのときでした。あり得ない、あってはいけないことが身に起こる、あるいは起こってしまった。マリアはきっと、誰にも相談することができず途方に暮れ、思い悩み、苦しんでいたことでしょう。その戸惑い・不安はどれほどだったでしょうか。

マリアは、天使が話していた親戚のエリサベトおばさんになら相談できるかもしれないと思い立ち、急いでユダの山里エインカレムに向かいます。エリサベトは長い間子どもができなかったのですが、かなり高齢になってから願い叶って子を宿していました。聖書に詳細な記述はありませんが、エリサベトはマリアの話をしっかりと聴き留め、彼女の戸惑い、悩みを暖かく受け止めたに違いありません。高齢になるまで子どもを授かることなく、長く不妊の女として神さまの祝福から遠いと思って過ごしてきたエリサベトだからこそ、マリアの苦しみを理解することができたのではないかと思います。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」と伝えます。そして「お言葉どおりこの身になりますように」と神さまにゆだねたマリアを「なんと幸いでしょう」と祝福するのです。

エリサベトのところに3か月ほど滞在している間、マリアは沢山話を聴いてもらい、色々なことを考え、思い巡らしたことでしょう。そして、あらためて神さまを信じて歩んでゆく決意をしたのだと思います。そこで生まれたのが「マリアの賛歌」です。貧しく、取り立てて地位もなく、世間的に許されない状況に追い込まれてしまった私に神さまは目を留めてくださった! 神さまはそういう方なのだというマリアの目覚めから生まれた賛美の歌。

日々の夕の礼拝でささげられ、アヴェ・マリアの祈りとして唱えられ、沢山のアヴェ・マリアの曲が作曲されている「マリアの賛歌」。この賛歌を歌い唱えるとき、神さまの祝福そして救いが、私たちに、そして多くの人々に訪れることを願い、祈りたいと思います。 

牧師補 執事 下条 知加子

あなたの「お役目」 2021.12.12

今週もまた、バプテスマのヨハネの話が続きます。ヨハネのもとには、洗礼を受けようと、たくさんの人が集まって来ましたが、誰でも無条件に洗礼を授けてもらえたわけではなさそうです。どんな人が洗礼を受けることができ、誰がお断りされたのか、物語を読んでいきましょう。

まず、由緒正しい家柄の人たちがやって来ます。自分たちはきちんと伝統を守り、礼拝や献金もしている「アブラハム」の子孫なのだから、他の人たちより優れていると、どこかで思っています。まさか洗礼を受けたいと申し出て、お断りをされるなんて夢にも思っていません。
そんな人々にヨハネは、そのままでは神の国には入れないと伝えます。安定して衣食住が確保でき、生きていく上での様々な必要を心配なく満たせるのは、むしろ特別なこと。伝統を守れず、礼拝に出席したくても出席できない人々を、見下すような心根は、神の国から遠く離れていると指摘します。そして、自分たちが当然と思っている特権を分かち合うよう勧めます。

次にやって来たのは徴税人と兵士たちでした。徴税人は、税を集める仕事ですが、その業務に対しては対価が支払われないので、生活費を上乗せして税を集めざるを得ません。中には法外な金額を要求する裕福な徴税人もいるので、とても嫌われています。
一方、兵士は、ローマ帝国に属する下っ端です。命は尊重されず、ある意味消耗品のように使い捨てられ、しかし暴力を奮ったり、権力を笠に着たりする兵士もいて、ユダヤの人々にとっては帝国支配者の手下です。できれば口もききたくないし、目も合わせたくない存在です。

ヨハネはこの人たちに対して、洗礼を受けるためには、まず今の仕事を辞めて出直して来なさい、とは言いませんでした。そうではなく、騙したり恐喝したり乱暴をふるったりするのはやめて、まず自分の与えられた場で、役目を果たしなさいと勧めます。それは、その人々にとって簡単ではないにせよ、人としての存在を認める知らせです。

ヨハネが行っていたバプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていました。しかし、気持ちよく生活するために、洗礼を受けてさらに人生のグレードアップを目指しましょう、という話ではなく、余計なものや不必要なものを振り捨て、質素な生活に立ち返り、本来の自分の役割に目を向けるという強調点があったようです。

わたしたちには、それぞれこの世での「お役目」がありますが、気がつくとあまり大事ではない飾りに埋もれて、見えなくなっていることも多いのではないでしょうか。また、時にはそれを不満に思い、損をした、不公平だと感じたり、もっと楽に得をする道を探したくなったりもします。
でも、何をしていても、一見幸福なように周りからは見えても、実は自分の「お役目」を見失い、忠実に生きられない人は不幸です。紫の季節、余計なものをまといたくなる誘惑を振り捨てつつ、わたしたち自身の本当の「お役目」に耳を澄ませたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「悔い改め」 2021.12.5

悔い改め」という言葉を辞書で引いてみると、“キリスト教で、らの懺悔してにゆるしをうこと”と書かれていました。今まで沢山聞いてきた言葉なので、それがいわゆる‟キリスト教用語“だということに少し驚き、悔い改めるとはどういうことなのか、あらためて考えてみました。

いことをしてしまったとき、あるいはいことをしていることにがついたとき、相手ること、ごめんなさいとうことは、人間関係ではとても大切なことです。ごめんなさいと言う時、そこにはおそらく「もう(同じことは)しないようにします」という気持ちが含まれているように思います。では、悔い改めることは、神さまにごめんなさいを言うことなのでしょうか。

今日まれた福音書にあるイザヤ言葉に「はすべてめられ、はみなくされる」とあります。沢山があり、たくさんのがある世界が、人々めることによってらにされていく、というにとらえることができるようにいます。

たちが生きている世界も、谷=低い所と、山や丘=高い所が数えきれないほどあります。もし高い山の上にいる人がその山頂から谷の底にいる人に向かって「ごめんなさい」と言ったとしても、その声は遠すぎて聞こえません。心から謝ってその気持ちが届くようにするためには、山を崩して、その土で谷を埋めて、お互いに同じ平面に立つ必要があるのです。

まず、自分がどこに立っているか、あらためて見つめ直してみることが大切ではないだろか。そうして、自分の行いを振りかえり、思い巡らし、同じ過ちを繰り返さないためには自分はどう変わって行けるのか、神さまに問うてみる。それこそが悔い改めであり、世界が平らになっていく一歩になるのではないか。

降臨の2週目そんなことを思い巡らしてみたいと思います。    

 執事 下条 加子

「暗闇からはじまる」 2021.11.28

前にもお話ししたかもしれませんが、イエスさまがおられたユダヤの習慣では、日没後に一日が始まりました。太陽が西の空に沈むと「今日」が終わり、新たな1日が暗闇から始まるのです。朝は必ず来ると知ってはいても、何も見えない闇の時間は、なんとも長く感じられたにちがいありません。時計を持っていない当時の人にとっては、夜は不安がいっぱい、時には恐ろしい時間だったことでしょう。闇の中で野獣の唸り声が聞こえれば身がちぢみ、遠くの方で雷が落ちて谷にこだますればぎょっとして跳ね起きたかもしれない。そんな「一日の始まり」を過ごしたのでしょう。

今日から始まる新年、そして降臨節は、2つの異なるテーマが同時に存在します。一つは赤ちゃんの姿でわたしたちのために生まれてきてくれたイエスさまを迎える準備のとき。もう一つは、世の終わりが来て、今まで曖昧であった正義と不正義がはっきりするための備えのとき。この2つは、まるで違うようにも感じますが、1日の終わりがまず暗闇から始まる生活習慣を伝統として守ってきた人々にとっては、そんなにかけ離れたテーマではなかったのかもしれません。

都会にいるとなかなかピンと来ませんが、夜のとばりの中では、何か困ったことがおきても、おいそれとは助けを求めにくいものです。危機的状況に直面しても、誰かに知らせるのさえ難しいことがあります。そしてそれは、荒れ野や村はずれに住んでいた聖書の人々の生活状況ということに留まらず、今を生きるわたしたちも、同じような難しさを抱えています。困ったことがずっと解決できなかったり、疲労困憊して何も考えられなかったりすると、本当は助けを求めて動かないければならないのに、どうにも声をあげることさえ難しくなります。また、困り切っている自分の状態を誰も知らず、知らせる意味も見えず、さらに自分を追い込むことになります。そんな時のわたしたちは、自分の弱さをいやというほど思い知らされます。それなりにうまく乗り切っている時は、自分の弱さのことは忘れ、ある意味自分をもうまく誤魔化してやりくりしていますが、ごまかしも底上げも通用しない時がやって来た時、本当の自分の姿を見ることになるのです。その時がいつ来ても大丈夫でしょうか。降臨節のメッセージは、もう一度ご自分を見つめ直し、「今の生き方で大丈夫ですか?」という問いに向き合うよう、招いているのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「どういう罪で?」 2021.11.21

“ピラトから尋問される”という小見出しがつけられた今日の福音書の箇所を読むと、イエスという人が、罪と認められることは何一つしていなかったのに、死刑の判決を受けることになったと書かれています。ヨハネによる福音書のその前後を読んでみても、イエスにはっきりとした罪は認められていません。

ユダヤの大祭司カイアファのもとで、何か悪いことをわたしが言ったのならその悪いところを証明しろと言ったイエスは、態度が悪いというだけで平手打ちされ、ローマの総督官邸に連れて行かれます。総督ピラトは、罪が認められないままイエスを鞭で打たせ、兵士たちは茨の冠を頭に乗せます。そして最後はイエスは死刑に、しかも十字架に架けられて公開処刑されることとなりました。


なぜそんなことになってしまったのか。イエスを無き者にしようとたくらんだ人たちがいたのはもちろんですが、沢山のユダヤ人たちが、イエスを「十字架につけろ」と叫んだからです。そして、イエスが殺されることを他人事として傍観していた人々も、彼を死に追いやったといえるでしょう。


今の日本には磔刑(十字架刑)こそありませんが、罪のない人が罪に問われ、死に追いやられることはいくらでもあるように思われます。権力によって、あるいは多くの人の声によって。沢山の人々の叫び声は、出来事の本質を見失わせ、本人やその人を支えようとする人々の声も主張もかき消してしまいます。そして、その人に起きている出来事を他人事として傍観する人びともまた、彼/彼女を死に追いやってしまうのです。

 
年間最終主日(日曜日)の今日私たちに与えられた福音書の物語は、かの幼子が何のために生まれてくるのかということを、あらためて思い起こさせてくれます。来週から始まる教会暦の新年、アドベント(降臨節・待降節)。キリスト・イエスを迎える準備の時として心豊かに過ごすことができますように。       


牧師補 執事 下条 知加子

「ニセモノとの対峙」 2021.11.14

昔々、「エクソシスト」という映画がありました。かわいい少女に何かが取り憑いたので司祭が呼ばれ、悪霊払いのため四苦八苦といった内容だったと思います。でもこの映画では聖書に登場するような「悪霊による心的身体的異常/疾患」の話ではなく、主人公の少女の目つき顔つきが別人のようになり、家族を傷つけ罵り続ける、という怖い内容でした。呼ばれた司祭は、その少女の心身の解放を祈り求めましたが、全然効果はありません。また、時間が経つにつれ悪霊もいろいろと策を練ってくるようになります。まず、親しい友や尊敬する先輩の声音を使い、「そんなことをしても意味がない」と説得にかかります。それでは効かないので、今度は亡くなった司祭の母親になりすまし、諦めるよう泣き落としにかかります。

ところで、今日の福音書が書かれた時代(実際にはイエスさまが生きた時より少し後)は、イエスさまを信じる人々が窮地にありました。ユダヤ教からもローマ帝国からも迫害を受け、みつかれば次々と投獄され、処刑されるような日常で、誰を信じたらよいのか、何をどうしたら状況を変えられるのか、本当に誰もわからない。少しでもわずかでも、今持っているものを失わないように努力する以外、なすすべがありませんでした。そんなときは、生きるために努力をしたり、あれこれと大切な決断しても、無力感に打ちひしがれ、虚しくなります。そんな絶望的な気分になると、ニセモノのスーパースターがあらわれ、少し変だなと思っても、なんだかすべて解決してくれる妄想に皆が取り憑かれてしまい、すがりつきたくなります。

わたしたちも、実は似たような窮地に追い込まれることがあります。どうしたものか苦しみ悩んでいるとき、自分のもっとも弱いところを突いてくる悪霊の声に惑わされそうになります。「これが皆にウケる」「こちらがトク」とささやき、思考停止へと誘導します。ニセモノほど本物らしく振舞いますが、様々な苦難を乗り越えニセモノとの遭遇にひるまず、正しい決断をして来た人には、今度はさらに高度なニセモノが接近して来ます。しかし、惑わそうとする声が勝手にやって来るのではなく、私たちの中にある[欲を求める心]に共鳴して引き寄せられて来るのではないでしょうか。そんな時わたしたちは心を奮い立たせ、主のみ心がどこにあるのか真っ直ぐに顔を向け、神が大切になさりたいことを見極めたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「持っている物をすべて」 2021.11.7

イエスは教えの中で、「律法学者たちに気をつけなさい」と言っています。律法学者と言われている人たちがどんな振る舞いをしていたかというと、「長い衣をまとって広場を歩き回」ったり、「広場で挨拶されること」を望んだり、「会堂では上席、宴会では上座にすわることを望」んでいました。また、「見せかけの長い祈りを」していました。どうしてそういった行いをするのでしょう。それは、人々に見せるために他ならないと思います。人々に見てほしくて、それらのことをしているのです。最近ではマウントを取るという言い方がされたりもするようですが、自分の優位性を相手や周囲に示す行為と言えるでしょう。ついそのような行為をしてしまったり、そんな気持ちが心の中に起こることは、私たちにもあるのかもしれないと思わされます。

一方、レプトン銅貨2枚(100円位?)を賽銭箱に入れたやもめは、その行為を人びとに見てほしくてやったのでしょうか。彼女は「大勢の金持ちがたくさん入れている」中で、それしかささげるものがないことに、肩身の狭い思いをしていたのではないかと想像されます。ですから、目立たないようにこっそりと賽銭箱に入れたに違いありません。それでも、それは彼女の持っている物すべてでした。「生活費」と訳されているbiosというギリシャ語には、“人生”、“生活”といった意味もあります。ですから、“生活のすべてをささげた”と受け取ることもできるでしょう。

列王記上17章に登場するサレプタのやもめは、手元にわずかに残っていた小麦粉と油を食べてしまったら、後は自分も息子も「死ぬのを待つばかり」だと思っていました。ところが、神の人エリヤに、言われたとおりまず小さなパン菓子を作ってささげたところ、「壺の粉も瓶の油もなくなら」ず、食べるものに事欠くことはなくなったのです。

たとえわずかであっても、自分の持っているもの、生活、人生のすべてをささげるとき、神さまはそれを価値あるものとして受けとめ、私たちを豊かに養ってくださるのです。

牧師補 執事 下条知加子

「諸聖徒日」 2021.10.31

キリスト教では11月1日を諸聖徒日(諸聖人の日、万聖節)、11月2日を諸魂日(死者の日、万霊祭)として覚え、記念しています。日本にはお盆(7月または8月)というものがあり、亡くなった先祖をお迎えして供養します。先にこの世を去った人たちを思うという点では同じかもしれないのですが、違っているところもあるように思います。この世を去った人たちと地上にあるわたしたちとの距離感が、その一つではないかと思います。

聖餐式の“感謝聖別”の祈りの中で司祭は「み使いとみ使いの頭、および天の全会衆とともに」と唱えます。それは、地上にある私たちだけで礼拝しているのではなく、天にいる人びとと一緒に祈りをささげているということです。人の地上での命は有限で、いつか必ず死んでその体は葬られ、生きている私たちの目には見えなくなる。けれども、消えて無くなってしまったわけではなく、神さまに招かれてその御許にいるのだという信仰です。

墓地で礼拝する毎に、またご葬儀の度に私は、亡くなった人たちがいるはずの世界、というか空間のようなものをあらためて意識させられます。普段は忘れているものが不意にづいてくるような感じと言ってよいでしょうか。すると、その世界は、どこか遠いところにあるのではなく、見えていないだけで実はいつも私たちのすぐそばに、いつもあるのではないかと思えてきます。そして時に、そちら側に移されて行ったあの人・この人の生きている姿が私に迫ってくることがあるのです。

明日から11月。諸聖徒日・諸魂日を覚えて、関係の各霊園・墓地で逝去者を記念する礼拝がささげられます。今年は残念ながら、感染症予防のため合同礼拝は行われませが、それぞれの墓地においでになる方もおられるでしょうか。死者の月として覚えられているこの月、逝去されたご家族や信仰の先輩たちを思い起こし、み国での平安を祈ります。そして、今一度自分自身を振り返る時として、大切に過ごしてまいりたいと思います。

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイによる福音書 5:11)

牧師補 執事 下条知加子

「靴屋のマルチン」 2021.10.24

年末が近づく気配がすると、どうしても思い出してしまうのがトルストイ原作の「くつやのマルチン」です。文学としてだけではなく、かわいい挿絵の絵本もたくさん出ていますので、きっと一度はお読みなったことがおありかと思います。マルチンは、年取った靴屋さんですが、息子も妻もだいぶ前に亡くなり、喜びも楽しみもないまま半地下の作業場で靴の修理をしてきました。「心の中には悲しい涙がいっぱい詰まっていました」というくだりがあり、もうすでにここでグッと来てしまいます。作業場にしつらえた小さな窓から見える、行き交う人々の足元だけが、マルチンの外の世界とのつながりでした。でも生きている意味もわからなくなっている彼には、それは目に入りません。

ところがある晩の夢で「マルチン、明日行くからね」というイエスさまの声が聞こえます。半信半疑のマルチンですが、さあ翌朝からは、窓の外が気になって仕方がありません。ふと外を見ると雪かき作業に疲れ果て、呆然としているおじいさんがいます。今まではそんなこと考えたこともなかったのに、お茶をご馳走することを思いつき、作業場の中に入ってもらって暖かなお茶でもてなすと、雪かきのおじいさんは「心もからだも温まって」帰っていきます。しばらくしてまた窓の外を見ると、雪の中なのに薄着の女の人が赤ちゃんを抱いて震えています。マルチンが暖炉の前へと招き、スープとパンの残りでもてなし、自分の上着を差し出すと、朝から何も食べていなかったその人は泣き出してしまいます。でも、マルチンがあげた上着に赤ちゃんをしっかりくるむと、元気を出して帰っていきます。そんなこんながあった1日でしたが、イエスさまは来なかったし、やっぱり幻想だったのかと落胆するマルチンに、再びその声は訪れます。「おじいさんも女の人も、それからあの人もこの人も、あれは全部わたしだった」と。

「不幸」ではないけれど、社会の中で「不便な」状況に置かれた人のところへ、イエスさまは真っ先にいらっしゃる。そして、やがてそのことに気がつくわたしたちを待っている、ということなのかもしれません。不便な状態に追い込まれるのは誰でも嫌ですが、でもそうなったのは、自分の落ち度でも、何かのバチが当たったのでもなく、恥じることでもないと聖書は明言します。それこそマルチン本人もまた、生きる意味を見失い、「涙のいっぱい詰まった心」をどうすることもできず、感謝も感動も喜びもない、言わば屍のような毎日を、とても「不便に」過ごしていた一人でしょう。そんな地下室からもっと広い世界へと、やさしく連れ出してくださるイエスさまの物語です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「見ていてください」2021.10.17

昨日は葛飾学園(保育園)のプレイデーでした。昨年に引き続いての感染症予防対策で、競技数を減らし、第1部(0~3歳児)と第2部(4・5歳児)に分けて完全入れ替え制に、観覧席も入場制限ありという、例年とは少し違った運動会となりました。でも、朝からパラついていた雨は開始時刻にはピタッと止んで青空も…。すべての競技が無事に行われました。

保育園の先生たちが、沢山の手をかけ時間をかけ、心をこめて準備してきたプレイデー。こどもたちも一生懸命練習して、本番に臨みました。けれども、お天気も然り、本番では何が起こるかわかりません。乳児クラスでは、普段は上手にできている子が大泣きしてしまったり、予想外にスムーズに競技に参加できていたり。かけっこでは一人の幼児さんが転んでしまって、起き上がって走り始めた途端片方の靴が脱げてしまい、それでもあきらめずに最後まで走り切りました!練習のときには多少の不安が残っていた(?)組体操、本番ではものすごく上手にできました。年長さんの和太鼓も立派でした。沢山のドラマが生まれ、泣き笑いがあり、保護者の方たちも先生たちもきっと、涙が出るくらい感動したのではないかと思います。

私たちの人生においても予想外のことは次々に起こります。念入りに準備して、一生懸命努力したとしても、そうそう思った通りにはいかないのが常ではないでしょうか。想定外のことが起こって慌ててしまったり、もはやどうしてよいかわからなくなり、行き先の見えない暗闇の中に独り置いて行かれたような気持になることだってあるでしょう。そんな時、もし“誰かがわたしを見てくれている”ことに気づいたなら、もう一度立ち上がってみようと思えるかも知れません。

プレイデー第2部の最初に、みんなを代表して4人の年長さんが言ってくれた「はじめのことば」に、「神さま見ていていください」という言葉がありました。「見ていてくれる誰かがいる」というのはどんなに心強いことでしょうか。神さまの視線を感じつつ生きている彼らが、その視線の中にあって、これからも活き活きと生きてゆくことができますように。

牧師補 執事 下条 知加子

「手のひらを開くように」 2021.10.10

小さいときから、清く正しく生きようと、ずっと精進してきた信仰深いお金持ちが、イエスさまに聞きます。「どうしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」この人が聞いている永遠のいのちとはいったい何を指すのか、それも大変気になるところですが、詳細はさて置き、この人はこう言われてしまいます。「行って、あなたの持っているものを売り払い貧しい人々に施しなさい。」するとこの人はがっかりして悲しみながら立ち去っていきます。たくさんの財産を手放す気はなかったからです。

家族や自分のために一生懸命働いて築いた財産なのに、大切に蓄えておいたのに、それを全部吐き出して、世の中の困っている人々を助けなければ、神さまに顔向けできない、と言っているように聞こえたのかもしれません。財産の全部ではなく、一部だけなら施すとしても、自分の分をとって置こうとするのは、いけないことなのでしょうか。

ところでイエスさまは、この質問をした人を「慈しんで」返事をされた、と書いてあります。この人に対する非難の言葉も発していないし、貧しい人に施せないとは残念な人だとも言っていません。むしろ、たくさんの財産を失わないように管理する重圧に耐え、財産があるがゆえに不自由になっているこの人の心をいとおしむように、「何よりもまず守るべきは財産で、そこは変えないままで、可能なら『永遠のいのち』もほしいと思っていませんか?」と言っているように聞こえます。

それは、たいした財産のないわたしたちに対しても、呼びかけられている言葉なのかもしれません。これはさすがに手放せないと思い込み、万全な管理保管をするために、自己犠牲を強いられている事柄。どうせ変えられないからと、今までどおり我慢している事柄。もう今さら変えられないと思い込んでいる人生。そして、情けなく認めたくないような悲しい自分。それらは、ひょっとしたら「変えたくない」という気持ちがどこかにあって、それをイエスさまに見抜かれているのかもしれません。自分を変えるつもりはないけれど、追加で手に入るなら「救い」も欲しい、という思考経路から自由になるようにというお招きなのではないでしょうか。わたしたちが、人に強いられてではなく、自分の意志で手のひらを開き、心を開くとき、今まで見えなかった恵みがそこにあるのが見えてくるのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「結びあわせてくださったもの」 2021.10.3

「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」(マルコ10:2) ファリサイ派の人からのこの質問(というより詰問)は、「離婚をすることは、律法に適っているでしょうか」と聞くのと同じようでいて、実は全く違っています。「離縁状を書いて離縁することを許し」たというのは、女性がひとりで生きて行くことが非常に困難な社会において、主人の身勝手で女性がいとも簡単に放り出されるようなことが平気で行われていたので、せめて公式な離縁状を渡すようにと決められた、と考えられるでしょう。つまり、夫の側が一方的に「離縁する」と言っているのであって、妻の意思や希望は無視されています。

男性(強者)の所有物のように扱われ、軽んじられていた妻(弱者)の人権を、イエスさまは大切に考えておられました。律法というルールを盾にして自分たちの権利を主張する人たち(強者)に対して、イエスさまは、それは神さまのみ心ではないと諭しておられるようです。

「神が合わせられた者を人は離してはならない」(マルコ10:9)という言葉は、祈祷書(現行)の聖婚式文の中で、宣言の言葉に続けて司祭が言うことになっている言葉です。教会の結婚式に何回か出席していると、つい結婚式のための聖書の言葉であるかのように錯覚してしまいそうですが、イエスさまがおっしゃっている「神が結び合わせてくださったもの」というのは、何も結婚という結びつきだけを言っているのではないでしょう。

自分の都合だけで、これは要る、これは要らないと選別することは、物に対してなら構わないでしょうが、少なくとも相手が人ならば、そういう勝手をするべきではない。人との出会いはすべて神さまが用意してくださっているものだと思います。家族、学校や職場、そのほかどんな場であっても、何十億といる人びとの中から、神さまはわたしに今、大切な人と出会わせてくださっているのかも知れません。

「神が結び合わせてくださった」と信じて、一つひとつの出会いを大切にしていきたいと思います。そして、私たちをイエスさまと出会わせてくださったのもまた神さまであることを信じて、この出会いを大切にしつつ歩んで行きましょう。

牧師補 執事 下条 知加子

「小さなもののひとりを」 2021.9.26

礼拝を見たこともなければ、キリスト教に興味を持ったこともない人々と話していると、(聖書ではなく)神話に出てくる天使の名前が出てくるアニメを語り出し、「だから自分はキリスト教をけっこう知っている」とのたまう大人がいることに正直驚きます。そんな時は「あ、そうなのね」と流しますが、その方々にとっては超越的な力を武器にした戦闘シーンが感動的らしく、この怪物はキリスト教で一番えらい!などと強調されると、多少複雑な気持ちになります。

一方、直接宗教に関わったことのない一般的な日本人にとって、「宗教とはお金目当ての活動」というイメージもあるようです。目に見えない「希望」や「信念」を言葉にするのは、何かを誤魔化すためであり、「その背後に何かある」はずなので、人の弱みにつけ込んで金銭的な搾取をするような「宗教団体」の全貌が明らかになると、逆に、変に納得したりもするようです。いずれにせよ日本で宗教/信仰と呼ばれるものは綺麗事であり、心の弱い人や非科学的な思考の持ち主が飛びつくもの、と相場が決まっています。

こうなってしまった原因のひとつには、1995年の地下鉄(日比谷線、千代田線、丸の内線)サリン事件があると思います。「宗教」に洗脳され思考停止した人々はお金のためなら何でも実行、そして反社会的な行動や破滅も厭わないというイメージを広げた事件なのだろうと思います。そして、あのような酷い事が再び起きないためには、宗教や信仰に近寄ってはならず、ある種の自己防衛からか、目に見えない世界を茶化し、心や精神の存在を軽んじるのが安全、という風潮に繋がっているのかもしれません。

でもだからこそ、なのだと思います。イエスさまは徹底して、声の小さな人、社会の果てに押しやられている人、切り捨てられている人のところに身を置きました。何が得か、役に立つかという話ではなく、徹底して「痛み」を共有し、神の愛こそがわたしたちを解放し、人生を美しくするものだと伝え続けました。お弟子たちの中には、そんなわかりにくく、まどろっこしいことを言っていないで、早く人々を唸らせたいと急いだ人もいましたが、それこそが「小さな者のひとり」をつまずかせる入り口であることを、イエスさまはご存知だったのでしょう。キリスト教の玄関の中にいるわたしたちもまた、効率と結果に心を奪われるとき、玄関の外にいる「小さな」人々をつまずかせる危険を持つものです。もしわたしたちが神さまの愛に信頼していなければ、イエスさまのメッセージをうわべだけで捉え、まちがって伝える危険があります。神の愛によって生かされていることを、まずわたしたちが心から信じているかどうか、自身に問うことから始めていきましょう。

管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「後を継ぐ者」 2021.9.19

イエスさまから、ご自身が捕らえられ、殺され、3日後に復活すると聞かされた12人の弟子たちは、その意味を理解できませんでしたが、怖くて、尋ねることもできませんでした。自分たちが信じ、すべてを捨てて従ってきた方が捕らえられるなどと考えることは耐え難いこと。それに、まさか殺されるなんて想定外だったでしょう。不安になった弟子たちが旅の道々議論していたのは、自分たちの中でだれが一番偉いかということでした。イエスさまには聞こえていないつもりで…。

イエスさまがおられなくなるようなことがあったら、残された私たちの中の誰かが、イエスさまに代わって、共にやってきたこの活動のトップになるのだろう。ではそれは誰か。頭のよいあの人か、声の大きい彼か、それとも…。いや、イエスさまに一番愛されていたのは…。そんな弟子たちの心を、イエスさまはすっかりお見通しでした。そしておっしゃいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

本当の意味でトップやリーダーになる人というのは、人々を後ろに従えて引っ張って行くというよりは、人々の後から、困っている人を助け、倒れている人を起こし、人々に仕えてゆく人なのでしょう。12人の弟子たちは、イエスさまがなさっていたように人々を助けてはきたけれど、「すべての人の後になる」というイエスさまの姿を、本当に理解することはできていなかったのかも知れません。

誰かに「仕える」という時、もし相手の尊厳を認めていないとすれば、イエスさまがなさったように仕えることはできないのだと思います。あのときイエスさまが「手をとって彼らの真ん中に立たせ」た「子ども」は、少なくとも当時、一人の人間として尊厳を認められていなかった存在です。そのような相手を、一人の尊厳ある人として受け入れ、仕えるときはじめて、イエスさまの後を継ぐ者とされるのでしょう。 

牧師補 執事 下条 知加子

「十字架を負う」 2021.9.12

私の十字架とは何だろうか。子ども時代、20代、そして司祭按手までの20年間は、神さまから無理矢理背負わされた「十字架」を負ったつもりになっていた。とにかく他のことにはかまっていられないと信じていた自分は、他者のことなどまるで視野になく、自己中心そのままのような生き方だったにもかかわらず、家族が負えないから私が負うしかない、くらいの横柄な心でいたと思う。

しかも当時、不平不満たらたらで負っていた十字架は、私を支配していた。そこから自由になろうともがくほど、支配の力は増していた。でも私はきっと、様々な節目に恵まれ、無駄にしなかったのだろう。強大な支配力があったそれらは、気がつくと栄養の一部として消化されており、浅薄さと軽率さで勝ち越したつもりが実は逃避であったことを認められるようになると、それらは内省への手がかりとなっていたことに気づく。

だからと言って、今は仙人のように悠々、マイペースで暮らしているとは到底言えない。複数の教会と施設の中を右往左往し、しょっちゅうあちらとこちらを取り違え、緊急の電話がかかってくるかもと怯えつつも、薄氷を踏みながら外出する。鍵と携帯電話があるべきところになくてうろたえ、紛れた書類やメールを発見できず探し物ばかりする。何か頼まれ事をすると、なんだか出来そうな気がして大風呂敷を広げ、それがいくつも同時多発的に重なると、だから言わんこっちゃないと後悔する。もはや自分の十字架が何であったかさえ、忘れている。

できることなら解決して終わりにし、二度と同じ目に遭わないようにしたいような出来事、しかもその重さと圧力に押し潰されそうになりながらも、とりあえずは背負うほかはないような事柄を、人は「自分の十字架」とよぶのかもしれない。そんな十字架は、一刻も早く捨ててしまいたいし、離れてせいせいしたい。またそれがあるから、自分の人生がうまくいかないのだとも思う。しかしそれが本当に「自分の十字架」であったなら、いくら目をそらしても無視しても、存在そのものを消すことはできないし、相変わらずあなたを支配しようと圧力をかけてくるものだ。逃げても、「大したことじゃない」と虚勢を張っても、自分ではなく他の誰かが悪いのだと唱えても、それは相変わらずそこに居る。

それが一体なんのためにそこに在り、いつまで居座るつもりなのか、聞いても答えはない。そしてそれがいつまで続くのかもわからない。でも、逃れようとする気持ちに向き合って、本当のところ、自分はそれをどうしたいのかと問うとき、流れは変わってくるように思う。すぐに「正解」は出せなくても、逃げるのを辞めた時、何かが変わる。そのように信じたい。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「エッファタ」(開かれなさい) 2021.9.5

かつて中学生時代から通っていた教会に、ひとりの耳の不自由な方がおられました。彼女は私と同世代でしたが、礼拝後の交わりのときご両親が一緒に座っておられることも多かったです。若者が集っている時、一緒に話をしたいと思って彼女を誘うことがあったのですが、筆談やリップリーディングだけで皆の話のペースについて行くことは難しく、結局彼女を置いてけぼりにしてしまいました。自ずと彼女に声をかけることも少なくなってしまっていたように思います。

今日の福音書で、人々が連れてきたのは「耳が聞こえず舌の回らない人」でした。彼らはその人の上に手を置いてくださるようにと願いました。ところがイエスさまは、「この人だけを群衆の中から連れ出し」一対一の時間を作られたようです。耳が聞こえないことで、この人にはイエスさまについての情報が他の人々よりずっと少しか伝わっていなかったと思われます。どういう人かよくわからない人と二人きりになることは、不安もあったでしょう。イエスさまにしても、初対面の耳の不自由な人とコミュニケーションを取ることは難しかったのではないかと想像します。それでも、いえ、だからこそイエスさまは、この人と正面から向き合い、関わろうとされたのではないでしょうか。人々の願いのように上から手を置くというのでなく、「指をその両耳に差し入れ」「唾をつけてその舌に触れ」たのです。「エッファタ」(すっかり開かれなさい)とのイエスさまの愛の言葉によって、このひとの耳は「開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるように」なりました。

ところで、「エッファタ」は「この人」に向かって語られた言葉ですが、実はすべての人に語られている言葉なのではないかと思います。耳障りのよい言葉は聞くけれど、耳障りの悪い言葉は、聞こえないふりをしたり、聞かなかったことにしてしまう。あるいは、思ったことをうまく表現できなかったり、言いたいことを言えなかったり。そんな私たちが、聞くべきことをきちんと聞き、話すべきことをちゃんと話せるよう、イエスさまは今も私たちに「エッファタ」=「開け」と呼び掛けてくださっています。

牧師補 執事 下条 知加子

「人を見下すことへの警告」 2021.8.29

昨年の2月以来、コロナ禍はわたしたちの生活をすっかり変えてしまいました。手を洗うのも生活の一部となり、買い物から戻ったら、冷蔵庫に食品をしまう前にまず手洗い、着替える前にまず手洗いという毎日。ウィルスに晒されたかもしれない手や持ち物の表面に「長居させない」衛生上の理由から、もはや手を洗うのが「常識」のわたしたちですが、今日の福音書に登場するユダヤ人たちが「常識」とした手洗いは少し意味が違うようです。

少し話は違いますが、「十字架につけよ」と叫んだ群衆を止めることが出来ず、ローマ総督ピラトは手を洗いました。死刑執行の権限がありながら、「自分は無関係」という証として群衆の目の前で手を洗ったのは、万が一の場合、自己保身に役立つと考えたのでしょう。一方、福音書のユダヤ人たちは「昔の人の言い伝えを固く守」り、出かけ先と、自宅との境界線をはっきりさせる意味で手を洗っていたようです。でも衛生概念というよりは、しきたりを守る常識人としての、いわゆるパフォーマンスだったのかもしれないと思うのです。

聖書の時代でも、現代のわたしたちも、共同体の中で生きる以上は、ある種の「パフォーマンス」と無関係ではいられないでしょう。大切だから何かを実行しているとは限らず、とにかく「常識のない人」と決めつけられないために、無理をしていることがあるかもしれません。時には心にもない言葉を並べたり、買いたくないものをお付き合いしたりするかもしれません。

でもイエスさまが非難しているのは、そのパフォーマンスそのものではありません。要は中身なのですが、パフォーマンスをしていることを他者に強要したり、あるいはそれに従わない人を「非常識」と決めるつけるのは、自分の立場が「上」だという前提がないと不可能です。尊敬されている律法学者や、地道なファリサイ派の中にも、自らを義とし、他の人を見下す輩は結構いたようです。常識的に生きようと努力している人全てが、そうとは限りませんが、もし他者を見下す視線を持ちはじめたなら、イエスさまはとても心配されます。きっと誰にでもその可能性はあるのでしょう、もしファリサイ派の人々のような態度で何かを決めつけている自分に気がついたら、ハッとするわたしたちでありたいと思います。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「神さまはあきらめない」 2021.8.22

神さまはあきらめない 

8月に入ってから4週続けて「ヨハネによる福音書」を読む暦なので、「いのちのパン」のイメージが繰り返し出てきます。でも、今日の福音書は、「いのちのパン」も重要だけれど、何か変えられない運命のようなものがあって、誰がイエスさまを裏切り、誰が天国に行くのかは、父なる神によってもう決まっているとも聞こえ、こんな話には耐えられないと、たくさんのお弟子がイエスさまから離れ去っていく話です。

わたしたちからすると、イエスさまといつも一緒にいて、働きや言葉を分かち合っていたのに、イエスさまに見切りをつけて離れてなんて、「もったいない」気がしますが、離れて行った人々にとっては、イエスさまに何かちがう期待を持っていたのでしょう。例えば「奇跡」を操れるとか、社会変革ができるとか、期待していた人もいたかもしれません。あるいは、イエスさまを頼りないと感じて離れた人もいたかも。また、よくわからないので、これ以上一緒に居てもラチがあかないと離れた人もいたでしょう。そして、「それよりもっと大事なこと」を優先しようと、心を切り替えて去っていった、ということかもしれません。

でもこれは、元お弟子さんたちだけの話ではなく、「今はそれどころじゃない」と神さまを放置して、他を最優先するような行動をとるのは、日常生活では毎日起きているのかもしれませんが、希望があるのは、キリスト教の神さまは、そんなわたしたちであっても、決して見捨てないということです。イエスさまから離れて行った人々は、そのまま闇の中へと消えるのではなく、恵みと希望に満ちた言葉を再び聞こうと立ち返ってきた時には、神さまは、両手で抱きとめることを躊躇するような方ではない、ということをわたしたちは知っています。自己都合で離れていった人に、二度と戻って来るな、などと言う神さまでもありません。たとえ、多くの人々が離れていっても、その先のことはわかりません。ただわたしたちは、どんな時でも神さまは見守り続け、待ち続けておられることを心に留めていましょう。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子                                         

「日ごとの糧を」 2021.8.15

先々主日から3週に亘って「イエスは命のパン」と題されたヨハネによる福音書のお話(6:22-59)を読んできましたが、今あらためて私は、人間は体を養うパン無しに生きて行くことはできないということを思いめぐらしています。

8月15日は日本では終戦(あるいは敗戦)の記念日として覚えられています。私は先の戦争を直接知ってはいません。けれども、以前母が「戦争の話はいやだ、話したくない」と言いながら時折語って聞かせてくれた苦しい・悲しい・悔しい体験が、私の中に「二度と戦争を起こしてはいけない」という思いを強く起こさせてきたということを、今改めて感じています。

空襲警報が鳴ると大慌てで明かりを消して息を潜めていなければならなかったこと、防)空壕に逃げんだ話、あるいは燃えさかる火の中を母親とともに幼い妹たちを連れて逃げ惑ったというような戦時中の話も聞かされましたが、何よりも強く印象に残っているのは、戦後の食糧難の話です。学校へ行く時にお弁当を持たせてもらえず、仕方なく昼休みには一旦自宅にるのだけれど、帰ったところで家に食べるものがあるわけではない。中学生で育ち盛りだった母はどんなにひもじい思いをしただろうか。私ならとても耐えられないだろう…。戦争は飢えをもたらすものなのだと思いが、心に深くまれました。

敗戦から76年目を迎える今、世界は新型コロナのパンデミックにあってウイルスとの闘いが続いています。平常時にも増して人と人、民族と民族、国と国の助け合いが必要)とされる時でしょう。しかし、このような時でさえ人間同士の戦いが止むことはないようです。むしろ、かえって色々な局面での戦いが激しくなっているようにさえ感じます。そして、そのために今日の食事に事欠いている人々が、どれだけいることでしょうか。

体を養うパンを誰もが得ることのできる世界・社会の実現を願います。「日ごとの糧を今日もお与えください」と、心から祈り続けたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子

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