今週の聖書のお話
「目が『腐らない』ために」 2023.9.24
しかしながら、このぶどう園の話は、「神さまと出会って平安が与えられる」という1デナリオンの話であることは明らかです。神さまの悠久の時間に比べ、わたしたちの生涯はほんの一瞬に過ぎませんが、一生をかけて神さまと一緒に歩いてきた人も、散々放蕩の限りを尽くし生涯の最後に駆け込みで神さまと出会った人も、全く同じように永遠の命が与えられ、もれなく天の国に迎え入れてくださる神について語っています。ところが、1日中重労働と酷暑を耐えて働いた人は、同じ扱いでは不満だと言います。「妬むのか」(16節)という語は、「あなたの目は腐っているのか」という意味のギリシア語が使われています。つまり、わたしたちの永遠の命や魂の平安は、神さまから恵みとして無条件に与えられたのに、それを自分の努力の結果だと思い込む誘惑や間違いについて語っているのではないでしょうか。
昔々、病院のチャプレンをしていた時に、一人のホームレスの高齢男性が入院してきました。海辺の公園で何十年と野宿をしてきたので、入院してからも、医師や看護師がベッドに近づくだけで、身体を硬直させて怖がりました。それは、公園に住む彼に近づいてくる人々は、彼に危害を加える存在だったからです。しかし時間が経つとだんだんと表情が和らぎ、人生の夕暮れ時になって人との関わりを平安のうちに受け入れられるようになり、そのあとすぐに洗礼を受けて旅立っていかれました。この方は、社会の片隅に隠れるようにして生きてこられ、「一日中」ぶどう園で働くことはできませんでしたが、まさに日没1時間前に間に合って、思いやりある人々と出会い、平和な心と共に神さまの元へと旅立った。そんな神さまの業を、人々に伝える役割を果たしたと思うのです。
(マタイによる福音書 20:1~16)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「7の70倍赦されて」 2023.9.17
そこでイエスさまは、天の国の例え話をなさいます。ある王様の家来が、主君から一万タラントン(6千億円ほど)の借金をしていた。一生かかっても、どんなことをしても返せないほどのお金…どうかもう少し待ってほしいと懇願する家来を、主君は憐れに思って赦し、借金を帳消しにしてやった。ところがその家来は、百デナリオン(100万円ほど)貸している仲間を、もう少し待ってくれと懇願したにも関わらず赦さなかった。それを知った主君は「お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と怒って、一万タラントンを返すまで家来を牢役人に引き渡した。
借りが何であれ、人を赦すことの難しさというものはきっと誰しも感じていることでしょう。しかしながら、日々保育園でこどもたちと保育士さんのやり取りをうかがっていると、人間は繰り返し赦されつつ生きているのだということを改めて感じます。保育士さんたちの忍耐力には本当に頭が下がる思いです。そして私たちが生まれてこの方、保育士さんに限らず親や家族、周りの人たちにどれほど多くを赦されてきたか=愛されてきたかということを、ひしひしと感じるのです。
7の70倍、私たちは誰しも、限りなく赦された上に今日生きることを得ているのです。であるならば、私たちも仲間を赦すことのできる人になりたいと思います。そして、赦すことによってのみ、私たち自身「牢」から自由になることができるのです。
(マタイによる福音書 18:21~35)
牧師補 執事 下条 知加子
「ゆるしについて」 2023.9.10
たとえ法律によって「犯罪」と断定されなくても、賠償を要求されなくても、わたしたちはまず「神さまにとっては何が起きたのか」を中心に考える必要があるでしょう。何故このようなことになったのか、自分の何が間違っていたのか、そして取り返しのつかない事実から自分は何を学べばいいのか、祈って祈って向き合う、ということなのだと思います。
今日の聖書は、自分が赦しがたいことをしてしまった場合ではなく、赦しを乞うべき人に対して、どのように願うべきなのかを語っています。それは、過失を犯した人をわたしたちが対岸の火事として眺めるのではなく、火の粉が飛んでこない対策にあくせくするのではなく、自分に同じようなことが起きる可能性をも含んだ話なのだと思います。それは、愛をもって率直に忠告しても、結果的にその人が聞き流すようであれば、あとは神の働きに委ねてみましょうということです。それは外見からは「諦めた」ようにも見えますが、関わりを拒絶するのではなく、その人が回心した時にはいつでも話を聞く心の用意がある状態です。
わたしたちは、ひとりでは「祈る」ことさえ難しいときがあります。でも、神さまを信じる者が二人三人と集まったときにやっと祈ることができるように、「罪」を犯した人に対しても、自分の力ではなく、神さまの働きを信じ続ける人が二人三人と集まって祈るとき、神さまの願いが実現していく、と語られているのではないでしょうか。
(マタイによる福音書 15:15~20)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「弱さによって」 2023.9.3
5000人を超える人々を5つのパンと2匹の魚で養い、湖の上を歩き、多くの病人を癒やされた。イエスさまの御言葉には力があり、人々に多くの気づきと勇気を与えられた。ペテロの目にはきっと、強く、愛あふれる素晴らしい方としてイエスさまが映っていたのでしょう。この人こそ、この世界をひっくり返して、苦しんでいる人々を救い解放してくださるに違いない。そのように信じたからこそ、イエスさまをメシア(救い主)と告白し、ずっとついてゆくと約束したつもりだったのだと思います。
ところがイエスさまは、これから多くの苦しみを受けて殺される、それは避けることができないことだと言われるのです。自分がついて行こうとしている方が弱くされ、こともあろうに殺されるなどということは、ペテロには到底受け入れ難く、「そんなことがあってはなりません。とんでもないことです」と言ってしまいます。きっとペテロは気が動転していたことだろうと思います。イエスさまが逮捕され処刑などされてしまったら、自分の人生も終わりだ!と考えたかもしれません。でもイエスさまは、自分を捨てることによってこそ誰かの命を救うことができるのだと、弟子たちを諭されたのです。
イエスさまはペテロに、イエスさまに倣って強くなろうとするのではなく、むしろ弱さに目を向けて欲しい。弱さを持った一人の人として歩んで行ってほしいと願ったのだと思います。自分の弱さを受け入れることから救いは始まる、そのことを人々に伝える人としてペテロを、そして教会を建てられたのです。
どうか、自分の弱さを知り、受け入れ、「自分の十字架を負って」生きることの恵みに、多くの人が与かることができますように。
(マタイによる福音書 16:21~27)
牧師補 執事 下条 知加子
「岩盤まで寄り添う神 」 2023.8.27
シモンというのがこの人の元々の名前ですが、イエスさまの「あなたは岩だ」との言葉により、シモン=ペトロと呼ばれるようになりました。それにしても、なぜこの人が「岩」なのでしょうか。行動や言葉からは想像し難いですが、「実はこの人は、岩のような堅固な信仰を持っているのだ」と、イエスさまが見抜いていたということでしょうか。
この後、皆が安心して教会に集い礼拝を捧げることができる日が来る前に、まずキリスト教徒への「迫害」が数百年続きます。今のように情報網が発達しているわけではなかったので、イエスさまの名を口にすると徹底して同じ処罰を受けるわけではなかったものの、命の危険は常にありました。こんな中では、表面や見た目だけを整えた「信仰」や「教会」では、簡単に「陰府の国」に引き倒されたことでしょう。万人に理解しやすい福音、そして中身は問わずにまず何でも受け入れる、という姿勢は大切ですが、それは他者に目を向けたときのこと。教会のしくみや制度ばかりではなく、自身の信仰や神さまに対する信頼まで、「そのままで問題ない」と放置を決め込むと、それは砂浜の上に立てた信仰、空中に浮かぶ信頼のよう。お天気が良い時は大丈夫でしょうが、嵐が来れば、あっという間に消えるかもしれません。
砂の表面にではなく、心の岩盤に到達する信仰へと導いてくださる神さまは、岩盤とはほど遠いシモン=ペトロに寄り添い、人々を「岩盤」へと導く器として、敢えてこの人を用いられました。わたしたちも、自分の普段の行状から「自分の信仰は薄い」と決め込んでガッカリし諦めるのではなく、シモン=ペトロをも用いられ、わたしたちの頑な岩盤にまで寄り添ってくださる神さまの愛の深さに信頼したいと思います。
(マタイによる福音書 16:13~20)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「揺るがない信頼」2023.8.20
イエスさまがティルスとシドンの地方に行かれました。ここは異邦人の地ですが、宣教するために行かれたのではなく、退かれた、つまり、人目を避けて休息をとるために行かれたようです。それほどイエスさまの日常は大忙しで大変だったのでしょう。
ところが、イエスさまが来ているといううわさが伝わって、一人のカナン人の女性がやってきました。そして、イエスさまに「私を憐れんでください!」と叫びます。
この女性の娘が悪霊に苦しめられていました。悪霊に苦しめられる、というのは、心や精神を病んでいたということかもしれません。娘が苦しんでいるとき、心穏やかに生きることができていないとき、母親はどんなに苦しい思いをすることでしょうか。
この状況を何とかしたいけれど、どうしたらよいかわからない。八方手を尽くしたけれど、娘の状態は良くならない。もはやどうしようもないと思っていたところで彼女はイエスさまに出会います。イエスという人が沢山の人々の病を癒されているらしい。そのイエスという人がやってきた。この人こそ私を救ってくれるに違いない。彼女は必死の思いで遠くからイエスさまに向かって叫びます。しかし、イエスさまは最初のうちは何もお答えになりません。それでも彼女はあきらめず、叫びながらついてゆきました。
ところで、彼女の願いは「主よ…私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」というものから「主よ、私をお助け下さい」へと変化しています。イエスさまに願い祈る中で、助けを必要としているのは娘ではなく自分なのだということに、彼女自身が気づいて行ったと捉えられるように思います。
初めは、イスラエルの失われた羊を救うのがご自分の使命であると言って取り合おうとしないイエスさま。それでも彼女はあきらめず、イエスさまの前にひれ伏して「主よ、私をお助けください」と願います。イスラエルの人がまず救われることが神さまの意思だということは尊重する。でも、異邦人だからと言って救わないという神さまであるはずがない、これが彼女の信仰=イエスさま、そして神さまに対する信頼でした。その心からの信頼に、そして本当の必要に気づいた彼女に、イエスさまは「願い通りになるように」と言われました。異邦人であった彼女の願いは聞き入れられ、主の救いの業は宗教を超えて実現することとなりました。
(マルコによる福音書 15:21~28)
牧師補 執事 下条 知加子
「不安に駆られるという誘惑」2023.8.13
わたしたちも日常的に、「どうしたら生き残れるか」「どうやって経済的に乗り切るか」と頭を悩ませます。もちろん、客観的な計算や、冷静な事実確認は必要ですが、それだけでは乗り切れないこともたくさん起きます。もうできることは全てやり尽くした、あとはもうどうしたらいいのか途方に暮れる、という状態に直面することも、一度や二度ではないかもしれません。
そんな時に役に立つのが、「信仰」と呼ばれる、神さまへを信頼する気持ちです。教会に通っているクリスチャンも、実はイエスさまのお弟子たちのように、時々不安になったり迷ったりするのですが、できれば、もっと信仰を深めて、そして神さまに信頼して生きていきたいと願っています。辛いこと苦しいことが起きると、「忘れられているのかもしれない」とか「本当に私のことを大事だと思っているのか」と疑ってしまいそうになりますが、そういう中途半端な行動が、かえってわたしたちが前に進む上での負担となります。
もちろん何も考えず、人の言うとおりになることや、神様はこう言っていますなどという話を鵜呑みにすること、そして、周囲の人々に合わせてその圧力に屈することなどを薦めているのではありません。嵐の中にいて、不安にならない人はあまりいないでしょう。そして時には不安による思考停止も起きてしまうかもしれません。不安のままでいること、それも誘惑です。
不安は、さまざまな理由もあり、時にはわたしたちを助けてくれることもありますが、不安のまま留まっていると、現実に直面しなくてもいいという誘惑にからめ取られていることがあります。
わたしたちが、神さまが見守ってくれていると心の底から信じるとき、自分の持てる力を充分に発揮して、自由な発想をしたり、冷静な判断をしたり、人に思いやりを持って接することなどが、できるようになるのだと思います。どういう状況になっても、先が見えにくくても、まずは神さまが、わたしたちを決して見捨てない、という信頼から出発しましょう。そして自分らしく自分の持つ力を十分に発揮させて生きていきましょう。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「共にいる」2023.8.6
イエスさまは、ご自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活するということを弟子たちに話されたのですが、それから約一週間後、この変容の出来事が起こりました。イエスさまが祈るために山に登り、祈っていました。どれくらい時が経った頃でしょうか、イエスさまの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いたのです。そこにモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合っていました。その内容は、イエスさまがエルサレムで遂げようとしていた最後のことについてです。イエスさまの身体が傷つけられ、命奪われるという絶望的な展開。にも関わらず、イエスさまの顔は、そして衣は白く光り輝いていたのです。
かの日、原爆投下という全く非人間的な、巨大な暴力によって、広島にいた多くの人々の命が傷つき、苦しめられることとなりました。想像を絶する破壊の有様、多くの命が奪われ、どれだけ多くの人が原爆の後遺症で苦しむこととなり、今も苦しめられているか…。すべての希望が奪われたような、絶望的と思われる現実があります。
しかしイエスさまは、その苦難の最中におられます。地上で起こる様々な困難、人々が味わっている苦しみを、高みから見つめておられるのではなく、まさに地上で、苦しむ人と共にいてくださり、共に苦しまれる。そこに希望があります。
迫りくる困難を思い、苦しみの内に祈りながらイエスさまは栄光に包まれ、その顔は、衣は、白く光り輝くのです。復活の希望のうちに。
牧師補 執事 下条 知加子
「天の国への希望」 2023.7.30
今日読まれたところでは、天の国がまずからし種にたとえられています。からし種は、0.5ミリほどの小さな種ですが、畑に蒔かれるとどんな野菜よりも大きくなるということです。いわゆる❝木❞ではないので、本当に鳥が巣を作ったかどうかわかりませんが、それくらい大きくなるということです。また、パン種は粉のようなものですから、さらに小さいといえるかもしれませんが、たった2~3%(3サトン(約40ℓ=約24㎏)に対しては500gほど)のパン種を入れると、小麦粉はやがて大きく膨らんでゆき、焼かれれば美味しいパンになります。
からし種は育つとき、またパン種は小麦粉の中に混ぜられると、その姿は消えて、見えなくなってしまいます。このからし種、あるいはパン種は、私たちの住む世界に来られて十字架にかけられたイエスさまご自身をあらわしているのだろうと思います。そして真暗闇のような世界にあって、イエスさまによってもたらされた希望の光は必ず大きく成長していく。天の国はそのようにもたらされることを、このたとえはあらわしています。
私たちの生きる社会にも、本当に多くの困難があり、人々が生きづらくされています。少しでもこの社会を、世界を少しでも変えられたらと思うけれど、どうやっても無理なのではないか、今やっていることは無駄なのではないか。そんな風に思ってあきらめてしまいたくなることも多々あるでしょう。しかし、小さな小さな種、ほとんど見えないようなパン種が、必ず大きく成長して、この地上に天の国が実現するのだという希望を、イエスさまという光を、私たちは見失わずに進んでゆきたいと思います。
(マタイによる福音書 13:31-33、44-49)
牧師補 執事 下条知加子
「じっと待つ神」 2023.7.23
これがなぜ天の国のたとえなのか、良い知らせなのか、釈然としないかもしれませんが、良い麦だけが生育されている理想郷が「天の国」だとは言っていないのです。
天の国とは、神さまが諦めずにタネを撒き続けてくださる場所。しかし同時に「敵意」を持つ存在も入り込み、毒麦をも知らないうちに撒き散らしていく。そして神さまは、それをすぐに成敗するのではなく、何よりも良い麦を一つでも傷つけたり失ったりしないために、時が来るまで両者を混在させておく。しかし、やがて最終的な時がきたら、すべてを明らかにしてくださる、そういう話ではないかと思うのです。
「私自身が毒麦かもしれない」そんな不安も頭をよぎるかもしれませんが、私たち自身の中に良い麦と毒麦が混在しているということも、きっとあるでしょう。また、世界に存在するどうにも解決できていないさまざまの悲しみと苦しみ〜戦争、飢餓、人権侵害、不条理〜なども、毒麦のしわざなのかもしれません。だから仕方がないと諦めるのではなく、わたしたちの痛みを一緒に感じながら、じっと耐えて、何よりもわたしたちの魂と命を守り抜こうと決めている、神さまの姿に目を留めたいと思います。
(マタイによる福音書 13:24~30、36~43)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「種まき」 2023.7.16
先週末、4年ぶりとなった保育園の清里キャンプが行われ、約30名の5歳児たちと一緒に自然の中で過ごす恵みにあずかりました。ユースキャンプ場のキャビンで過ごした一泊二日、すべてが新鮮な体験でしたが、中でも自然学校のレンジャーさんと一緒に森の中を歩くガイドウォークは新しい発見と驚きに満ちていて、こどもたちは大喜び。森の木々や草花、鳥や動物たち、虫たちとの出会いは、ふだん都会で過ごしているわたしたちに沢山のことを教えてくれたように思います。
清泉寮で飼育しているジャージー牛のための牧草を育てている採草牧草地にも連れて行っていただきました。そこのエリアは人も入れるのですが、レンジャーさんのお話によると、牧草を育てていても、人が入ってくると牧草以外の草も生えてきてしまうので、牧草だけを育てるためにはそのエリアに人は入れられないということです。人の靴底にはいろいろな植物の種がくっついているからなのでしょう。観察してみると確かに、牧草とともに様々な種類の草が生えていました。
当たり前かもしれませんが、牧草を栽培し良い餌にするためには、ただ種が播かれれば良いわけではなく、牧草が育つための環境や条件が必要なのですね。日差しや栄養はもちろんですが、他の種類の草が生えないために人を入れないように気遣うことも必要なのでしょう。
イエスさまの「種を蒔く人」のたとえでは、種が落ちる(蒔かれる)場所が色々あって、その場所の環境や条件によって良く育つかどうかが決まってゆくように語られています。その後には、その「種」は「御国の言葉」であって、種が育つということは、それを聞いた人が「悟る」ことであるというように説明されています。
保育園での園児礼拝でのお話などは、まさにこの種まきであると思いますし、保育というかかわりそのものの中で沢山の種がまかれているのですが、同時に、彼らの心の畑を踏みにじってしまっていることがないだろうかと思いめぐらすことも多々あります。蒔かれた「御国の言葉」を悟り、よく育つため、こどもたちの心を踏みにじることなく関わってゆくことができますよう、願い、祈っています。
(マタイによる福音書 13:1~9、18~23)
牧師補 執事 下条 知加子
「疲れている人々よ、」 2023.7.9
今すぐに休みたいという声をいちいち聞いていては、日常生活が回らなくなる現実があることを知っているからこそ、身体の声に耳を傾けることは、きっと大切なのでしょう。今年2月に国内で行われたある調査によると、常に慢性的な疲れを感じている人は、なんと調査対象者全体の6割。身体の中の部位でも、目疲労や肩こりを訴える人が最も多かったそうですが、次に来るのが「精神的な疲れ」なのだそうです。そして精神的な疲れに対しても、多くの人がとりあえず寝る、スイーツを食べるなど、暫定的お手当をしつつ疲れを抱えたまま、毎日を走り続けているというのが現状なようです。
今日の福音書のイエスさまの言葉は、「(労働で)疲れた者、重荷を負う者」と、心身両方の疲労について言及しておられます。しかし、その解決方法として「このようにしなさい」と指示なさるのではなく、「だれでもわたしのもとにきなさい」と言われます。イエスさまの時代には通勤ラッシュも、人口の過剰集中もなかったと思われるので、その頃の「心の疲労」とはどんなことだったのだろうか、想像するのは難しいです。しかし、他国の支配による不条理や不平等、食べていくことの困難さは、人々を精神的疲労へと追いやったことは間違いないでしょう。そしてユダヤ教では「不条理な目に遭うのは先祖や本人のせい」と教えていたので、こんなひどい目に遭うのは、神が「これがあなたに相応しい人生」と定められたから、と信じる圧力が、さらに精神的な疲労へと追い込んだに違いありません。
イエスさまは、「休み」「安らぎ」を与えると約束されています。それは、何があっても、自分自身がどのような状態になっても、「わたしは神さまにとって大切な存在だと信じ続ける」という、イエスさまが私たちに与えてくださった「くびき」を、わたしたちが身にまとうことによって与えられるのではないでしょうか。わたしたちを能力のない者とみなし、すべての疲労や圧力を除去してしまうのではなく、それをモノともしない生き方へと招き、そして共に歩こう!と言っておられるのではないでしょうか。
(マタイによる福音書 11:25~30)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「平和を造る」 2023.7.2
「私が来たのは…平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」というイエスさまの言葉を聞くと、ちょっとドキッとしてしまいます。“平和をもたらすため”に来てくださったのではないのですか?と聞き直したくなります。でも注意深く読んでみると、平和をもたらすために来たのではない、と言っているわけではなく、「平和をもたらすためだ、と“思ってはならない”」と言われていることがわかります。
この「もたらす」というところには、投げるという意味の言葉が使われています。平和を投げる、というと、自分たちではなく他の誰かがもたらしてくれるという感じを持ちます。平和、あるいは救いを希求してきたイスラエルの民は、メシア(救い主)がやって来て、大きな力をもって世の中(の力関係)をひっくり返し自分たちを救ってくれると期待していたということでしょうか。イエスさまは、そのように与えられる平和があるとしたら、それは本当の平和ではないと言われているのです。
この世の中にはいつも、生きるための問題や困難が山積しています。それらすべてをスッキリ解決するとか、すっかり無くしてしまうなどということは不可能でしょう。それでも、間違っていると思うことや不正義があれば声を上げて闘う。そうして出来事に関わって行くことで初めて、イエスさまの言われる平和が実現されるということではないでしょうか。それは易しいことではありません。時には仲間や家族と闘わなければならないこともあるでしょう。いえ、むしろ関わりが深い分、近しい人々と闘わなければならないことの方が多いのかも知れません。
真の平和は、私たちが造り出してゆくものなのです。そして実は、平和のために闘う道程(プロセス)こそが平和そのものだということかも知れないと思います。黙っていて向こうからやって来るような平和があるとしても、それはきっと見せかけだけのもの、本当の平和ではないのでしょう。
現実の中で闘わねばならない時、「剣をもたらすために来た」というイエスさまの言葉が励ましとして響いてきます。それまで大切にしてきたもの(人)と敵対しなければならなくなった時、どうか勇気をもってその闘いに臨むことができますように!
(マタイによる福音書 10:34~42)
「人を恐れるな」 2023.6.25
日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、それらをカウントせず、出来なかったこと不完全だったことのみに目に留め、記憶に残す不幸です。言い換えれば、神さまに支えていただいているという恵みは認めず、身体は動いて当たり前、ご飯を頂けるのは当たり前、家族が無事に帰ってくるのは当たり前で、期待どおりにいかなかったことを数え上げる生き方でしょう。
②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、同じ益が自分にないと「損をした」と感じる不幸です。例えば、親切に「してあげた」見返りを期待する、飢えている人に食料が手渡されると、飢えていない自分は「何ももらっていない」と不満を感じることなどです。
③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、自分の感じ方は重要ではないと思う不幸です。嫌われないように、非難の対象とならないように生きることが最優先と信じ、本当は価値観や思いは持ってはいるのですが、ないがしろにしてきたので「自分にはない」と思ってしまう人です。
この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」ということだと思います。さしあたりの損得に一喜一憂し、誤解されたらもう世の終わりと感じる一方で、不都合なことは隠しておけば大丈夫と思っています。少しドキッとする言い方ではありますが「隠されているもので知られずに済むものはない」「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と聖書は告げます。さまざまな困難の中でも、まずは「神さまに信頼することが大切」と力説しているのではないでしょうか。窮地に立たされても、誰かの罪を着せられても、不条理を押し付けられても、神さまは知っていてくださる、見ていてくださると。そして、わたしたちの都合や便利に向けて、ではなく、すべてはいつか、神さまのご計画の中で成就していくと、信じられること、それがわたしたちが目指すゴールではないでしょうか。
(マタイによる福音書 10:16~33)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「働き手となる」 2023.6.18
イエスさまは、「町や村を残らず回って、諸会堂で教え…ありとあらゆる病気や患いを癒され」ました。本当に多くの人がイエスさまの話を聞き、癒され、救われたと思います。けれども、その中で、「立ち上がってイエスに従」う決断をした人-弟子となった人-はどれくらいいたのでしょうか。イエスさまは、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われています。
また、弟子になったからといって、すぐにイエスさまと同じような働きができるというわけでもないのでしょう。イエスさまと共に行動し、ともに働き、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々と、イエスさまがどのようにかかわっておられるかを見て、聞いて、ともに過ごす中で良い感性が身に着き、磨かれてゆくのだと思います。
イエスさまは、弟子たちの中から12人を選び、呼び寄せ、汚れた霊に対する権能を授け、派遣してゆきます。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す」ちからは、神さまからの恵みです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われています。
今、神さまによばれてこの場につながっている私たちは、きっと神さまの「働き手」となることを期待されているのだと思います。それは恵みを分かち合うことでもあると思うのです。神さまからいただいている恵みの大きさをあらためて受け止めて感謝し、イエスさまに倣って歩む中で磨かれつつ、恵みを分かち合ってゆける私たちでありたいと願います。
(マタイによる福音書 9:35~10:8)
牧師補 執事 下条 知加子
「マタイをよぶ」 2023.6.11
このような背景があったマタイですが、イエスさまは、この「罪人」に自分から声をかけ、食事まで共にしています。すると、当時の社会で「神の恵みから漏れた」他の人々も、噂を聞いて次から次へと集まってきます。
それを見た正統派ファリサイ人は違和感を感じ、「どうしてこんな人たちが来ているのか。ましてや一緒に食事をするなど正気の沙汰か」と、弟子たちに詰め寄ります。それがイエスさまにも聞こえたのでしょう。「私が喜ぶのは慈しみ、神を知ることであって、いけにえではない」(ホセア書6:6)と、イエスさまは旧約聖書を引用して答えます。
でもこの話は、神さまは誰でも受け入れてくださる、この中途半端な私さえ仲間に入れてくださる、というところで留まってはならないのだと思います。マタイとその仲間たちとの食事風景を「現代風に訳すと、ヤクザさんが大量に礼拝に来た感じ」とたとえた人がいました。もちろん黒服のイカツイおじさんが大量に教会に現れたら、正直なところ、わたしたちも違和感を感じてうろたえるかもしれません。でもイエスさまは、わざわざそういう方々をも招かれた。それはわたしたちも、思い込みや慣れ親しんだ「あたりまえ」の中で心地よく自己完結するのではなく、神さまがどういう方々に心を砕いておられるか目を向けて欲しい、そんな呼びかけにも聞こえます。
(マタイによる福音書 9:9~13)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「聖霊が働く」 2023.6.4
その良さがずっと続いたら良かったのでしょうが、最後に造られた人間は、神さまの願いに反して自己中心的で、極めて良かったはずの被造物を意のままにしようとしてきました。便利・快適を求めるあまり、神さまの造られた豊な自然を平然と破壊してきました。また自分や仲間の都合を優先し、自分たちだけが満たされ、多くのものを独占しようとして、利害の反する人々を傷つけてきました。
そんな人間たちを、創造したときの良さに立ち返らせたいとの思いで、神さまはイエスさまをこの世に送ってくださいました。イエスさまは神さまの愛を、命をかけて人々に伝えようとして捕らえられ、処刑されてしまいましたが、神さまはイエスさまをよみがえらせ、その愛が永遠であることを知らせてくださいました。
けれども人間は、神さまに「極めて良い」存在として造られたことも、本当に大切な存在として愛されているということも、すぐに忘れてしまいます。そして相変わらず自己の思いに囚われ、自然を破壊するばかりか、他の人々を傷つけ、自分自身さえ傷つけてしまうのです。だからこそ神さまはわたしたちに、聖霊を送ってくださったに違いありません。
聖霊が働いてくださっていることを感じることのできるわたしたちでありたいと思います。聖霊の息吹を受けて、傷ついたわたしたちが新たな命に生かされてゆきますように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともに、限りなくありますように!
(創世記 1:1~2:3)
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 13:11~13)
(マタイによる福音書 28:16~20)
牧師補 執事 下条 知加子
「聖霊を受けなさい」 2023.5.28
イエスさまは息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊を受ける」とは、すでにわたしたちと共におられる聖霊なる神の存在を認め、その働きに支えられていると、信じることではないでしょうか。
聖霊なる神を受け入れる人には主の平安があります。思いがけない事態に陥っても、期待や予定から大きく外れても、自分にできる努力はしつつ、パニックに陥ることはありません。聖霊なる神が共にいてくださると信じているからです。
聖霊なる神を受け入れる人は罪から解放されていきます。わたしたちがしばしば陥る「罪」(=的をはずす行動)ですが、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力みます。それは聖霊なる神をないがしろにすること。自分の弱さを認め、間違いを認知するのは辛いことですが、まずは「的を外している」事実を認めること、そして神さまはどうなさりたいだろうか、謙虚に祈り求めること。それは、自身の「罪」から解放されていく、ということだけではなく、周りの人々にも波及し、罪の束縛から自由になっていく、そんなふうにイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
(使徒言行録 2:1~11)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「復活と昇天」 2023.5.21
イエスさまを失った時の弟子たちの、大切な人を失ったという悲しみ、最後までついてゆくと言いながら十字架を目の前に逃げてしまった情けなさ、裏切ってしまったという後悔、自分たちも捕まるのではないかという恐怖…、その恐れと不安は、自分を失ってしまう位に大きかったのではないかと想像します。おそらく絶望するしかなかったであろうその弟子たちの目の前に、イエスさまは現れてくださいました。
空の墓を訪ねたマリアに現れ、扉も鍵も固く閉ざした家に隠れていた弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と声をかけ、エルサレムから逃げようとしていた二人に同行してパンを割き、共に食事をし…。その出現に驚き惑い、怪しみつつも、希望を絶たれ生きてゆく力を失っていた彼らに、希望の光が与えられました。イエスさまは、裏切り、逃げだした自分たちを、決して責めたりされなかった。それどころか、死んだ後も愛をもって共にいてくださることを示してくださったのです。復活のイエスさまに出会って、弟子たちは大きく変えられてゆきました。
イエスさまは復活から40日後、天に上げられてしまいました。その場に居合わせた弟子たちは、イエスさまが昇って行った天を見つめるしかなかったようです。弟子たちは、今度こそずっとイエスさまが一緒にいて、導いて行ってくださることを望んでいたでしょうか。イエスさまが離れて行ってしまって、再び絶望したでしょうか。
いいえ。死をもってしてもイエスさまと自分たちが離されることはないのだと知った彼らは、今度は自分たちの足で立ち、出かけてゆきます。イエスさまと共に行動していたあの頃のように、神さまの愛を伝え、隣人への愛を示すため、歩み始めるのです。
(使徒言行録 1:8~14)
牧師補 執事 下条 知加子
「わたしにつながっていなさい」 2023.5.14
ユダヤの人々の常識では、「ぶどうの木」や「ぶどう園」は、イスラエルの共同体や神さまの国のたとえだったそうです。人々に約束されたすべてのことが、イエスさまの生涯を通じて果たされた、「神の国」が示されたのだと、聖書の著者は言いたいのかもしれません。父なる神は、不必要なものを取り除き「豊かに実を結ぶ」ために、丁寧にぶどうの木の手入れをする様子ですが、単に収穫量を増やすことが目的ではなく、ぶどうの木もその枝も、本来あるべき姿となるように、つまり神の国が実現されるために作業を絶やさない、そんな神さまの姿が浮かび上がってきます。
ところがわたしたちは、物事がうまく行っている時は、ひとりで何でもできるような気分に陥るのに、どうしたらよいのかわからない窮地にひとたびはまると、「神さまは一体何をしているのか」と詰め寄ったりします。それは、自分の弱さや情けなさと直面するのを避けるにはよい方法かもしれませんが、わたしたちがそうしている間も、淡々とぶどうの木の手入れをなさる神さまです。
つまり、わたしたちが自力では抜け出せないような泥の中にいる時、そこに降りてきて一緒に這い回り、共に居てくださろうとする神さまの姿を表しているのではないかと思うのです。そしてそのことこそが「神の国」の到来なのかもしれないと思うのです。祈りの言葉さえ浮かばない苦しみの中にあるとき、イエスさまはわたしたちに呼びかけ続けてくださいます。「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたとつながっている。どんな時も決してあなたを一人にはしない」と。
(ヨハネによる福音書 15:1~8)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「イエスさまこそ『道』」 2023.5.7
イエスさまはご自分が逮捕される直前、最後の晩餐の席で、「私が行く所にあなたがたは来ることができない」と言われました。イエスさまはどうなってしまうのか。自分たちは置いて行かれてしまうのか。一体どうしたらいいのだろうと、弟子たちは不安で一杯でした。
ペテロはイエスさまに、どこへ行かれるのですかと問い、付いて行きたい、あなたのためなら命を捨てます、と申し出ますが、「今付いて来ることはできない」と言われてしまいます。トマスは、イエスさま、あなたがどこへ行くのか分からない、その道もわからない、と言います。「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」とおっしゃるイエスさまにフィリポは、自分たちに「御父をお示しください」と願います。
長く行動をともにしてきたはずの弟子たちさえ、私の行こうとしているところを、そしてその道を理解していないのかと、イエスさまはがっかりされたのでしょうか、「こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか」とおっしゃっています。いよいよ十字架が間近にせまっているというのに…と。
私たちは、初めてどこかへ行こうとするとき、目的地をはっきりと見据えて、地図や道案内を頼りにそこへ行く道すじの見当をつけておかなければ、不安で出発することができないでしょう。この時の弟子たちは、その目的地を見失い、行くべき道が分からなくなってしまっているようです。イエスさまの行かれるところに「後から付いて来ることになる」と言われても、もはや何をどうしたらよいのか、心はざわざわと騒ぎっぱなしだったのではないでしょうか。
でも、イエスさまはおっしゃいます。「私を見た者は、父を見たのだ。」そして目的地は私の父の家である。そこには安心して住むことのできる家がたくさんある。そこへ至る道は私自身である、と。イエスさまの行ないに倣い、イエスさまを信じて歩んでゆくとき、きっとイエスさまがおっしゃった「あなたがたのための場所」-安心して居ることのできる住まい-に導かれてゆくに違いありません。
(ヨハネによる福音書 14:1~14)
「羊飼いに導かれて」 2023.4.30
聖書では私たち人間を羊に例えていますが、羊とはどんな動物でしょうか。
まず、とても臆病で、危険を察知するとすぐにパニックになって逃げ出してしまいます。身を守るために群れで生活しているのですが、群れの中で一匹がパニックになると、ほかの羊たちも連鎖的にパニックになってしまうことがあるそうです。また、極度の方向音痴で、一度群れからはぐれると自力では戻って来られません。毛を刈る前の羊は、体重の割に足が細いため、一度転んでしまうと自力で立ち上がることができないこともあり、狼などに襲われたら、逃げることも抵抗することもできず、食べられてしまうのです。
こんな特徴を持つ羊ですから、その群れを守りお世話をする羊飼いは本当に大変な仕事です。しかし、この羊の姿は私たち人間の姿でもあるように思われます。人間もまた、導き手を必要としている、一人迷い出たら戻ってくることさえできない、弱い存在なのではないでしょうか。
今日読まれた詩編23編には、羊たちを導くイエスさまの姿が描かれています。私が中高時代に習った、詩編23編を歌った讃美歌では、次のような歌詞になっていました。
「主はわが羊飼い主 我ともしきことあらじ
緑の野辺に我を伏させ 水際に憩わせたもう」
思春期で、自分自身のこともよくわからず、心身ともに不安定な時期にあった私は、文語体のこの美しいことばに幾度となく慰められ、助けられたように思います。
ヨハネによる福音書10章で、イエスさまはご自身を、羊の囲いに入る門であると同時に、良い羊飼いであると言われています。私たちを導き守り、疲れた時は野辺に休ませ、渇いた時には水を与え、活き活きとした生へと導いてくださるイエスさまに信頼して、今日も歩んでゆきたいと思います。
(ヨハネによる福音書 10:1~10)
牧師補 執事 下条 知加子
「エマオへの遠回り」 2023.4.23
聖書には、イエスさまの十字架の意味や復活について、腑に落ちていないお弟子さんたちの姿があちこちに描かれていますが、ずっと一緒にいたこの人々でさえ、イエスさまの「十字架と復活」の意味が本当にわかるまで、少し時間が必要だったということなのかもしれません。
今日の福音書は不思議な設定です。時は十字架刑が行われた3日後のこと。お墓に行った女性たちが「イエスは生きている」と言っていると聞かされますがにわかには信じられず、暗い顔をしたまま、何故かエマオへ向かうお弟子たちです。隠れているのも危険だと判断したのか、それともあまりの恐ろしさにエルサレムを脱出したのか、そこは書いてありません。最初は誰が一緒に歩いているのかさえ、全く気がつかなかったお弟子たちでしたが、そのまま夕暮れとなり、宿をとった家で夕食のパンを裂いた時、急に「イエスさまとずっと一緒だったこと」を知るのです。これから何か起きるか、とイエスさまから直接、何度も告げられていたにもかかわらず、全然リアリティがなかった。しかも、自分達の描く「神の子」の行く末とかけ離れていたゆえ、これからどのように生きたものか、途方にくれていたのでしょう。しかしイエスさまは、無理解な彼らを見捨てるのでもなく、わざわざエマオまでやってきて、なんとしてでも励まそうとされる。
わたしたちが「復活は知っている」と思いながら、現実は「暗い顔」をしたまま、魂に喜びがなく、燃えた心もなく、惰性で生活をしているとき、それはエマオへの道を歩いているのと似ているのかもしれません。そして、イエスさまは一見無駄にもみえるエマオへの遠回りにさえ寄り添ってくださり、なんとしてでも「どんな時も一緒にいますよ」と必死になってわたしたちに伝えようとされる。「復活」は、完成した出来事ではなく、頑ななわたしたちの心に、今も静かに、少しずつ染み込んでいるのではないでしょうか。
(ルカによる福音書 24:13~35)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「赦されて」 2023.4.16
弟子たちの心は、失望と恐れ、先が見えない不安に縮こまり、家の扉は固く閉ざして鍵をかけ、窓もカーテンも閉めきっていたことでしょう。真っ暗な中でひっそりと過ごすしかなかった彼らは、思うように自分の不安を口にすることもできず、その心は窒息しかけていたのではないかと思います。そんな彼らの真ん中に、不意にイエスさまが現れて、「平和があるように」と言われたのです。
「弟子たちは、主を見て喜んだ」と書かれていますが、はじめは驚き、戸惑ったに違いありません。何が起こったか理解できなかったからです。けれども、手と脇腹の傷を見せられて、それがイエスさまだということが分かりました。自分たちは見捨ててしまったのに、イエスさまはわたしたちを見捨ててはいなかった。傷の痛みを負ったままのイエスさまが、今も共にいてくださる。この出会いによって弟子たちは、本当の意味で自分たちが赦されていることを感じたのではないかと思います。
もはや平和も平安も訪れることはないと絶望しかけていた弟子たちでしたが、再びイエスさまと出会い、立ち上がることができました。真っ暗な心のただなかに、平和・平安という希望を与えられて、閉ざしていた心の扉を開くことができるようになったのです。
しかし、平和や平安は、一度与えられたらそのまま続くというものでもありません。疑い深いトマスの姿は、すぐに不安になる私たちの姿でもあります。イエスさまを直接見ることができずとも、必ず共にいてくださることを信じる私たちであり続けたいと思います。
(ヨハネによる福音書 20:19~31)
牧師補 執事 下条 知加子
「イースターおめでとうございます!」 2023.4.9
イースターというと、エッグハント?うさぎ?チョコレートのお菓子、、、と思い浮かぶ方もおられるでしょう。また、厳しい冬が去り、世界(北半球だけですが)が、灰色から一転し、一斉にあざやかな彩りに包まれる春の訪れと、そして「今年もなんとか冬を乗り切った」「生き残った」という喜びを、実感するのでしょう。
教会にとってのイースターは、「新しい季節がやってきた喜び」だけではなくて、どうしても、「イエスさまの十字架の意味」を自分のこととして、心に留めることと切り離せないのだと思います。つまり、十字架という大変な苦しみを引き受けてくださって「ありがとう。はい次!」ではなく、どうしても十字架なくしては、わたしたちに告げる方法がなかった。世間的には「人生失格」「敗残者」といった烙印を押される十字架刑を通じてしか、わたしたちが理解することができなかった「何か」を伝えようとされた出来事なのではないかと思うのです。
神さまのイメージというと、何かとても崇高で、万人に手の届かないところにおられ、善悪を判断し、悪人には罰を、善人には御褒美を与える、といったイメージがあるかもしれません。しかしイエスさまは、短い活動期間(たった3年!)の間に、徹底して全然ちがう神さまについてお話しされました。それは、旧約聖書のイザヤ書(53章)に描かれた「苦難のしもべ」と呼ばれる神さまの姿です。堂々とした神らしい風格も、好ましい容姿もなく、人々から軽蔑され、親しい人からも見捨てられる神であると。しかも、そういった対人関係だけではなく、多くの痛みや苦しみを負っておられ、「病に罹る」ということの辛さも知っている神であると。そして、神だからそのうち社会を変えてくれると人々が期待していると、逮捕され、リンチに遭い、いい加減な裁判で有罪判決が出て、あっけなく死刑になる神。
当時の人々は「そんな神ならいらない」ということで、期待は怒りに変わり、喜びは憎しみに包まれます。つまり人々は、自分が期待する「神」を、イエスさまに投影したので、「裏切られた」と、妬みや困惑も相まって、行政側だけでなく、一般民衆もこの憎しみの輪に加わっていきます。そうして、イエスさまは完全に「見捨てられ」て、十字架刑にかかって亡くなります。
ここで話が完全に終わるなら、「ひょっとしたら、イエスという人は単なる惨敗者なのかも」という気持ちが、わたしたちの中にも広がったことでしょう。わたしたちを愛し、わたしたちのためになんでもしてくださる神さまは、さらに一歩、足を踏み出してくださいました。それが「復活」したイエスさまの存在です。
つまり、社会的には「極悪人」として処刑されたイエスさまは、何かに失敗したからそうなったのではなく、その一連の出来事を通じて、神とはどういう存在なのかを、あらゆる方法を用いて、わたしたちに伝えて下さったのが、「イースター」の出来事なのです。言い方を変えれば、「よみがえったから凄い」のではなく、神さまのわたしたちに人類に対する想いを本当に知ること、わたしたちがどんなに神さまに大切にされ、愛されているかを知ること、それがイースターなのではないでしょうか。
「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれません。でも、自分が大切にされることを通じてしか、わたしたちは自分で自分を大切にする方法を知りません。また、自分を大切にすることが出来て初めて、他の人を大切にすることができるようになります。生きていくことは、時にはとても辛いです。でも今日の命があるということは、神さまが他でもないあなたに「今日、あなたにやっていただきたいことがある。よろしくね」と、命をお預かりし、生きていくのに必要なものを与えようとされている、ということなのだと思います。生かされていることへの感謝、いのちの喜びを感じられるイースターが、あなたのところにも届きますように!
(新約聖書 ヨハネによる福音書 20章1~10節)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「十字架につけたのは」 2023.4.2
ところが、それから間もなくイエスさまはユダの裏切りをきっかけに捕らえられてしまいます。共に活動していた弟子たちは皆逃げてしまいました。最高法院で裁判を受けたイエスさまは、神を冒涜したかどで有罪となりました。自分たちで死刑にはできないユダヤ人たちは、イエスさまをローマ総督ピラトに引き渡しました。祭司長たちや長老たちが散々イエスさまに不利な証言をしましたが、イエスさまは何故か何も答えられませんでした。
総督ピラトは、人々がイエスさまを引き渡したのは妬みのためだとわかっていました。祭りの度に民衆の希望する囚人ひとりを釈放することにしていた総督は、バラバ・イエスかメシアと言われているイエス、どちらを釈放してほしいのかと人々に問います。バラバは名うての囚人でしたから、人々はイエスさまの釈放を願うだろうと思ったのかもしれません。しかし民衆はバラバの釈放を求め、イエスさまを「十字架につけろ」と叫び続けました。
今日読まれる福音書は、朗読劇として会衆が分担朗読するのですが、全員で「十字架につけろ!」と叫ぶ時、イエスさまを十字架につけているのは他でもない私自身だということを、あらためて思わされます。この社会で、罪のない人が裏切られ、不利な証言をされ、裁判にかけられ、死に追いやられる…。この社会で起きている事柄・事実に目を向けようとせず、かの弟子たちのように、逃げてしまってはいないだろうか。今日から始まる聖週、そのことに思いを致しつつ過ごして行きたいと思います。
(新約聖書 マタイによる福音書 27章1~54節)
牧師補 執事 下条 知加子
「生きること 死ぬこと」2023.3.26
さまが生きておられた時代には、そうとしか表現できない何かが起きたのかもしれませんが、今、誰かを生き返らせていただけるわけではなし。「へぇ〜、よかったね、知らんけど(←関西風に)。」と心の中で言っている自分がいます。
今日のエゼキエル書(旧約聖書)にせよ、福音書のラザロの話にせよ、生き返った人は、いつかまた遠くない将来亡くなるわけですから、何のために生き返させられたのか、何が目的だったのか、謎は深まるばかりです。
少し話はズレますが、キリスト教の人間観では、人は身体と心と魂が、互いに影響し合いながら生きている、と考えています。身体の不健康は分かりやすく、熱が出たり立っているのがしんどかったりすると、すぐに気がつきます。また心についても、誰とも会いたくない何もする気が起きない期間が長く続くと、医者に行ってみようかと思う人もいるでしょう。しかし魂はどうでしょうか。魂の不健康さは、人に意地悪をしても平気、人に知られなければ不正も強行、人を騙し自分にも嘘をつく、といった症状として現れます。でも、一般的にはそれを「魂が不健康な兆候」とは認めず、むしろ「要領がいい」くらいに思われている節があります。
そういうことを考えると、現代のわたしたちが思うよりずっと、心と身体と魂の「健康」と「不健康」の境目は曖昧なのでしょう。また、心や魂や身体が「生きている」か、あるいは「死んでいるのか」という境目は、わたしたちが思っているよりずっと、曖昧なのかもしれません。肉体が死んでも「終わり」ではないことは知っていても、実は自分の魂と心が「死んでいる」ことに気がつかない人は多いのかもしれません。常に、命へと導いてくださる神さまの愛に信頼し、命を選ぼうとするわたしたちでありたいと思います。
(旧約聖書 エゼキエル書 37章1~3、11~14節)
牧師 司祭 上田 亜樹子
「イエスさまと出会って」 2023.3.19
障がいを負うことは、ただ不自由というだけでなく社会から疎外されることでもあります。疎外される、仲間外れにされることは、身体に不自由があることよりもずっと辛いことではないかと思います。生きて行くためには物乞いをするしかない。両親さえ自分を保護してはくれない。そんな状況にあって、彼は本当に孤独だったことでしょう。
そんな時に出会ったイエスさまは、目が見えないのはあなたが罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもないと宣言し、彼の目に触れ、シロアムの池で洗うように言われました。そんなことで生まれつき見えなかった目が見えるようになるのだろうかとイエスさまの言葉を疑い、言われるように行動しなかったならば、その目は開かなかったでしょう。しかし、彼はイエスさまの勧めに従いました。目が見えないのは誰のせいでもなく、「神の業が」あなたに現れるためだというイエスさまの言葉を受け入れ、言われるままにシロアムの池に行きました。
彼がイエスさまを信じたのは、人々との関りが絶たれ孤独の内にあったときに、自分と関わり、自分に触れ、真っすぐに向き合って言葉をかけてくださったイエスさまに励まされたゆえでしょう。
目が見えるようになり初めて社会へ出て行こうとしたとき、イエスを疎んでいたユダヤ人たちは彼を拒否しました。しかし再び、彼はイエスさまと出会います。イエスさまを主と信じ力を得た(神の業が現れた)その人は、力強い一歩を世の中へと踏み出して行ったに違いありません。
(新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1~13、28~38節)
牧師補 執事 下条 知加子
「人にどう思われるか」 2023.3.12
しかしながら、「人にどう思われるか」という視点が培われるのは、実際に受けた、人からのリアクションに加え、自分の中にも行動チェックをする別の自分がいて、むしろそちらの方が強烈な力があるように思います。無意識のうちにしかも素早く「人にどう思われるか」を察知して、身を護るよう警鐘を鳴らしてくる、そんな別の自分です。
今日の福音書のサマリアの女性にとって、イエスさまの行動は、最初は警鐘だらけだったに違いないのです。サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が話しかけてきて、さらに下手に出て何かをお願いする、この女性が不審に思っても何ら不思議はありません。親切に水を呑ませても、絶対に何か別ストーリーがあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリアの共同体からほれ見たことかと言われるかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて、自分は安全なのか、と気が気ではなかったに違いありません。ところが、信じられないことが次々とおきていきます。その町のサマリア人の多くがイエスさまの言うことに耳を傾け、神さまの愛を信じるようになります。ユダヤ民族としては切り捨てた人々なのに、イエスさまはサマリア人の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされます。民族や常識や宗教を超えて、また「人にどう思われるか」を超えて、最も優先すべきことを大切にしていくよう、人々が変えられていく、そんな奇跡の物語ではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「新たに生まれる」 2023.3.5
そのような中、ニコデモは人目につかないよう夜遅くにイエスのもとを訪ねました。高い地位にあり宗教指導者でもある彼が、自分よりずっと若いイエスに対して「先生」と呼びかけていることから、イエスさまを尊敬している様子がうかがえます。そして、神の国に入るため-救われるためにはどうしたらよいか尋ねたのです。
イエスさまの答えは「新たに生まれ」ることでした。霊から生まれることによって「新たに生まれる」のだと言われているのですが、それは、新しい生き方をすることと言い替えることができるかもしれません。ニコデモは、イエスさまの言葉の意味を「もう一度、母の胎に入ってうまれること」だと考えたわけではないでしょうが、今ある地位や立場を捨てて生き直すことは、それと同じくらい不可能だと感じていたということではないかと思います。
この夜のイエスさまとの問答で、ニコデモはにわかに生き方を変える-生き直す決断をする-には至らなかったようです。しかし、イエスさまとの出会いを通して彼は変えられて行きました。ヨハネによる福音書でニコデモはこのあと2度ほど登場します。かつて密かにイエスさまに会いに行くことしかできなかった彼は、堂々とイエスさまを弁護する発言をし(ヨハネ7:50-51)、イエスさまが十字架上で亡くなられたとき、アリマタヤのヨセフと共に遺体を受け取り、墓に葬りました(ヨハネ19:39-40)。
今手にしているものをすべて捨てて生き直すことは易しいことではないかもしれません。けれども、本当の救い-真理-を求め続ける時、ニコデモのように、新たな生を生きる者とされることを信じたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「『誘惑』との別離」 2023.2.26
1つ目は、「石をパンに変える」誘惑でした。災害が起きた時に、水や食料 を届けるのは必須ですが、それで「何かやってあげた」という気分になる誘惑も 含むのでしょう。当時、イエスさまだけではなく、多くの人がお腹を空かせていましたが、そんな人々の前で石をパンに変えて見せれば、身体が満足しただけで はなく、神さまの力を信じる人も出てきたかもしれません。しかし、イエスさま が紹介する神さまは、都合よく「物をくれる神」ではなく、また「自立を阻害 する神」でもなく、「愛」の神でした。
2つ目は、「神を試してみる」誘惑でした。目に見えず手で触れることもできない神さまを、悪魔は旧約聖書を引用し、心身が納得する方法で試すよう誘います。イエスさまは神殿の屋根まで連れて行かれましたが、人間の弱さを忘れていませんでした。「試し」た直後だけ神の存在を感じることができるかもしれませんが、 1秒後にはまた試したくなる。それは、いくら飲んでも喉が渇く塩水を呑むのと同じです。永遠に神を試し続け、そして不安しか与えられないというジレンマをよくご存知でした。
3つ目は「世界のすべてを支配する」誘惑でした。でも、神さまの国は、支配や秩序やルールによって守られる国ではなく、「愛」が基盤となり、人々が自由意志と、喜びと自らの責任において生き方を決める国です。そう最終的に心を決めたイエ スさまの道は、ここからはまっすぐ十字架に向かうことになります。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「大斎節に」 2023.2.19
大斎の始まりの日・大斎始日は灰の水曜日とも呼ばれます。この礼拝の中で司式者は会衆に、灰の十字架のしるしを受けることを勧めます。そして「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠をつくしなさい。」と唱えながら、一人ひとりの額(おでこ)に十字架のしるしをつけるのです。この灰は、わたしたちが悔い改めを必要としていることを思い起こすためのしるしですが、わたしたちがいつかは死に至るものであることをあらためて思い起こすよう促すものでもあります。
普段、一定の健康に恵まれ、滞りなく日常を過ごしている時は、いつか必ず死が訪れること、それは明日、あるいは今日かもしれないということを忘れがちです。自分が、あるいは自分たちが自力で上手くことを運べているように思う時、自身が弱く儚い存在であることも、助け合って生きることの必要と大切さも、つい忘れて過ごしてしまうように思います。
しかし、災害や紛争・戦争に遭遇するとき、死ということを意識せざるを得ないとき、わたしたちは助け合って生きることへ向かわされるのかもしれません。先だっての東日本大震災の折には、127もの国から日本へ、ボランティアが来てくれたのだと聞きました。
わたしたちが、ちりから造られ、ちりへと帰ってゆく儚い存在であることをあらためて意識するとき、そんなわたしたちのためにその生涯と命をささげてくださったイエスさまの愛を思います。その大きな愛を無駄にしてはならないと、今あらためて思います。
悔い改めよとの呼びかけは、愛することを忘れていませんか、という呼びかけではないでしょうか。わたしたちがイエスさまの愛に倣う者とされますよう祈りつつ、この大斎節を過ごしてゆきたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「神さまの前に生きる」 2023.2.12
ユダヤ人社会でも、律法に照らして「間違い」とは認識されないものの、神さまの「愛」に反する行為は見過ごしにされてきました。密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりすることは、律法に反したとは明らかにされないので許容されてきたのでしょうが、イエスさまはこういったことに対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」とおっしゃいます。
しかも具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、たとえ口に登ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるとおっしゃっています。
しかし「裁きを受け」ないために、何一つ間違うな、とイエスさまが言っているわけではありません。重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが目的ではなく、こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、実は本人の心と身体と魂の健康を少しずつむしばみ、愛に基づかない判断や自分を絶対化する傾向、そして最終的には神さま不要の生活になってしまう。しかもそれに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっています。神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めていきましょう。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「地の塩、世の光」 2023.2.5
「光」も大切なものです。光がなければ、わたしたちは見ることができません。物の色もわからないし、その大きさや形を知ることもままならないでしょう。私たちが生きて行く上で、光は無くてはならないものです。
イエスさまは、話を聞いている弟子たち、また話を聞きに来ている多くの人々に向かって、あなたがたは「地の塩」、「世の光」であるとおっしゃいました。あなたがたは大切な存在です、無くてはならない存在なのですよ、と伝えようとされたのだと思います。
イエスさまが弟子として招いた人たちは、社会的に地位が高いわけでも、ことさら優秀なわけでもなく、生きることに不安を抱えていたり、当時のユダヤの社会の中で罪人とされている人も含まれていました。話を聞きに来ていた群衆の中にも、罪人とされている人や、様々な病に苦しんでいる人びとが大勢いたのです。自分など生きる価値があるのだろうか、このままでよいのだろうかと悩んだり、希望を見失っている人びとも少なからずいたのではないかと思います。
あなたは大切な人、無くてはならない尊い存在だと聞かされて、彼らはどんなに励まされたことでしょう。あなたは闇ではない、光なのです。燭台の上から家のものすべてを照らし、その光を人びとの前に輝かせなさい、と言われて再び生きる希望を見いだした人もいたに違いありません。
イエスさまは今を生きるわたしたちに向けても語っておられます。誰一人としてこの世界に不必要な人は存在しないと。生きることに困難を感じ、あるいはその意味を見失いかけているときにこそ、「あなたは地の塩/世の光」と語りかけてくださるイエスさまの言葉に耳を傾けてみたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「心の貧しい人々が幸い?」 2023.1.29
普通に考えれば、心の豊かな人が幸いなのでは?と思えるかも知れません。でももしその豊かさが、自分の望んでいるものだけで心が満たされている状態だとしたら、その人はそれで満足し、他の物事が入り込む隙間が無くなってしまっているかもしれません。そんな時はきっと、何かに頼る必要も感じないことでしょう。
反対に、心が貧しいというのが、自分の望むものが得られず、心が空っぽのような状態だとしたら―自分の無力さを自覚し、虚しさを感じているとしたら―そこには他の物事の入る余地があります。望ましくないものが入り込んでしまう危険もありますが、神さまの言葉が、メッセージが、入る可能性があるということにもなるのだと思います。そういう意味で、心の貧しい人は幸いであると言われているのではないでしょうか。
人は自分の現状に満足してしまうと、神さまの言葉に耳を傾けることを忘れてしまうのかも知れません。私が、私たちが、今のままでいられればそれが一番都合が良いように思われるし、何より楽なのです。けれど、一旦、この世の不条理や、不正義が横行し決して平和とは言えない社会に目を向けたとき、私たちはどのように応答しているでしょうか。
「幸い」と題されたこの箇所には8つの幸いについて語られています。どんな人々が「幸い」なのか。それは心から神さまを求める人々なのだと思います。そしてまた、他の人々の心の平和のため、社会の正義と平和のため、行動を起こす人こそ幸いであるとも、イエスさまは語っておられるような気がしてなりません。
牧師補 執事 下条 知加子
「天の国はすでに近くにある」 2023.1.22
それは一旦置いておいて、「天の国は近づいた」という言葉を最初に問題にしたいと思います。もしこれを「この世の終わりが近づいている。審判の時がすぐそこに迫っているから、今のうちに良い人になって、天国に入る準備をしておいた方がよい」というふうに読んでしまうと、その情報を手に入れることが出来た「早い者勝ち」のように聞こえてしまいます。しかし原文を見ると、「天国は(すでに)近くにあるのだから、考え直しなさい」とも訳せます。イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、「あなたには関係ない」とされてきた貧しい庶民や社会的地位の低い人々に、「他ならぬあなたの近くに、天の国はある。だから、自分は関係ない、なんていう考えは変えなさい」と、イエスさまが言っておられるように思うのです。
さらに追い討ちをかけるのが、「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。読み方によっては、食べるために魚を捕まえるように、商品のように人間を捕まえる、という話に聞こえてしまいますが、こちらも原文を見ると、「私はあなたを人間の漁師にしよう」とあるだけで、狩のように「人間を獲る」とは書かれていません。この方がわかりやすいだろうと言葉を添えたのかもしれませんが、イエスさまがおっしゃりたかったのは、人を獲るという意味ではないように思います。
つまり、社会的に一人前の大人の仕事とも認められていなかった職業の一つである漁師に対し、職業を変えるのではなく「あなたはあなたのままで、すでに一人の人間として神さまから尊重されている。そういう者として生きなさい」とイエスさまは告げておられるのではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「何を求めているのか」 2023.1.15
ヨハネの二人の弟子は、ヨハネがイエスさまを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言うのを聞いて、イエスさまに従って行きました。二人は師であるヨハネを信頼しつつも、ヨハネ自身がまだ何かを探し求めていることに気づいていたのでしょう。そして、イエスさまに対するヨハネの眼差しから、イエスさまの中にその答えがあるかも知れないと感じたのでしょう。
イエスさまについて行ったところ、「何を求めているのか」と聞かれた彼らは、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます。イエスさまは「○○に泊まっている」とは答えず、「来なさい。そうすれば分かる」とお答えになりました。どこに泊まっているのかという質問は、ただ宿泊場所を聞いているのではなく、どんな場所に留まり、どのようなことをなさっているのかを知りたいのだと察したゆえの返答だったのだと思います。二人はゆく道々、イエスさまの話を聞き、イエスさまのなさることを手伝ったことでしょう。そしてその日はイエスさまのもとに泊まりました。
二人はイエスさまと共に過ごす中で、真にイエスさまに出会い、自分たちの探し求めていたものを見つけたに違いありません。ただ話を聞くだけでなく、一緒に過ごし共に体験する中でこそ最も大切なことに気づくことができるのだと、イエスさまが教えてくれたようです。二人の内の一人アンデレは、そのあと自分の兄弟シモンに会い、「わたしたちはメシアに出会った」と告げ、イエスさまのところに連れて行きます。シモンもまた、共に過ごす中で探し求めていたものと出会い、イエスさまに従う者となってゆきました。
わたしたち自身の本当の願い、心の奥底で探し求めていることは何なのか。それは自分の力だけでは知ることの難しいことですが、イエスさまとの出会いによって知ることができるのかも知れません。一番大切なそのことに気づく道筋が、わたしたちにも示されますように…。
牧師補 執事 下条知加子
「なぜ、イエスさまが『洗礼』を?」 2023.1.8
しかし、今日の福音書では、罪のない「神の子」イエスが洗礼を受けています。うろたえるバプテスマのヨハネに対し、「今は止めないでほしい。正しいことだから」と答えるイエスさまですが、「罪を帳消し」にされる必要があったとは思えません。また、洗礼の場面なので、つい「水」のことばかり記憶に留まってしまいますが、イエスさまご自身は洗礼を受け、そして続いて「神の霊が鳩のように降っ」たと書かれています。つまり、「水で洗うこと」と「神の霊が降ること」はセットであり、本来は1つの出来事なのですが、さまざまな経緯により、前半を「洗礼」、そして後半を「堅信」とみなすようになりました。
でも、「神の霊が降った」からといって、別にビビビッと電流が流れた訳ではないでしょう。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の霊が降って「愛する子」と宣言されたように、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたすべての人々は、実はすでに神さまの「愛する子」と宣言されているのではないかと思うのです。それを受け入れるのには、とても大きな勇気を必要とするかもしれません。なぜなら、目に見える確証はなく、音としても聞こえないからです。
現代のわたしたちにとっての洗礼は、これからの人生を神さまと共に歩きたい、イエスさまが示してくださった「愛」に信頼して生きていきたい、その決断を公表することであり、このための努力を自分も続けられるよう、教会の皆さんに祈って支えていただきたいと公言することでもあるでしょう。
しかも洗礼は、依存の対象を人間から神へ転換する、ということではありません。間違えても失敗しても、迷っても怠けても、あるいは良い子でいても悪い子になっても、決して見放すことのない方が、自分をしっかり支え続けてくださる、神さまは自分を「わたしの愛する子」と呼びかけておられる、と信じることなのでしょう。それが、わたしたちが洗礼を受ける時に、神さまと交わしたお約束なのではないかと思うのです。そしてその模範を示してくださるために、イエスさまはわざわざ洗礼を受けてくださったのかもしれないなと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「その名はイエス」 2023.1.1
私たちにも一人ひとり名前があります。名付けというものは自然と“思い”がこもるものだと思います。みなさんそれぞれの名前は、親や祖父母、あるいは近しい人が、あなたにはこういう人になってほしいという願いを込めて付けられたことでしょう。私たちにとって名前は大切なものです。
ユダヤの人々にとっても、名前というのは特別な意味をもっていました。名は体を表すと言うことがありますが、名前は願いや思いという以上に、人や物の本質を表すものと考えられたのです。
イエス(ギリシャ語でイエス―ス、ヘブライ語・アラム語ではヨシュア)という名前は、当時のユダヤでは平凡な名前でしたが、その意味は「主は救い」というものです。マリアが懐妊前に天使ガブリエルから告げられた、またヨセフが夢で天使から示されたその名前はイエス。クリスマスに生まれた幼子は、イエスと名付けられました。そしてその名の通り「私たちの救い」となられました。
神さまが私たちを愛するがゆえに送ってくださった幼子は、神さまが私たちを救うためにこそこの世に来られたということを、あらためて思いめぐらしたいと思います。
主イエスが私たちとともにおられますように!
牧師補 執事 下条 知加子
「ことばは、わたしたちの間に宿った」 2022.12.25
しかし「証拠のない」神を信じるためには、人々はしるしを求め、すがる「物」を探し求めます。すると、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、これ幸いとばかりに、人々をだます人も現れます。本当は、ひとりひとりが自分の良心と洞察力を駆使し、偽物か本物かを見極めれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。神の存在そのものの捉え方があやふやな人間は、神のご意志についても、あれこれと道に迷ってきました。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)や律法を送ってくださいましたが、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐにそんな神の苦労も忘れ、再び道に迷う生き方を人々は繰り返してきました。
そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる神に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に人々に示しました。
「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂は真実を知った。つまり、人はどのように生きるべきか示され、その指針は希望の光として、すべての人々に宿った。「イエス」と名前の付く前の存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感動しながら、わたしたちにそのことを伝えています。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「共にいる」 2022.12.18
彼は「正しい人であった」と書かれていますが、この言葉の原語は、公正な、律法に忠実である、というだけではなく、曲がったことのきらいな性格という意味もあります。マリアを大切な存在に感じていた彼は、この事件によってマリアが後ろ指を指されて生きて行くこと、まして処刑されるなどということを何とかして避けたいと考えたのでしょう。マリアを心から愛していたのです。ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心します。
しかし、縁を切ったところで生まれた赤ん坊を抱えたマリアは生活していけるだろうか…。そんなことを思い巡らしているところへ、主の天使が夢に現れて、言いました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」不安と恐れに心を埋め尽くされていたヨセフに、神さまの言葉が与えられたのです。わたしがあなたと共にいる(インマヌエル)。わたしがあなたたちを助ける。だから、マリアとその子を受け入れなさい。その言葉は希望の光となりました。ヨセフは神さまに信頼して従い、妻とその子を迎え入れる決断をしたのです。こうしてヨセフはマリアにとって無くてはならない助け手となりました。
天使は「その子をイエスと名付けなさい」と言います。イエスという名前は“神は救い”という意味です。神さまはイエスさまを通して先ず、ヨセフと、そしてマリアに、「共にいる」ことを知らせ、救われました。
わたしたちも、どうしようもない、八方塞がりと思えるような困難に出会った時こそ、神さまが共におられることを思い起こし、神さまが救ってくださることを信じて、希望を持って歩みを進めてゆきたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「クリスマスを迎えるということ」 2022.12.11
自分は命がけで神の国について人々に語ってきた、家族や安定した生活も捨てて自分の役割を果たしてきた、それが使命だと信じていたから。なのに人生の終着点が逮捕と死とは。ひょっとしたら、自分は何か思い違いをしたのではないか。そんな考えがヨハネの頭をよぎったのでしょう。イエスさまのことをみんなに知らせるのは、本当に自分の役割だったのか、自分の思い込みだったかもしれない、自分は情けない敗北者か。そう思うと、ゾッとするような冷たい風が、ヨハネの背中を下から上へと駆け抜けました。そして彼は、イエスさまに聞いてみようと思いました。
そこでヨハネは、牢獄から自分の弟子に使いを送り、「これで良かったのでしょうか」と、イエスさまに問います。ヨハネは、「そうだ。あなたは間違っていない。安心して逝きなさい」というイエスさまの答えを期待していたのかもしれません。
でもイエスさまは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と返事します。なんだか肩透かしのようでもありますが、ヨハネの人生だけに限って、当たりハズレを答えたのではなく、イエスさまを通じて人々の間に起き始めていること、常識的に考えて「ありえないこと」が始まった、つまり神の国が地上に展開され始めているのだ、と答えたのです。
イエスさまが挙げた様々な事例は、当時の常識では、ありえないことでした。目や耳や足が不自由な人は、神から見放され、祝福から漏れているからそうなった、と考えられていました。同様に、「死者」は社会復帰するはずはなく、貧しい人への福音なんてあるはずないと信じられていました。困難に遭う人は、神から見捨てられ、愛される資格がない人、と考えられていたからです。ところがイエスさまは、全く正反対のことを人々に告げています。
掟をきちんと守り、清く正しく生活することができる人ではなく、貧しい人たちこそが「福音」、つまり「良い知らせ」を告げられている、というのです。それは、イエスさまが家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたこととも通じるかもしれません。偉大な神として君臨するためではなく、超能力によって人の興味を引くためでもなく、苦しみや悲しみを抱えた人々と、徹底して一緒にいようとする神を伝える。そんなイエスさまの目的を、バプテスマのヨハネも時には忘れ、大きな不安に取り憑かれた、ということなのでしょう。
社会的に言えば、ひとりぼっちで獄中で亡くなったヨハネは、「成功者」ではないでしょう。でも神さまの目にとっては、自分の役割を果たした人。そんな人々に支えられて、クリスマスを迎えていくのではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「荒れ野で」2022.12.4
当時ローマ帝国の軍事支配下にあったユダヤの国は、決して平和とは言えませんでした。例えば現在の沖縄のように、戦争中でなくても軍事基地があったり、兵士が町の中にいくらでもいるような状況では、平穏無事な日常は守られないことでしょう。そんな社会の中で人びとに悔い改めを勧めることは「荒れ野で叫ぶ」ようなことだった、ということかも知れません。
あるいは、ヨハネが悔い改めることをまず勧めたかった人びとは、当時の社会の中で生き辛さを感じている人びと、周縁に追いやられている人びと、人としての尊厳を奪われている人びとだった。荒れ野で過ごすような厳しい生活を強いられている人びとに救いがおとずれることをまず願って、ヨハネは宣教していた、ということかも知れないと思います。
一方で、荒れ野は自分自身を顧みるのにふさわしい場所であるとも考えられます。物事を、普段自分が見ているのとは違う視点から見直すためには、日常の喧騒から離れ、静かに過ごすことは有効です。また、ヨハネが勧めていた悔い改め、そして洗礼は、低みに立って見直すことでした。川が流れる低い土地の、さらに川の底に立って、最も低い所から事柄をながめる。すると、それまで見えなかった景色が見えて来ることでしょう。
もうすぐクリスマス、平和の君なるイエス・キリストがやって来る。その道備えをする者として遣わされたバプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、私たちも今一度、荒野で、低みに立って見直すことをしてみたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「ひとり分を抱きしめる」 2022.11.27
弱さや不完全さは克服しなければならない、人に見せてはならない、というモードがとても強い社会に住んでいるせいもありますが、辛いことや面倒なことはなるべく避けたい、話題にせずに済ませたい、と思うのは自然なことかもしれません。人生が順調に進んでいる時はそれでもなんとかなるので、弱さは克服された、もはや向き合う必要もないのだと思い込むことができますが、“逆境”に襲われると、途端に弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされます。だからといって聖書が、「いつもビクビクして備えなさい」「諦めて限界を受け入れなさい」と勧めているわけではないと思うのです。
「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」というこの聖書の言葉は、二人のうち一人しか命が助からない、という意味ではないでしょう。一人分の「わたし」なのにもかかわらず、二人分以上の重荷を背負い潰されそうになりながら、でも現実は見ないようにして進んできても、困難がひとたび襲うと、それを直視することになるという話ではないかと思うのです。しかもこの「直視」は、わたしたちの限界を受け入れ「仕方がないからあきらめましょう」という意味ではなく、実は「ひとり分だった自分」を認めることへのおすすめであり、もしそのことを認識できると、戦い傷つき苦しんでいる、多くの周りの人の姿が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。
一年の初めの日曜日は、クリスマスに向かう心の準備の始めの日です。無防備な新生児の姿をとり、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備とは、思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を大切にすること。そして、そのことを告げるために、命を捧げたイエスさまの声に耳を傾けること。そんな、クリスマスへの準備をしていきましょう。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「隣人の救いだけを」 2022.11.20
イエスさまが十字架に架けられたとき、議員たちはあざ笑って「自分を救うがよい」と言い、兵士たちは侮辱して「自分を救ってみろ」と言いました。イエスさまとともに十字架に架けられた2人の犯罪人のうちのひとりも、「我々と自分自身を救ってみろ」とののりしました。
沢山の人々を救い、人々の称賛を受けていたはずのイエスさまは、同胞のユダヤ人たちを惑わす者として捕らえられてしまいました。そしてローマ総督の前に引き出され、ついには十字架刑を受けることになってしまいました。沢山の人々を救ったイエスさまが、捕らえられ、十字架に架けられたとき、多くの人々はがっかりしたことでしょう。ユダヤの新しい王になると言われていた人が、逮捕され、極刑に合うことになるなんて…。
私たち人間は、大抵の場合まず自分を救うことを考えるでしょう。沢山の人々を救ったのに、自分一人を救うことができない人間が本当の王だとは、とても思えなかったのです。「自分を救ってみろ」と言う人たちには、イエスさまが神さまからの力をいただいているようには見えなかったのでしょう。
しかし、この時ただ一人、ともに十字架に架けられたもうひとりの犯罪人だけは、十字架によって殺されようとしているイエスさまに救いを-神さまからの力を見ました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。それは死んだ後に神の国に行けるというよりも、今この時イエスさまと出会い、救われたということを示しているのではないかと思うのです。
もしイエスさまが、自分自身を救いたい-十字架刑から逃れたい-と思ったなら、いくらでもそうすることはできたはずです。しかしそうはなさらなかった。自分ではなく目の前にある人=隣人の命を救うことに徹し、極刑に処せられることさえ厭われなかった。そして、ご自分の命が尽きようとするその時まで、目の前にいる人が救われることだけを願い、祈り続けたのです。
私たちがどんな困難や苦しみの内にある時も、それを知り、私たちが救われることを願い祈り続けてくださっている方がおられることを、忘れないでいたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「どんな窮地でも!」 2022.11.13
でもこのことを、遠い昔の出来事なのだから、今は大丈夫と思うのも、少し本当ではない気がします。戦争や殺戮が続く国々、自国民を虐げる権力者が、今この瞬間も力をふるっている事実を、わたしたちは知りながら、しかし呆然とするほど無力で、もう何をどうすればよいのかと絶望的な気持ちになりますが、そんな中でも、わたしたちにできる事があります。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「復活する」 2022.11.6
エルサレムに入り神殿から商人を追い出したイエスを捕らえようと、機会をうかがっている祭司や律法学者たちがいました。律法を字義どおりに守ろうとし、復活を否定しているサドカイ派の人々も同様でした。
ある日サドカイ派の何人かが、モーセの書にかかれているレビラート婚と呼ばれる律法を持ち出して、イエスに問答を仕掛けました。結婚した男女に子どもができないうちにその男性が亡くなったら、弟が寡婦となった女性と結婚して兄の跡継ぎをもうけなければならない。もし復活ということがあるならば、7人の兄弟と次々と結婚することとなり、子どもを産むことなく地上での生涯を終えた女性は、その時一体誰の妻ということになるのか。そんな矛盾が起こるのだから、復活などあり得ないではないか。しかしイエスさまは、復活はこの世の営みの続きにあるものではない。地上の世界とは全く違う価値観、在り方がそこにはあるのだとおっしゃっています。
長男の名前を存続させるための結婚。そこで女性が担わされるのは、男性の所有物となり、その家の子どもを産むことでした。また、結婚した相手が亡くなって独り身になってしまったら、女性は生きて行くこと自体が困難になります。亡夫の弟と結婚するのが、生き延びてゆくただ一つの道だったかもしれません。女性たちは、それらの枷に縛られ、自分自身の生き方を自由に選び取ることはできませんでした。常識とされていたそれらのことによって、実は男性たちもまた、自由を奪われていたはずです。
この世での生涯を終えて次の世に入った人々は、地上で負わされていたすべての枷から解放されます。そこでは、めとることも嫁ぐこともありません。復活によって新たな命の内に生かされる人は、一人ひとりが神さまとつながり、神さまによって自由に生きるのです。
牧師補 執事 下条知加子
「温かな声で呼ばれて」 2022.10.30
ザアカイは徴税人でした。徴税人は、正規の税に高額な手数料を上乗せして私腹を肥やし、民衆を苦しめていました。また税金を払えない人に対する懲罰権を持っており、多額の現金を持って歩き回るために護衛を連れていたので、民衆への不当な懲罰や暴行が行われることも多くありました。そんな徴税人の頭であったザアカイは、お金に不自由することこそなかったけれど、人々には嫌われ、疎まれていました。彼は、自分はこのままでよいのだろうかと悩んでいました。自信を持つこともできません。加えて自身が背が低いということも劣等感-自己否定の気持ちに繋がっていただろうと思います。
ある日、イエスという人がザアカイのいる町にやってきました。人びとを救いに導くとうわさされていたその人を一目見たいと思ったけれど、背の低いザアカイは群衆に遮られて見ることができません。そこで先回りしていちじく桑の木に登り、待ち伏せしていました。すると、通り過ぎてゆくと思っていたイエスがその下に立ち止まり、「ザアカイ」と呼びかけます。名前を呼ばれて驚くザアカイ。しかし、さらに「今日、是非あなたの家に泊まりたい」と言われてびっくり。青天の霹靂、急いで木からおりると、大喜びでイエスを家に迎え入れました。
温かな声で自分の名を呼ぶ人に出会い、自分の家に招き、寝食を共にする。すべての人から否定され、自身も自分を否定し、愛されるはずなどないと思っていたザアカイは、イエスさまとの交わりの中で“愛されている”ことを実感したことでしょう。自分が愛されていること、愛されてよい存在であることを知ったザアカイは立ち上がります。「財産の半分を貧しい人に施します…」という宣言は、愛されることによって彼の生き方がすっかり変えられた、人々を愛するようになったということを示しています。
どうかすべての人が、神さまに愛されていることを知り、愛する人とされてゆきますように。
牧師補 執事 下条 知加子
「自分を底上げしない」 2022.10.23
イエスさまの時代は、律法をきちんと守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「立派で信用できる」と尊敬されていました。ところがこの人は、口に出しては言いませんでしたが「他人を見下し」、祈りの中でさえも「私は不正や略奪や不倫もせず、献金も断食も正しく行い、徴税人のような者ではない」ので、神に感謝したりしています。
一方の徴税人は、不幸で孤独な職業です。誰もが「ああはなりたくない」と思う人生を送っているわけですが、自分は神さまに合わせる顔などないと言わんばかり。顔を伏せたまま「主よ、憐れみたまえ」と祈ります。そしてイエスさまは、神さまが「義(正しい)人である」と認めるのは、ファリサイ派の方ではなく、惨めな徴税人だと、そういう話です。
このファリサイ人のように、掟の実行を自慢し、人としての自分は「上」であるかのような祈りを聞くと、こんなひどい祈りを普通するか?とも思いますが、実はこの人には、このような段取りを踏まないと、祈れない事情があったのだと思います。見下せる対象を探し出し、「この人よりも上等な私なので、神は喜んでくださる」と思わないと、とても不安で神さまの前になど立てないと。つまり何も出来ない何もしない自分では価値がないので、褒めてもらえそうな善行を身に纏うことによって、やっと神に愛される、と考えているからなのでしょう。この人の一番大きなズレはそこかもしれません。
徴税人の祈りは「こんな私ですが、あなたの憐れみをください」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、彼の生涯が苦痛に満ちていたからではなく、自分を底上げしなくても聞いてくださる神を信頼しての祈りだったから、かもしれませんね。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「信じてゆだねる」 2022.10.16
ひとりのやもめが、その地域を担当する裁判官に「わたしを守ってください」と訴えています。やもめという社会的に非常に弱い立場にあった彼女は、生きてゆくためにはこの裁判官に頼るしかありませんでした。しかしこの裁判官は、このやもめの訴えをしばらくの間は取り合おうとしませんでした。この訴えを取り上げなかったからといって法的には責められることのない状況だったのです。「神を畏れず人を人とも思わない」人でしたから、訴えてくる人の立場の弱さを思いやって何とかしてやろうとは考えなかったのでしょう。
そんな裁判官でしたが、何度もやって来ては訴えるやもめが「うるさくてかなわないから」自分が困るという理由で、彼女のために裁判をしてやることにしました。裁判の結末は書かれてはいませんが、訴えを取り上げてもらえる、裁判をしてもらえるということ自体、人として生きる権利を認められたことの証しになります。このやもめにとってそれは大きな喜びに違いありません。
人を人とも思わない、自分のことだけ考えているようなこの裁判官でさえ、ここしか頼れないという必死の訴えを聞きました。まして、一人残らず全ての人を大切な存在として大事にしてくださる神さまは、「昼も夜も叫び求めている」人たちをいつまでもほうっておかれるはずはないのです。
「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるために、イエスさまはこのお話を弟子たちに語ったと言われています。それは、沢山祈れば神さまが望みをかなえてくれるとか、頑張って祈り続けなさいということではないでしょう。自分は弱く、神さまに頼るしかないことを認めて、自分ではどうしようもないことを神さまの計らい(裁判)にゆだねなさいというお勧めなのです。どんな困難があっても、気を落とさず、神さまに信頼して歩みを進めて行きたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「神を賛美するために戻って来た」 2022.10.9
当時「重い皮膚病」を患っている人々は、間違って近寄る人のないように、また感染することのないように、人の姿が見えるやいなや、「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ばなければなりませんでした。これは、疾病を負って生きる大変さに加え、社会生活をする人権も剥奪され、さらに「病にかかったのは罪の結果」というレッテルも貼られる、とても苦しい人生だったことでしょう。
そんな病いから解放された10人のうち、たった一人だけが、イエスさまのところに戻り、「神を賛美するために戻って来た」者と呼ばれます。この人は、戻って来てイエスさまの足元に辿り着き、神に感謝を捧げた。当時の社会では、感謝することと賛美することは、同義語であったと言われます。しかしながら、「賛美」とは、さすがだと褒め称えられ、祭り上げられ、おそなえが捧げられる、といったようなことではないのは明らかでしょう。
イエスさまが、戻って来たこの人の行動の中に、神さまを賛美する姿を見たのは、「病気を治すとは、すごい神さまだ」と拝んだからではなく、この人が自分もまた「神さまにとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知り、自分も厄介者扱いされるのではなく、愛され大切にされてよいのだという真実を、心の底から信じることができた。そのことこそ、神さまを賛美することであり、神さまが望むことである、と悟ったからではないでしょうか。
わたしたちは聖餐式の中で「感謝と賛美はわたしたちの務めです」と唱えます。わたしたち自身もまた「神さまの大切にしている者」であると、心の底から信じたいと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「信頼して」 2022.10.2
使徒たちがイエスさまに、「信仰を増してください」と願っています。その理由は色々とあったのだと思いますが、聖書の直前の箇所を読むと、誰かをつまずかせたり、罪を犯した兄弟を戒めることができなかったり、悔い改めている兄弟を赦すことができなかったり、という出来事があったようです。
それに対してイエスさまは、「からし種一粒ほどの信仰があれば…」とおっしゃっています。そんな少しだけで本当に良いのですか?と聞き返したくなるようです。しかし信仰というのは、これくらいありますと誰かに見せることも、その量を客観的にはかることもできない。他の人と比べて多いとか少ないとか言えるものでもない。信仰=わたしに対する信頼=が“有るか無いか”なのだとイエスさまはおっしゃっているのでしょう。
私たちは日々、様々な問題に行き当たります。それらひとつ一つの出来事は、それにかかわる人々を時に混乱させ、容易には解決策を見いだすことができないことも多々あります。そのような時でも、自分の都合や思いを優先させるより、神さまに信頼してその思いを聞く。祈りをもって神さまの声に聞き従うとき、なすべきことが示されるでしょう。
そのようにしてひとつ一つ行ないを積み重ねてゆく時、もしかしたら桑の木が地面から抜け出して海に根を下ろすような奇跡が起きることがある。できるはずがないと思っていたことが実現する。信仰生活とはそういうものだと言われているようです。
私たちも「もっと信仰があったら…」と思うことがあるかもしれません。しかし、立派なことをなそうとして大きな信仰を求めるより、なすべきことを、神さまへの信頼をもって祈り求めつつ淡々となして行く時、新しい視野が示されるに違いありません。新しい世界がきっと拓けることを信じて、今日も歩みを進めていきたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「『神の助け』を邪魔しない」 2022.9.25
「何故、自分は生きているのだろう」と思わなかった日はなかったかもしれません。このような状態にある人を、「神は助けです」として登場させています。
一方「金持ち」は、自宅の門前にラザロがいたことを知っています。名前まで記憶していますが、亡くなってもまだラザロを上から見下ろし使い走りをさせようとします。自分の苦痛を取り除くためにラザロを寄越して欲しいと言い、それが駄目ならせめて身内の役に立つようラザロを使って欲しいと言い、断られても更に食い下がり、それまでは一瞥もしなかったラザロを、自分は利用できると思い込んでいます。
ラザロのような人生が「神は助けです」なのは、お腹を空かせたまま人々から惜しまれることもなく人生を終えても、天上では美味しい食事でもてなされ、アブラハムの歓迎を受けたからではないでしょう。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「大切なこと」 2022.9.18
これはイエスさまがなさったたとえ話ですが、そんなことをしたら、普通ならば主人の財産を目減りさせたと言って叱られるのではないかと思います。ところが、叱られるどころかほめられたというのです。なんとも不思議に感じますが、何をほめられたというのでしょうか。
管理係には貸し付けの利子の割合を決める権限もあったということで、証文を書き替えさせたとき、自分がかけた利子の分を割り引いてやったのかもしれません。自分に都合がいいように高い利子をつけて、その中から取り分を得て裕福な生活をしていたであろう管理係ですが、仕事を失えば、貧しい生活を強いられるでしょう。その時には、証文を書き替えさせてもらい感謝している人たちが、きっと彼を仲間にいれてくれるに違いありません。
「(主人は)この管理係を、良い感性で対処したと、ほめた」と訳されている聖書があります。貧しい人々から多くの利子を取って不当に散財していた人が、仕事を失うという危機に直面して初めて、貧しい人々の状況や気持ちを理解し、寄り添うようになった。主人はそのことをほめたのかも知れません。
自分のことだけを大切に考えて行動するとき、人間はどうしても間違った方向に行ってしまうのでしょう。そうではなく、貧しさをはじめとする、困難や苦しみ、悲しみの内にあって生きづらさを抱える人々に心を寄せることができた時、私たちは信頼できる仲間を得ることができるのではないでしょうか。何を一番大切にして生きるか。私たちはそのことを問われていると思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「『99匹の側』の羊」2022.9.11
しばしば人生に「迷ってしまう」厄介なわたしたちなのに、神さまは諦めず、心を込めて探し出し、真っ当な道に連れ戻してくださる。そういうことなのでしょうが、1匹の捜索中に置き去りにされる99匹の安全についてはどうなのだろうか。羊飼い不在のまま野獣に襲われ天候が急変して犠牲が出ても、そちらの羊は「仕方がない」と諦められてしまうのだろうか。何か腑に落ちない気持ちになります。
このモヤモヤを解決するには、自分自身を「1匹」側だけに投影するのではなく、「99匹」側として読む必要があるのではないかと思うのです。つまり、迷子になった羊に対し「迷惑だ」と思っているだけで良いのだろうか、「1匹くらい諦めたらいいのに」と考える態度に、何か深い落とし穴があるのではないだろうかと。
例えば礼拝で、何十年も唱えているお祈りは、もう暗唱してしまって見なくても知っている、ということがあると思います。それはそれでとても豊かなことですが、そこに「初めて」の方がおられる場合、「暗唱ペース」でどんどん先に行ってしまうのは、神さまは決してお喜びにはならない行動だと思うのです。そんな初心者に対する配慮くらいとっくにしてくださっていると信じたいのですが、礼拝も、聖書の学びも、そして日常生活も「ひょっとしたら自分は99匹の立場かも」と心に留めることで、新たな視点が与えられるのではないでしょうか。たった一人でも、「1匹の羊」がそこにいたなら、いやむしろ「1匹の羊はいる」という前提で、心の目を開き続けていたいと思う次第です。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「捨てるべきもの」 2022.9.4
イエスさまはご自分について来た大勢の群衆に向かって、「(~ならば)わたしの弟子ではありえない」とおっしゃっています。小見出しにある「弟子の条件」というよりも、弟子になる覚悟といった方が良いようにも思いますが、それが三度も語られているところに、イエスの弟子になるということの厳しさを感じます。
自分の家族そして自分の命を憎まないなら…と言われていますが、憎むというのは嫌いになるということではありません。二者を比較して他方を大切にするという意味です。つまり、イエスさまよりも家族を、また自分の命を大切にするならば、イエスの弟子ではあり得ない、ということになります。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹というのはかけがえのない存在ですから、平常時ならば何よりも大切にして良いものだと思います。けれども、二度にわたってご自分の死を予告され、いよいよ十字架に向かって歩んでいく緊迫感の中では、平常時と同じというわけにはいかないとのです。
自分の十字架を背負ってついて行く、というのは、自分の命をささげる覚悟をもって歩みを進めるということでしょう。イエスさまの死、それも処刑されることが予想されるような緊急事態の中で、大切にしなければならないことは何でしょうか。
わたしたちは、家族を含めた様々な人間関係の中で、また色々な物に囲まれて生きています。そのような中で日々取捨選択しながら生きているわけですが、自分がその中で一応安定して過ごせているときは、現在手にしているものを手放すことに抵抗を感じるものだと思います。しかし、それらは必ずしも自分の命を生かすものとなっているとは限りません。実は、獲得していると思っているものに縛られて、自分自身が窒息しかけていることがあります。そして、手放すことができないために、関わっている誰かを縛ってしまっていることもあるのです。
そのことに気づく時、手にしている一切のものを捨てる覚悟はあるのか、とのイエスさまの問いかけ。すべてのものから開放されて自由になり、イエスさまに従う道を選び取り、命を輝かせることができますように。
牧師補 執事 下条知加子
「末席に着く」 2022.8.28
昨今、さまざまな「宗教」が話題となっています。ことに「カルト」と「宗教」の区別がわかりにくい人々にとっては、自然科学の考え方と相容れない「宗教」の存在そのものが、嫌悪の対象となりうる場合もあるでしょう。いろいろな考え方があると思いますが、ざっくり整理すると、「カルト」は①思考停止を求める ②団体の提示する教えを鵜呑みにすることが「信仰」 ③個人の決断や決定は尊重されない ④優越意識や利益を強調、といった特徴があると思います。一方、真っ当な宗教に共通することは、①自己理解、他者理解を深め続ける ②疑問や異論も歓迎される ③自分の人生は自分が決める ④損得感情に振り回されない、などが挙げられるかもしれません。人がまっとうに生きようとする志を支えるのが、本来の宗教の役割であるはずです。
その中でもキリスト教は、しばしば「負け犬の宗教」と称されることがあります。(キリスト教を信じると)「人より優れます」「こんないいことがあります」などとは語られず、人生の中でも「負けている」と感じるような辛いとき、惨めなときこそ一緒にいてくださる、と強調するからでしょう。でもそれは、「惨めなわたし」に留まろうという意味ではなく、弱さ醜さも持つわたしたちを最後まで見捨てないことを約束される神、その存在を伝えるからかもしれません。
旧約聖書の中のイザヤ書の53章には、とても不思議な「しもべ」の姿が描かれます。「軽蔑され」「見捨てられ」「懲らしめられ」「他の人が犯した罪を全て背負う」、そしてこれらの苦難の結果、人々が人生を取り戻すのを見て満足すると。あまりにも人が良すぎる話だと思ってしまいますが、イエス・キリストは、ここに真の神の姿を見たようで、この「しもべ」として生き、生涯を捧げるのが自分の使命だと理解されたようです。そして、そのようになりました。同胞や一族の者から誤解され軽蔑され、一緒に活動していた弟子たちからも理解されず、死刑の判決が下ると人々は彼を見捨てて逃げ、最後は窒息死をする。それがキリスト教の神です。
今週の福音書の「宴会に招かれたなら、(なるべく)末席に座りなさい」ということの意味は、謙遜ぶって人に上席を譲っていれば、やがて周りが持ち上げてくれる、というノウハウ話ではないでしょう。辛さや悲しみから立ち上がれず「末席」から動けないでいる人々に対し「そんなところにいないでこっちへ来い!」と、上から目線で「上席」から叫ぶのではなく、最も底辺に降りてその苦しみを分かち合ったイエスのように、どん底の苦しみを味わっている人々のところへ、こちらから出向き現実を分かち合う。それがイエス・キリストのなさったことであり、わたしたちにも求められていることであると思うのです。「あなたが大切だ」ということを伝えるために何でもする神は、「負け犬」と称されることも厭わず、誤解されること軽視されることも恐れません。わたしたちの日常生活の葛藤や苦しみ、生きる難しさなどをよく知り、そして2千年前ではありますが、実際にこの世で生きた神。その方はわたしたちに、「負」の部分を切り捨てて無かったことにするのではなく、そこから立ち上がり前へと進む力になってくださる神です。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「狭い戸口から入る」 2022.8.21
広い門を通っている人たちは、そこを通るたびに「自分たちは広い門を通る権利があるからここを通っているのだ」などと意識することはおそらくなかったでしょう。それが当たり前だと思っているので、そこを通ることができることの有難味も、感じることは少なかっただろうと思います。また、そこを通ることができない人たちがいることを意識したり、その不便さを思いやることも、あまりなかったのではないかと思います。
一方、通用門を利用している人たちは、そこを通るたびに、自分たちが広い門を堂々と通ることができない存在であることを意識させられていたはずです。人一人しか通れないような狭い戸口を通る不便さ。それに通用口は目立たないところに設けられていましたから、その戸口を探すのにも苦労したかもしれません。
イエスさまは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。普段広い門を当たり前に通っている人たちは、その言葉をどう受け止めたでしょうか。広い門を通ることを許されている人びとが通用門を利用することはないですから、そこを利用する人々の不便さや苦労を想像することも難しいかもしれませんが、「何故わざわざそんなことをしなくてはならないのか」と思ったのではないでしょうか。しかし、自分だけが狭い門を通る必要のない人間で“あの”人たちとは違うと思っている限り、救われることはないということかも知れません。
ある面で自分自身も「狭い戸口」から入るべき人間だと自覚し、そこから入って行く時、本当の救いが訪れるのではないかと思うのです。
牧師補 執事 下条 知加子
「時を見分ける」 2022.8.14
私もそうですが、変化は苦手です。言い訳をするとか、まあ後でいいやと思うなど、自分のやり方を変えないで済むために、いろいろな手法を用います。人にもよりますが、一番不得手な「変化」の一つは、人と対立しなければならない状況に追い込まれることかもしれません。今まで穏便に関係を保ってきたのに、家族や友人との関係が崩れてしまうのは避けたい。特に、対立したら困ることになるとわかっている職場では、あえてリスクをおかすよりは「とりあえず穏便」な方法を選択する。それは、身を守る必要のある日常生活の中では、正しいことでもあるでしょう。
少し前の節ではイエスさまが突如、「受けなければならない洗礼」(原文では「私が洗礼を受けなければならないその洗礼」)に言及していますが、これは水に浸る一般的な「洗礼」のことではなく、「十字架にかかって死ぬ」ことを示していると言われています。それは、心身に悶絶する苦しみを受け、仲間から見捨てられ、誰にも理解されない、というイエスさまに与えられた独自の「洗礼」です。「とりあえず穏便」とはほど遠く、出来れば避けて通りたい道であり、その結果は闇の中。ひたすら神さまに信頼するしかない道です。
わたしたちの日常生活でも、現実を直視してしまうと、もう元には戻れないような不安が存在することでしょう。現実と向き合うのは苦しいですが、それを回避するため、「敵対されない」「世間から後ろ指をさされない」ことだけを絶対的価値として、様々な決定をしてしまうと、イエスさまの十字架から遠く離れた人生となってしまうのではないでしょうか。
それではどうすれば良いのか。
「不安から逃れるために耳を塞ぎ、本当は知っていることを“わからない”と、自分を言いくるめるのはやめなさい。不安と直面することを避け、心を閉じて、“決められない”と言うのもやめなさい。あなたが不安の真っ只中に投げ込まれ、誰からも忘れられていると感じていても、わたしは一緒に居て最後まであなたと共に歩き通す。なぜならば、それはとても孤独な道だが、わたしと近い道であり、わたしはすでに通ってきた道。そして神さまを信頼しなければ進めない道。だから、さあ勇気を出して、時を見分ける心の目を開こう」と。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「常に備える」 2022.8.7
こどもが親の見ていないところでいたずらをするというのはよくあることですが、こどもだけでなく大人だって、誰も見ていないだろうと思うと、本当は良くないと思っていることをついやってしまうというのは、多かれ少なかれ、誰しもあることではないでしょうか。反対に、誰かが見ていてくれることを期待していることを期待してあえて、世間的に良いとされる行いをすることもあるかもしれません。わたしたちの行いは、誰かほかの人の評価に左右されがちだということでしょうか。
僕が、真夜中か明け方か、いつ婚宴から帰って来るかわからない主人を目を覚まして待つというのは、なかなかできることではありません。主人の評価を得たいと思っていても、何日も起きて待ち続けるなどということは、そうそうできることではないでしょう。でも、泥棒がいつやって来るかということだって、誰にもわかりませんね。
いつ起こるかわからないことのために備えること。それは必ずしも体に鞭打って24時間起きている、ということではなく、必要なことは何かということを常に思いめぐらしている、ということなのではないかと思います。本当に必要なことを知るために、思い巡らし、神さまに祈る。そこには他の誰かの評価は必要ありません。他人の評価を基準に考えていては、本当に必要なことを見失ってしまうかもしれません。
この主人は、帰って来た時に僕が目を覚ましているのを見たならば、帯を締め、僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれると言っています。普通ならば、待っていた僕が主人のお世話をするのでしょうが、この主人は僕のために、帯を締めて、自身が僕となって給仕してくれるというのです。僕にとっては想定外の喜びに違いありません。
現実の世界を見渡すと実現不可能ではないかと思える世界の平和。それでも、その平和の実現を心から求め祈る時、必要なことは神さまが示してくださいます。平和実現という喜びに向かって、わたしたちも常に備えて行きたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「本当の豊かさ」 2022.7.31
ある人がイエスさまに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と訴えました。この時代のユダヤ教の先生は、法律家のように人々の生活の具体的な事柄についても教えていたようです。しかしイエスさまは、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言って、次のようなたとえ話をされました。
ある金持ちの畑が豊作で、収穫した物が倉に納めきれなかった。「どうしよう」かと考えたその人は、倉を壊してもっと大きい倉に建て直し、その中に穀物や財産を全てしまっておこうとした。そして、「さあ、これから何年も生きて行くだけの蓄えができた」ぞ、喜べ、と自分自身に言いきかせようとした。さて、それはこの人にとって本当の喜びとなったでしょうか。
倉に蓄えがあれば、多少の安心を得ることはできるかもしれません。けれども、そんなに多く持っていたところで、一生かけても使い切れないでしょう。もしかしたら、この人の命は今夜限りかもしれない。死んでしまったら、蓄えた物は何ひとつ持っていくことはできません。残った財産はどうなるのでしょうか。それに、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」、つまり、地上の財産によってはその命をひと時も引き延ばすことはできないのです。
「貪欲」という言葉は、聖書のギリシャ語では“さらに”と“持つ”という2つの言葉が組み合わさった言葉です。今あるもの、与えられているものに満足せず、さらに持ちたいと思ってしまう。イエスさまは、自分にも遺産を分けて欲しいと願った彼が正当な権利を主張したことが良くないと言っているのではなく、「もっと、もっと」と欲が増してゆくことに「注意を払い、用心しなさい」と言っておられるのだと思います。
どんなに沢山持っていてもさらに欲しがってしまう。それは遺産のことに限ったことではなく、人間の常と言えるかもしれません。けれども、その先に本当の喜びは生まれないのです。倉を建て帰るのではなく、沢山とれた収穫物を持っていない人に分け与え、豊作の恵みを人びとと分かち合う時にこそ、本当の豊かさ、心からの喜びが湧きおこるのではないでしょうか。
牧師補 執事 下条知加子
「『祈り』の本質」 2022.7.24
少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「実はこうしてほしい」とは言いにくいものです。つまり一般的には、言葉化して相手に何かを伝える時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見通しがあると確信している、とも言えるでしょう。
しかし、もし「祈る」ことについても、わたしたちが同じように考えると、神さまを矮小化してしまう危険があります。当然ゆるされているという前提で「わたしたちの罪をお赦しください」と主の祈りを唱え、飢えるはずないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、安全な生活を確保している、という気休めに近いかもしれません。
神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたち自身は、神さまの考える「最善」が常に見えているとは限らないでしょう。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと招かれるのではないでしょうか。実現される保証を得たら、神が聞くなら祈ろうではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、それが祈りではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「必要なことはただ一つだけ」 2022.7.17
そんなマリアの姿に、マルタは少しいら立ちをおぼえたのでしょう、イエスさまに向かってマリアに何とか言って欲しいと頼みます。しかしイエスさまは、「必要なことはただ一つだけである。…それを取り上げてはならない。」とおっしゃいました。マルタはなぜ不満を直接マリアに言わなかったのだろう、そもそもイエスさまを招き入れたのはマルタなのだからマリアに手伝いを強要することはないのでは…などという疑問も湧いてきますが、「ただ一つ」の「必要なこと」とは一体何なのでしょうか。
大切な方を家に招くという時、わたしたちは掃除をしたり、お茶の準備をしたり、食事を作ったりと忙しく立ち働くことがあるでしょう。そんな時、わたしたちは散らかった家の片付け、用意するお茶や食事のことなどに、必要以上に心や体を使って「思い悩み、心を乱して」しまうことがあります。限られた時間を、迎え入れたその方と共に過ごすこと、分かち合うことが大切なのだけれど、そのことに集中できなくなってしまう、そんなこともあるのではないでしょうか。
教会の活動においても、それと似たようなことがあるように思います。礼拝は、イエスさまをお招きし、イエスさまと共に過ごす大切な時間です。そのためになされる準備ももちろん大事です。イエスさまは不平を言うマルタに、「マルタ、マルタ」と愛情込めて呼びかけられ、彼女を叱責することはしていません。しかし、「思い悩み、心を乱」すことなく、マリアのように聴くこと、そのことが大切で「それを取り上げてはならない」とおっしゃるのです。
どうか祈りに、そして神さまの、イエスさまの声を聴くことに集中して、この限られた恵みの時を過ごしてゆくことができますように!
牧師補 執事 下条 知加子
「よきサマリア人」 2022.7.10
それは、彼らが「聖書」と認めるのは「モーセ五書」のみだったり、過越の祭りは祝うのに別の預言者を求めたりといった、彼らの独特な解釈や社会的特質を、ユダヤ人が忌み嫌い、見下す習慣となって行ったようです。そしてそれは、イエスさまがおいでになる700年以上も前から、ユダヤ社会の中に浸透していましたので、それはもう民族に根付いた差別感覚だったとも言えるでしょう。
サマリア人を見下していただけではなく、血を流している人に触れた祭司は、礼拝の司式をすることができませんでしたし、遺体に触れたレビ人は、神殿での奉仕ができないことになっていました。もしこの人々が神殿のお務めに向かう道中であったなら、「命の危機に瀕している人を冷たく見捨てたわけではない。できるなら私だって助けたかったが、お務めができなくなるので」という言い訳ができてしまうわけです。
しかしイエスさまは、彼らが見下しているサマリア人を登場させて、あたりまえの行動をする話をする。それが、「隣人」の定義を求めた律法学者への答えでした。
この物語でイエスさまは、わたしたちが倒れている人を見かけたら「必ず病院に連れて行きなさい」と薦めているわけではなく、食べるに困っている人を見つけたら、2万円(2デナリオン)与えなさいと言っておられるわけでもありません。「隣人とは誰か」と定義を求め、それがわからないと愛することはできない、永遠の命を得ることができないと言い訳をしている、この律法学者のようになってはいけない、と諭されているのではないでしょうか、わたしたちが本当の意味で真の愛と命へと進むために。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「財布も袋も履物も持たず」 2022.7.3
何かをしようとするとき、まず準備万端整えて…と考えるのが一般的な感覚だろうと思います。そしてつい、あれがない、これがまだない…と、足りないものばかりに目が向いてしまいがちです。そして準備ができていないことを言い訳に、‟だから無理だ”とあきらめてしまう(事を始めようとしない)こともあるのではないかと思います。
けれども、必要なのは無いもの探しではなく“あるもの探し”なのかも知れないと思うのです。わたしたちには様々なものが与えられています。ところが、与えられていること、その豊かさに、思いが至らないことが多々あるのです。そして、あれもこれも足りないからうまくいかない、できないのだと考えてしまう。けれども、必要なものはすでに与えられていると、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
後にイエさまが「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と聞いた時、弟子たち(使徒たち)は「いいえ、何もありませんでした」(ルカ22:35)と答えています。そのままで十分、必要なものはすでに与えられているからそれを探してごらん、と言われているように思います。
イエスさまはわたしたちを、それぞれににふさわしい場へと遣わしておられます。そこでは豊かな実りが約束されています。けれども「収穫は多いが働き手が少ない」とも言われています。どうかわたしたちに、ともに働く仲間が与えられますように。そして、わたしたちの願う、イエスさまの願う平和が実現するよう、祈り求めてゆきたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「真にイエスさまの味方は?」 2022.6.26
十字架の出来事の前に、イエスさまはご自分の身にこれから起きることについて、また良い知らせ(福音)の真髄について一生懸命語りますが、弟子たちはあまり理解していなかったようです。意味があまりよくわからなくても、イエスさまについて行こうと考える弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なのでそこに加わらない人々は排除してもかまわない、というふうにも聞こえます。
登場する「サマリア人」というのは、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになった人々ですので、ユダヤ人は、付き合いを絶ち、一方、サマリア人も、自分たちが見下されていることを知っていますので、互いを避けていた関係でした。そんな壁を乗り越えて、せっかくサマリア人の村に寄ってやったのに、イエスさま一行を「歓迎しなかった」。そんな輩はやっつけてしまいましょう、と弟子たちは憤ります。
また、弟子かどうかは書いてありませんが、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人も、イエスさまの言われることを真に理解しようとするよりは、「イエスさまに従う」という雰囲気に酔っているようにも思えます。
わたしたちも例外ではないでしょう。教会に来て礼拝をする、イエスさまのことを知っている、神さまの前に正しい生活をしていると、もし思い込んでいたら、もしそんなわたしたちが「イエスさまの側の人間」であり、そうでない人々に対して一線を引く、というような気持ちがあったとしたら、それは果たして本当の意味で「イエスさまの味方」なのでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「自分の十字架を背負う」 2022.6.19
この時代(一世紀)に「十字架を背負う」といえば、十字架刑に処せられるために、イエスさまがなさったように、その十字架を自身が処刑される場所まで担いでいくことに他なりませんでした。「わたしについて来たい者は…自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、イエスさまについて行くならば、自分の持っているもの全てを手放す覚悟を持て、ということになるでしょうか。
わたしたちは様々なものを持っています。物質的なものばかりでなく、仕事、家族や友人、職場その他での人間関係など。そして地位や名誉を含めて、多くのものに恵まれ、それらの中で心地よく生きていればいるほど、あるいはそうでなかったとしても、わたしたちは持っているものを失うことに恐れを感じるものだと思います。けれども、それらのものを失うまいと握りしめている限り、イエスさまに従うこと-本当の命を得ること-はできないのです。
イエスさまがスーパーヒーローのように人々を救い、“世直し”をしてくれるかもしれないと期待し、ぞろぞろとついて回っていた群衆は、「(自分が)排斥されて殺され」ると語るイエスさまに失望し、離れてゆきました。けれども、そんなイエスさまに、迷いながらもついて行った弟子たちがいました。イエスさまは彼らに、今価値を感じているものを、必要な時には捨て去りながらイエスさまについて来るならば、真の意味で命を救うのだと教えられました。
「あなたがたはわたしを何者だというのか。」
イエスさまは今もわたしたちに問われています。イエスさまに従うことこそが救いの道であると信じ、自分を捨てつつ進んでゆくとき、わたしたちに与えられる「命」。その価値は計り知れません。どうかその道を進む勇気と力が与えられますように…。
牧師補 執事 下条 知加子
「三位一体?!」 2022.6.12
結論としては、神さまは一人であることに変わりはないのですが、やっぱりよくわからない話です。人間の場合、別の人格であれば、意見も異なり、行動も言動も違ってきますので、何か一緒にやろうとしても、意見が一致するとは限らず、時には一人が他方を制し、渋々ではあっても全体の善のために皆が従うことはあるでしょう。でも神さまの場合は、三位一体のうちの「一体」が他の2体を制する、ということではなく、「一人の方だ」という理解に立たないと、整合性が取れなくなる、ということなのだと思います。たとえ「三位一体」が今は毎日の生活に必要を感じないことであったとしても、何かあった時に役に立つ説明かもしれません。そんな意味も込めて、わたしたちの教会では、「三位一体の神さま」は、わたしたちのためにそのようなかたちをとってくださったと信じている次第です。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「豊かな賜(たまもの)」 2022.6.5
大きな物音に大勢の人が集まってきたようですが、その物音に一番驚いたのは、家の中に隠れるように集まっていた弟子たちだったことでしょう。それまで導いてきてくれたイエスさまが不在の中、自分たちだけで何とか頑張って行こうとしてはいても、相変わらず「十字架で処刑された者の仲間」と見られていたでしょうから、不安で身も心も縮こまっていたに違いありません。そんな彼らの心と体を、突然の大きな物音が揺さぶりました。それは聖霊の働きでした。
弟子たちが突如として「他国の言葉で話し出した」のは、神さまから遣わされた聖霊が強い風のように彼らの体と心を揺さぶり、その愛の力によって彼らの心と体が解放され、それぞれの中に隠されていた力が発揮されたという出来事ではないかと思うのです。様々な国や地方から集まった人々は、それぞれの故郷の言葉を聞くように、その魂に響く言葉、愛の言葉を、弟子たちから聞きました。
人は、不安だったり、緊張したりしていると、その人の本来持っている能力や素晴らしさは発揮されません。わたしたちは、自分でもまだ気づかない沢山のものを神さまからいただいていますが、その賜はわたしたち自身がが愛されていることに気づいて安心し、心と体が解放される時、初めてその力が豊かに発揮され、わたしたちの住む社会も豊かに、素敵に変化してゆくと思うのです。
神さまの豊かさの中にあって、それぞれがいただいているユニークな賜が、聖霊によってその力を発揮し、愛に満たされた豊かな社会・世界が実現してゆきますよう、願って止みません。
牧師補 執事 下条 知加子
「『一つになる』ということ」 2022.5.29
そして、いよいよ裏切られ、逮捕される直前、イエスさまはその時が来たことを知り、天を見上げて、ご自分のために、弟子たちのために、そして「すべての人」のために祈られました。イエスさまを愛したのと同じように、神さまはすべての人々を愛しておられることが、世界に知られるようにと。そしてそのために、「すべての人を一つにしてください」と祈っておられます。「一つになる」とは、どういうことでしょうか。
「あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように」(あなた=神さま、私=イエスさま)と言っておられるのは、神さまの愛がイエスさまの内に充満しており、イエスさま自身が神さまの愛の中にいる、ということではないかと思います。すべての人が一つになるというのは、すべての人に愛が充満し、(すべての人が)神さまに愛されていることを知るということでしょう。愛するとは、尊厳を認め、大切にすることです。
一つになるということは決して、みんなが仲良くなるとか、争いがなくなるということではありません。また、人々の考え方が画一的になることでも、価値観が同じになることでもありません。人にはそれぞれ違った個性があります。性別も、人種も民族も、みな違います。それは神さまが与えてくださったものです。そんな一人ひとりを、神さまは心から愛しておられるのです。そのことをすべての人に知ってほしい。そして、互いの個性を尊重し合ってほしい。それこそが、イエスさまの願いだったのではないでしょうか。
牧師補 執事 セシリア 下条 知加子
「おそなえはいらない」 2022.5.22
さてこのリストラに、「生まれてから一度も歩いたことのない男」がいました。「生まれてから一度も歩いたことのない」人生とはどういうものなのか。私には乏しい想像しかできませんが、少なくとも当時の社会では、先天性にせよ後天的にせよ身体や精神に不調をきたすのは、何か悪いことをした結果だと信じられていました。つまりこの人は「歩けない」という具体的な不便さに加え、社会的には「恥ずべき人」「神様に見捨てられた男」というレッテルも貼られていたのだと思います。
しかし、イエスさまの事をどこかで伝え聞いていたのでしょう、彼はパウロたちが話を始めると、じっと座って聞きます。そして「癒やされるのにふさわしい信仰」があると認めたパウロが、この人に声をかけると、彼は躍り上がって歩き出します。物理的に立ち上がって歩き出したのかもしれませんが、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げて、神さまが愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんなふうにも思います。
ところがそれを見ていたリストラの町の人々は、パウロたちを「神だから」この男の人を治癒したと考えます。つまり、自分たちは心を入れ換える必要も、何かを変える必要もない、それよりも偉大な神が自分たちの味方となってくれれば、魔法のようにあらゆる必要を満たしてくれる、という構図です。これに対して弟子たちは、躍起となってやめさせ、雄牛や花輪のおそなえを捧げて、自分たちの都合のいいように神を操作しようとする町の人々の勘違いを指摘します。
わたしたちの知っている神さまは、おそなえもので行動が変わる神さまではないでしょう。そんなことより、何よりも一番、わたしたちが喜びで満たされることだけを望んでおられる神さまです。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「互いに愛し合いなさい」 2022.5.15
十字架にかけられる前、イエスさまは弟子たちに新しい掟を与えられました。「互いに愛し合いなさい」。この言葉はその夜、繰り返し語られています。それは、最も大切なこととして弟子たちに伝えようとしたこと、もっと言えばイエスさまの命令です。そしてイエスさまはその「愛する」ということを、言葉だけでなく、ご自身が弟子たちの足を洗うという行為によって教えられました。
当時の人々は、舗装などされていない道を素足にサンダル履きで歩いていましたから、コンクリートの上を靴下や靴を履いて歩くことの多い私たちに比べたらはるかに足が汚れるわけです。その足を洗うのは億劫なこと、本来は奴隷がする仕事でした。自らたらいに水を汲み、腰に手拭いを巻いて彼らの足を丁寧に洗い始めたイエスさま=自分たちの師の姿に、弟子たちは心底驚いたことでしょう。立場や身分を超えて愛する=尊敬の念を持って大切にする、そこに新しさがあります。
私たちは、誰かのために何かをしたいと思っても、つい、自分にふさわしいことは何かと考えたり、相手よりも自分のことを優先させたりしてしまいがちです。相手を愛して(大切にして)いるつもりでも、常識にとわられたり、何か制限をつけてしまっていたりします。でも、イエスさまの愛は無制限。身分や立場を超えて、あるいはそんなものには全っく左右されることなく、相手が予想も期待もしていなかったようなこと、普通には考えられないようなことさえしてしまう。ひとのためにご自分の命さえ差し出してしまう愛なのです。
このイエスさまの命令に従って、「互いに愛し合い」つつ進んで行く私たちでありたいと願います。
牧師補 執事 下条 知加子
「共感する羊にならう」 2022.5.8
数年前に、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって走って来ました。それは歓迎しているのではなく、侵入者をチェックするような威圧的な態度でこちらを睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。後に聞くところによると、山羊はテリトリーの守備意識がとても強く、飼われているという自覚もないとのこと。一方羊は、心身共に脆弱で、知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するのかなど、あまり心配したことがなく、ただただ身を守るため、そして自身のメンタルを安定させるために、常に群れの一部として過ごすことが大切とのこと。山羊も羊も個性はあるのでしょうが、(山羊と比較した)羊の特徴を聞けば聞くほど、人間の話をしているような気持ちになってきます。
しかしながら、動物の羊とわたしたちの異なる点は、イエスさまの声を「聞き分ける」ことではないかと思うのです。それは、音声を認識するということではなく、また、言われたことを鵜呑みにするということでもなく、イエスさまの語る内容に納得し共感し、その生き方に心が揺さぶられ、そのように生きたいと自分で決断し従っていくことが、「聞き分ける」内容ではないでしょうか。イエスさまからの声、それは時にはわたしたちの理解を超え、全体像が見えなかったり、落とし処がわからなかったりもします。でも、わたしたちがそれをイエスさまからの声だと確信するときは、大きな計画の中で信頼して前に進も追うという決断ができる羊になりたいと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「ともにいる」 2022.5.1
漁師だった7人はガリラヤ湖畔に戻り、何も手につかないまましばらくの時を過ごしていました。そんな中でシモン・ペトロが、とりあえずできることをしようと思い立ったのでしょう。「私は漁に出る」と言うと、他の弟子たちも「一緒に行こう」と言って漁に出て行きました。しかし、夜通し頑張っても、何も捕れませんでした。
夜が明けるころ疲れ切って戻って来ると、誰かが岸に立っていて「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と聞いてきました。誰だかわからないその人に「捕れません」と答えますが、「舟の右側に網を打」てば「捕れるはずだ」と言われます。常識的に考えてそんなわけはない、疲れているし、どうしよう。でもこの人を空腹のまま放っておくわけにもいかないか、と思って網を打ってみると、びっくりするほど沢山の魚が掛かりました。
網を引き上げられないほどの魚が捕れて驚き、そういえば「子たちよ」と呼び掛けられていたことに気づいた一人の弟子が、その人がイエスさまであることに気づき、「主だ」! と言います。イエスさまは、火をおこし、魚を焼き、パンを用意し、弟子たちとともに食事をされました。弟子たちは誰も「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。イエスさまがともにいてくださることを改めてしっかりと、心に刻むことができたからです。
イエスさまのご復活を一度は確信したとしても、また見失ったり、迷ったり。そんな私たちにイエスさまは、何度でも“ともにいる”ことを知らせようとしてくださいます。途方に暮れているとき食事に招き、ともに食し、そこに網を打てと声をかけ、力づけてくださるのです。
ご復活の喜びを覚える復活節。イエスさまがともにいてくださることに信頼して、新たな一歩をあゆみ始めたいと思います。
「信じられないときもある」 2022.4.24
十字架の上で亡くなってから三日目によみがえったイエスさまは、お弟子さんたちのところに出現しますが、「イエスさまはいなくなったのではない、私たちと共におられる!」と皆に言い伝えて怯まない女性たちよりも、息を潜めて恐怖の真っ只中に引きこもっているお弟子たちが気になって仕方がなかったのかもしれません。彼らが鍵をかけて籠る家に、イエスさまが入って行ったとき、トマスは不在でした。そしてあとで、イエスさまの訪問を聞いたトマスは、「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。のちに教会では、このトマスを「疑い深いトマス」などと呼び、なんだか恥ずかしい例と決めつけてきましたが、自分以外全員のお弟子さんが「イエスさまは生きてここに来た」と言っている中で、「いや、わたしは信じられない」と言うのは、なかなか大変なことだと思うのです。心の中でこっそり「いや、あり得ないでしょ」と思っていても、口に出さないでいる方が非難されないし。
このようなトマスのために、イエスさまは再び来てくれます。そしてトマスに直接「さあ、この傷に手を伸ばすように」と語ります。それは、神さまの愛をわかってもらうために、イエスさまが繋いでくださった永遠の命が伝わるために、そのためなら、なんでもしようとする神さまの姿です。
わたしたちも、ひょっとして「信じたつもり」になっていないかどうか、時々自分に問いたいと思います。このトマスの率直さに学びつつ、神さまを信じている時も、信じたつもりになっている時も、そして信じられない気持ちでいる時も、変わりなく呼びかけ続け、そして愛で包んでくださる神さまが共におられることを忘れないでいたいと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「復活された」 2022.4.17
愛するイエスさまが亡くなってまだ三日と経たないこのとき、彼女たちは、ショックと悲しみのどん底にいたに違いありません。イエスさまとの出会いを与えられて救われ、頼りにして生きてきたのに、ずっと自分たちを導いていってくれると信じていたのに、十字架刑という残酷な仕方で殺されてしまった。せめてその亡骸を丁寧に葬ることでイエスさまを感じていたい。そばにいると思いたい。愛する人を亡くした人ならだれでも、そんな風に思うのかもしれません。
けれども、おられるはずだと考えていたところに、イエスさまはおられませんでした。もはやできることは何もなくなってしまった。どうしたら良いのだろう。途方に暮れる彼女たちにの前に、輝く衣を着た二人の人が現れました。そして言います、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。
わたしたちは、傷つき、苦しみ、悲しむとき、過去を振り返り、原因を探したり、誰のせいかと考えたりすることに時間を費やしてしまいがちです。まるでお墓の中を調べに行くように。けれども、過去を、うしろをふりかえることの中に救いはありません。イエスさまは死の世界に閉じ込められてはいない。今も生きておられ、わたしたちの人生を共に歩いてくださっているのだ。「三日目に復活することになっている、と言われた」イエスさまの言葉を思い出しなさい、と言われています。
「復活」を信じることは、過去から解放されて「今を生きる」ことだと思います。イエスさまご復活の喜びが、すべての人々に伝わっていきますように。
イースターおめでとうございます!
牧師補 執事 下条 知加子
「降りてこられる神」 2022.4.10
いよいよ、イエスさまの十字架を記念する「聖なる週」を迎えました。今日の第一日課として登場する、イザヤ書第53章を読むと、わたしたちがどんな神を信じているのか、よくわかる気がします。
それは「君臨」とは対極をなす神。圧倒的な力で相手をねじ伏せ、精神的に人間を支配するようなタイプとは全く違う神です。
この社会に生きていると、どうしても「わかりやすい」ことを求められます。「私を納得させろ」という重圧も感じますし、利益をもたらす片鱗をチラつかせて初めて話を聞いてもらえるという現実があります。そういう意味では、イザヤ書の神は、「神々しい」どころか、まるで押しが効かず、誰にも相手にされないような姿を晒します。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかも、「わたしたちの病、痛み」を代わりに負ったのに、「神に懲らしめられている他人」と傍観していたのは、他でもないわたしたちであったと続きます。しかし、神は「わたしたち」に怒りや罰則を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と。呆れるばかりの人のよさです。
人に誤解されたり、やっていないことで糾弾されたり、あるいは無視されたり、軽蔑されたりするのは、とても辛いことです。あまりに辛いので、白日の元に事実をあばき「私は間違っていない」と声を大にして言いたくなります。そして深い孤独に襲われます。しかし聖書の物語は伝えます、事実を知る神、心の奥底の深い悲しみや痛みを分かち合う神、わたしたちの惨めさ見捨てられる辛さを理解する神を。
おそらくイエスさまはユダヤ教徒の習わしとして、こどもの時から、このイザヤ書を繰り返し暗唱なさったに違いないのです。そして、ご自分がどんな道を歩むことになるのか、咀嚼しつつ成長され、十字架への道を踏みしめていかれたのではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「自分勝手なのは?」 2022.4.3
でも、繰り返しこのお話を読んだり聞いたりし、歳を重ねても来るうちに、実は人間だれでも、ぶどう園の収穫を(主人に渡さず)自分たちのものにしようとしてしまうことがあるのではないかと思えてきました。主人が送った愛する息子がイエスさまであるなら、このぶどう園はわたしたちの住む世界そのものということになるでしょう。主人である神さまは、ぶどう園を造るように、丹精込めてこの世界を造られました。そこで生き・働く農夫であるわたしたち人間は、そこで得られる豊かな収穫を仲良く分け合っているでしょうか。すべての人に行き渡るよう心がけているでしょうか。もし、わたしたちがそのようにしていたら、戦争や紛争が起こったりしないのではないでしょうか。
人間だれしも、どこかに身勝手な思い持ってしまうものではないかと思います。自分さえ良ければというその思いは、他の誰かを疎外し、分断を招き、争いごとを招きます。
2015年の国連サミットから始まったSDG’s(世界中にある環境問題・差別・貧困・人権問題といった課題を、世界のみんなで2030年までに解決していこう」という計画・目標)でも、「誰一人取り残さない」ということが掲げられています。
どうかわたしたちが、自分勝手な考えや思いから解放され、平和に向かって一歩一歩、歩みを進めてゆくことができますように!
牧師補 執事 下条 知加子
「迷子になりやすい?!」 2022.3.27
ある家族の中、家督を継ぐお兄さんはしっかり者。家族中が信頼を置いています。一方の次男は「自分はどうせ当てにされない」とばかりにやりたい放題を繰り返し、やがて食うにも困り、はっと気がついて家に戻り、父に赦しを乞う。この次男は、自由や解放ということを履き違えた挙句、生きる目的を見失ってしまいます。そして、生まれて初めて「貧困」という壁に打ち当たったことで、自分が人生の「迷子」になっていることに気がついた。「生きる」ことそのものが、実はとても尊いという真実に気がつき、父親に自分の負の行動を隠すことなく詫び、頭を下げて仕事を与えてくれるようお願いする。すると、父は次男の謝罪を受け入れて、彼が生きて帰ったことをすなおに喜ぶ。
しかし、しっかり者のお兄さんは苛立ちを隠せません。父親が「あのひどい」弟の謝罪をへらへらと受け入れたようで、家に迎え入れたことが面白くありません。自分ももっと自由に生きたかったのに我慢した。自分の希望も願いも犠牲にして、家族一族のために尽くしてきた。それなのに、苦労一つしたことのない弟は歓待される。さんざん迷惑をかけられた兄として、素直に喜べない気持ちは、わたしたちも共感するところ大かもしれません。
でも、このお兄さんも「迷子」になっていると思うのです。最初は家族のため、大切な人々のため、身を粉にする働き尽くめの毎日に、愛する家族のためですから何の不満もなかったことでしょう。しかし、生活が安定し、自分の役割や地位が確定してくると、だんだん「何のために生きているのか」見えなくなってきたのだと思います。
兄パターンかあるいは弟パターンか、わたしたちもきっとそれぞれなのでしょう。でもいのちの輝きと、生かされている事実に気がついたとき、常に大きな腕を広げて待ち続けていてくれる神の存在を忘れないでいたいと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「忍耐強い方」 2022.3.20
イエスさまが「実のならないいちじくの木」のたとえ話をされました。その土地の主人は、自分の畑に植えたいちじくがもう3年もの間「実を探しに来ているのに、見つけたためしがな」かったので、園丁に「切り倒せ」と言いつけます。しかし園丁は、「今年もこのままにしておいてください」と頼みます。「木の周りを掘って、肥やしをやってみ」るから、「そうすれば、来年は実がなるかもしれ」ないから、と。そして「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言います。
では、このいちじくが翌年実をつけなかったら、切り倒されてしまうのでしょうか。いいえ、この園丁は、今年は、ではなく「今年も(このままに…)」と言っています。ですから、次の年も、もしかしたらその次の年も実を見つけられなくても、「今年もこのままにしておいてください」と主人に頼むことでしょう。来年こそは実がなるかもしれないから、と。
どうかわたしたちが、愛に基づく平和という果実を実らせることができますように。困難に次ぐ困難がわたしたちを襲ってきているようなこの時にあっても、忍耐をもってわたしたちを支えつづけてくださる方がいることを覚えて、祈りをもって進んでゆきたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「狭い門から入る」 2022.3.13
偏差値高めの私立、一流大学、有名企業入社などを目指す人はたくさんいるので、そんな「狭い門」に入れるよう自分を磨きなさい、といった意味で使われることが一般的かもしれませんが、聖書のこの言葉は「人に誇れる人生を手に入れる努力」という意味ではなく、「救いを得るにはどうしたらいいか」という流れの中で登場しています。
ある程度生活が安定し何とかやっていける、という階級の人々に対し、イエスさまは少し厳しいところがありますが、安定がいけないと言っておられるわけではなく、保身志向というか、手に入れた物を失わないためには目も耳も塞ぐ、自分を守るためには他人はどうなってもかまわない、といった姿勢に対しての指摘なのだと思います。不安定な生活を余儀なくされる時、あるいは不安定な心を抱えて苦しい時は、きちんと定収入があり穏やかな生活を送っている人々の人生が、夢のように美しく見えることがあります。そして、そんな生活を手に入れれば、自分も幸福になれるような気がして、みんなが求める広い門、つまり大勢の人が入っていくような安定した広い門に自分も向かおうとする。しかし、そんな広い門の中にいざ入ってみると、心の中に葛藤が生まれます。これが本当に、神さまが私に備えて下さった人生なのだろうか、これが果たして幸せなのだろうか、と。
この大斎節の40日間は、イエスさまの十字架刑がジリジリと迫るのを感じつつ、その物語を、ひとつひとつ噛み締める期節でもあります。わたしたちに「救い」、つまり人生の意義を見い出すこと、他の人と比較する必要のない「わたしの存在」そのものが尊いこと、わたしたちを大切に思う神さまの存在を確信すること、愛の力強さを信じること、をもたらすために、わたしたちのために十字架にかかる決断をしていくイエスさまの姿を追います。
「みんなが行くから」という理由で広い門に流されていき、その中に入って保身や諦めを決め込むのではなく、「狭い門」を見つけそこから安心して入りなさい、とイエスさまはすすめます。何故ならば「狭い門」は、あなただけのために神さまがわざわざ作られた門であって、あなた以外は誰も入れないからです。人と比較したり、争ったりする必要が全くない門でもあります。しかし「狭い門」は、人の賞賛を得られないかもしれず、周りから理解されにくく、価値も認められないかもしれません。でも、自分の門を見つけ出し、その門を入ることが叶うなら、わたしたちは最上の幸せを見出すに違いないのです。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「悪魔の試み」 2022.3.6
私事で恐縮ですが、かつて聖職への道を示され、そちらに進んでみようかと考え始めたとき、本当にそれでよいのか、それが神さまが示してくださった道なのか、いくら悩み祈っても確信が持てず、とても迷っていました。そんなとき、図書館でマザー・テレサの本に出合いました。そこには、彼女が自分の進む道について迷い、奉仕の道に進み始めてからもずっと悩み、祈り続けたことが書かれていました。他の人がなし得ないような奉仕の働きを始められた、多くの業績をなして人々からとても尊敬されているマザーのような人は、神さまの示された道を迷いなく進んで行ったに違いないと思っていたわたしにとって、それはとても意外なことでした。そして同時に、神さまに対する信頼さえあれば、迷い悩みながら進んでよいのだという励ましを受けたのです。
イエスさまはどうだったのだろう、と考えます。神さまの子なのだから、正しい方だから、与えられた使命をはっきりと自覚し、不安も迷いもなく宣教し、十字架への道を進んで行かれのだろうか。決してそうではないでしょう。人として悩み、苦しみ、迷いつつ進んで行かれたに違いありません。しかしそこには、揺るがぬ神への信頼がありました。3つの大きな試みをも退けたイエスさまに、「悪魔はあらゆる試みをし尽くして」離れてゆきました。
コロナ禍にあって、また人の命が大切にされにくいこの世の中にあって、わたしは、わたしたちは、そして教会は、どのように進んで行ったらよいのか。その道はたやすく見つけることはできないかもしれませんが、神さまへの信頼を忘れず歩むところに光が与えられることを信じて、ともに悩み、迷いつつ進んでゆきたいと思います。
牧師補 執事 下条知加子
「大斎節がはじまる」 2022.2.27
いろいろな解釈があるとは思いますが、「夢」とは別に、聖書の中の「眠り」は、その人が不在だということを示すひとつの暗号ではないかと思うことがあります。つまり「心ここにあらず」と言ったりするように、外見はそう見えなくても、心がそこに無ければ、その人はそこには居ないと。ペテロさんは積極的に居なくなろうとしたわけではないですが、その時点では「居られなかった」という話ではないかと思うのです。
先週、ハードルの高すぎる「愛すること」のお話をしましたが、この時のペテロさんも「愛すること」の意味をおそらくわかっていなかったのでしょう。そしてまた、これから起ころうとしているイエスさまの十字架が何故必要なのか、まるで失敗者のように惨めな最後を遂げられることも含めて、わけがわからなかったのだと思います。そして、「小屋を三つ建てましょう」などと口走りますが、まだこの世的な成功、つまり皆から称賛を得ることや、理解され歓迎され喜ばれるイエスさまのイメージしか、思い描いていなかったのかもしれません。
それでも、です。神さまはペテロをはじめとしたお弟子さんたちに、イエスさまの生涯を語り伝える役割を託しました。わたしたちは、この後の聖書の物語を読んでいるので、イエスさまが一番辛いその時に、自己保身のために逃げ出し、言い逃れの嘘もついてしまう彼らであることを知っています。でも「だから駄目」なのではなく、底辺の底辺から180度転換して、イエスさまの伝える「愛すること」を伝える使命に、いのちがけで取り組んでいく弟子たちに変えられた。それは、無力で人の役にはとても立てないように感じるわたしたちも、「愛すること」の真意を受け取る可能性が開かれ、人生が変えられていくということなのだと思います。今年は、3月2日から大斎節が始まります。わたしたちの本当の心の姿、弱さ、情けなさをすべて受け止めた上で、愛することを教えてくださっている神に、一瞬でも顔を向けることが出来ますように!
牧師 司祭 上田 亜樹子
「敵を愛する」 2022.2.20
誰でも、自分と関係が良い人を愛することは易しいものです。けれども、関係が悪くなってしまうと、その相手を愛することは難しくなります。それは、同僚であれ、友人であれ、家族であれ、同様でしょう。ましてその相手が「敵」であるならば、とてもじゃないけれど愛することなどできない、と感じるのが普通でしょう。それなのに「敵を愛しなさい」とは、どういうことなのでしょう。
また、憎まれたら憎み返し、呪われたら呪い返したくなる、それが一般的な感覚ではないかと思うのですが、聖書では「あなたがたを憎む者に親切にし」「呪う者を祝福し」なさい、また「奪い取る者」にはそれ以上に与え「取り戻そうとしてはならない」と言っています。
そんなことは無理だ、と思います。けれども一方で、もしかしたら私たちは、人に何かを与えるという時、相手から同じだけ返してもらうことを期待しているのかもしれない、あるいは何か取られたら、同じだけ取り返さないと気が済まないのかもしれないと気づかされます。同時に、与えることができる人は、すでに多くを与えられているのだ、ということにも気づかされるのです。そして、与えてくださっているのは、神さまだと。
いま自分が持っているものは、すべて神さまからいただいたものだと感じることができる時、私たちは「求める者には、誰にでも与え」ることができるのかもしれません。また、愛するよりも先にまず、神さまから愛されていることを知る時、私たちは「敵」を愛することができる者とされるのではないでしょうか。
神さまは私たちを豊かに愛し、必要なものをすべて与えてくださっています。その慈しみ深さに信頼して、私たちが、愛し合える関係を築いて行けるようにと願い、祈ってゆきたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「幸いな人は、神からの力を見る」 2022.2.13
わたしたちは、人と比較して「幸いである」かどうかを測ってしまうことがあります。誰かに「経済的に恵まれていて幸いですね」と言っても、そうですねとはなかなか返ってきません。それはどこかで、「もっと上」の人に比べて自分の幸せ加減はまだ薄い、と感じているからなのかもしれません。「勉強をする機会があって幸せですね」と言われても、「もっと恵まれている人はいる」と心の声は響き、そんな人々をうらやましく思う気持ちだけが膨らんだりします。生きるには必要なのですが、地位・学歴・収入を、他者との比較で捉えると、「幸いである」と安心して言えないような現実があります。
ここでイエスさまが言われる「幸いである」という言葉ですが、辞書によると「神々における、不安、労働による苦しみ、死のない至福の状態を示す」意味とのこと。英語では「blessed」〜祝福されている〜と訳すのが一般的で、カトリックの本多哲郎神父は「神からの力がある」と訳します。
誰しも、貧しかったり飢えていたり泣くような人生は避けたいです。でもそんな状態にある時こそ、神さまを身近に感じることができる、と言っておられるように思うのです。普段は心に壁を築いて、神さまの愛や慈しみを妨害してしまう人々も、貧しく飢え泣けてくるような節目には、その壁が打ち砕かれ、万人に満遍なくずっと注がれてきた太陽の光のような暖かさの存在を認知するチャンスなのだと。つまり「非の打ちどころの無い自分」ではなく、無防備な状態で生きるしかない時こそが「幸いである」と言っておられると。わたしたちも「神からの力」を望み見る心を持ちたいと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「疲れ果てているとき」 2022.2.6
そこへイエスがやってきて、漁師の一人シモンに、自分を舟に乗せて岸から少し漕ぎ出してほしいと頼みます。疲れ切っていたシモンでしたが、言われたとおりに舟を漕ぎ出しました。岸に集まっている人々に向かって話をした後、イエスは沖へ漕ぎ出して漁をするように言われます。シモンは「こんな時間から漁をしたところで何も捕れるはずがない」と思ったけれど、この人がそう言うのなら、もう一度だけ…と思って網をおろしてみました。すると、信じられないほど沢山の魚が捕れたのでした。
漁師として生きてきたシモンは、プロとしての経験を頼りに漁をしてきたことでしょう。そんな自分があんなに頑張ったのに、成果が出せなかった。心も体も疲れ切っていたであろう彼に、にもかかわらず「もう一度」トライする力が湧いてきたのは、舟の上で人々に話をしていたイエスの言葉が彼の心を動かしたからに他ならないと思うのです。
「お言葉ですから」と、イエスという人の促しを受け止め、沖へと漕ぎ出した結果、それまで経験したことのないような大漁になるという思いもかけない状況に遭遇したシモンは、「すべてを捨ててイエスに従」ってゆきました。彼にとって“すべてを捨てよう”と思ってしまうほどの衝撃的な出会いが、出来事が、そこに生起していたということでしょう。
シモンの心に響いたイエスさまの言葉が何であったか、それがシモンにとってどんな出会いであったのかは、聖書に書かれていません。なぜなら、イエスさまの言葉も、その時に起こる心や体の変化も、客観的な言葉で説明できるような事柄ではなく、その人の内側で起こる、その人だけが経験する出来事だからです。
わたしたちが疲れ果てている時にこそ、イエスさまは「ともに漕ぎ出そう。一緒にいるから、もう一度やってごらん」とはげまし、声をかけてくださるに違いありません。
牧師補 執事 下条 知加子
「耳を傾ける」 2022.1.30
「この人はヨセフの子ではないか。」この発言は、イエスという人がどんな境遇の人間かということを聞き手が判定している言葉です。同じエピソードがマタイの福音書では「母親はマリアと言い…」と語られていますが、これには“父親のはっきりしない子”という侮蔑の意味合いが込められています。そんな人間の言うことなど、自分たちが聞く価値はないと言っているようです。
次にイエスさまは、異邦人が救われたエピソードを、ユダヤ人が大切にしている聖書(旧約聖書)から引用して話し、ユダヤ人だからという理由では誰一人救われることはないのだということを示しました。すると、聞いていたユダヤ人たちは皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。
この出来事は、イエスさまがナザレで教え始められてすぐに、一日二日で起こったことではないかもしれませんが、そう長くない期間のうちに、イエスという人を排斥しようという動きが起こったのではないかと想像します。
私たちは誰かの話を聞く時、その人がどういう人かということを勝手な物差しでジャッジしてしまい、話の内容に関わらず、聞いたり聞かなかったりするということがあるのではないでしょうか。また、恵みがあると語られていたとしても、それが自分たち-しかも、特権を持っている自分たち-に恵みがあるという話ではないとしたらどうでしょうか。自分には関係ないと無視するだけでなく、“そんな人たち”に恵みがあるなんて許せないという、ある種の憎しみのような感情を抱いてしまうことはないでしょうか。
イエスさまの言葉が語られる時、自分たちの都合でなく、偏見を持たず、素直にその言葉に耳を傾けられる私たちでありたいと願います。
牧師補 執事 下条 知加子
「聖霊に包まれて生きる」 2022.1.23
今日の福音書は、イエスさまが洗礼を受けられて聖霊に満たされ、故郷に帰り(ユダヤ教の)会堂で聖書を読み上げるシーンです。そして、わざと?なのか、それとも現代のわたしたちのようにその日に読まれる聖書の箇所が決まっていたのかは、わかりませんが、よりにもよって「貧しい人に福音を告げ知らせ、囚われている人に解放を、目の見えない人に回復を、圧迫されている人を自由にする」という旧約聖書イザヤ書の箇所が選ばれています。これはまさに、イエスさまの生涯そのものです。つまり、教養人や権力者、また人々から尊敬されている人などは、全く無視されています。それどころか、当時の社会で「神さまの恵みから漏れている」と決めつけられていた貧しい人、病気の人、抑圧されている人こそが、イエスさまからの愛を注がれる人であり、神さまがもっとも関心を持つ人々であると告げています。
しかしながらそれは、「かわいそう」だから、神さまが豊かに哀れみを下されるという意味ではなく、生きていることが苦しくてたまらない、なんとか自分の生き方を変えようと七転八倒している、努力してもいっこうに事態が改善されない、そんな人々の最も近くに神さまがおられる、その人々の苦しみや悲しさを理解し寄り添ってくださる、そういう神さまである、と告げに来られたイエスさまを、表していると思うのです。
今回のコロナ禍で、できなくなったことがたくさんあります。失ったこともたくさんあります。未だにどうしたらいいのかわからないことも多いです。でも、今すぐ変えることのできない現状に、圧倒的な無力感を感じて立ち尽くすのではなく、わたしたちは今この瞬間も、神さまの霊に包まれて守られていることを思い出したいのです。自分でなんとかして不都合なことを捻り伏せようと力むのではなく、聖霊が働くのを邪魔しないこと、これもまた、神さまへの大きな信頼ではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「カナの婚礼で」 2022.1.16
イエスと弟子たちが招かれた婚宴の席は、多くの人々が招かれて一週間ほども続くような大きな催しでした。そこでは沢山のぶどう酒が必要でした。そんな最中、その大切なぶどう酒が足りなくなるという事件が起こります。それはあってはならないこと、人々を招いた側にとっては大変な事態でした。
母マリアがイエスに、ぶどう酒がなくなったことを訴え、助けを求めます。そして召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。イエスは、水がめに水をいっぱい入れるように言いますが、そこには80~120リットルも入る石のかめが6つもありました。水は井戸から汲んで来なければなりません。井戸は2㎞位離れた所にあったと思われます。空身で歩いても20分くらいはかかるその道程を、水を運ぶのは大変な仕事です。召使たちは一生懸命重たい水を運び、かめの縁まで水を満たしました。そして、イエスに言われるままに、その水を改めて汲んで宴会の世話役のところへ運んで行くと、何と美味しいぶどう酒になっていました。人々は大変驚きます。
一番驚いたのは、その水がどこから来たのかを知っている召し使いだったかもしれません。汲んできたのは確かに水だった。水は水でしかないはずなのに…。けれども、水は生活のため、私たちが生きて行くため、命のために欠かせないものです。毎日井戸からせっせと水を汲み、飲んだり、料理に使ったり、身体を洗ったり。そんな日常そのものの中に「命」があるのです。
ぶどう酒が無いという訴えは、婚宴にはぶどう酒が欠かせないという常識、私たちの‟こうあらねばならない”という思い込みから発せられているのかもしれません。大切なのは常識ではなく、水(命)そのものであることを、私たちは忘れがちなのではないでしょうか。
イエスさまに頼り、イエスさまにお任せしたとき、無味無臭で価値が薄いと思い込んでいた水が、実は芳醇で美味しいぶどう酒(とても価値のあるもの)であることに気づく。常識を破るこの出来事(しるし)を見た弟子たちは、イエスを信じました。
水からぶどう酒に変えられるのは、私たち自身かもしれません。すべての人の命が、イエスさまの光によって解放され、その輝きを取り戻してゆきますように。
牧師補 執事 下条知加子
「洗礼の意味は?」 2022.1.9
クリスマスの季節が終わり、1月6日から顕現(=いろいろなことが明らかになるという意味)節に入りました。そんな顕現後の主日は、バプテスマのヨハネと、イエスさまの洗礼の記事です。それにしても「洗礼」とは何でしょうか。イエスさまにとって、洗礼を受ける前と後では何かが変わったのでしょうか。信徒ではない方々からはしばしば「洗礼を受けると、不安がなくなるのですか」というようなことを聞かれることがあります。これは「その通り」の部分と、「ちょっと違うかな」という両方の部分があると思います。
「その通り」については、とにかく精一杯、自分の生涯を生き切れば、最終的には神さまがどうにかしてくれる。失敗したり、不十分だったりしても、わたしという存在を否定なさることは決してなく、「よくやってくれたね」という眼差しで迎えてくれるような安心感はあります。生きている以上、様々な選択や決断をしなければならないことは多いですが、結果が正しかったのか間違っていたのか、ずっと後になってもわからない時もあります。また、その時は我が意を得たりと自信満々でも、だんだんその思いが濁ってくる時もあるでしょう。でも、神さまの時間の中で生かされ、限界や弱さを抱えたまま我々は、自分に出来ることをやればいいし、完全さを自分に強いなくて良い。そのままで神さまが大切にしてくださる、という意味では、「その通り」なのかもしれません。
一方、「ちょっとちがうかも」の部分は、洗礼を受けると嫌な目には合わなくなる、という意味では、ちょっと違うかなと思います。洗礼を受けても、相変わらず迷ったり苦しんだり、悲しいことが起きたり、人に誤解されたり、という、人生の苦しみは避けられないです。
な〜んだ、そんなことなら、洗礼を受ける意味はないじゃないか、ということになるかもしれません。でも、もし「洗礼」ということを、「損か得か」というような視点で捉えてしまうと、イエスさまが伝えようとされた一番大切な核心を見失う気がするのです。礼拝に「慣れて」きたり、聖書の知識が増えたり、キリスト教や教会の伝統やしきたりをたくさん知っていたり、ということは、イエスさまが命がけで伝えようとされたこととは、全く別のことだと思うのです。
そうではなく、神さまの愛に触れること。社会がどう否定しようと、人々が何を言おうと、わたしたちが疑おうと、神さまは揺るぎなく、わたしたちを愛してくださる、そのことを信じること、信じようとすることが、洗礼を受ける、という内容なのだと思います。
わたしたちは礼拝を通じて、神さまの愛に触れます。また、一緒に聖書を読んだり語り合ったりして、ひとりでは気がつかなかった神さまの世界を知ります。それらが、必ずしも都合の良いことばかりとは限りませんが、概念的に頭で理解できたら神さまがわかった、ということではなく、心の一番底にストンと落ちるというか、世界がちがって見えてくるような「神さまの世界」を、本当に信じて生きていきたい、ということが一番、基にあるように思います。
イエスさまは、神さまの愛の中でこの世に送り出された。そして、改めて「神さまの世界」をこの世に伝えるために生かされている、そのことを身体に刻みつけるために、改めてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのではないでしょうか。牧師 司祭 上田 亜樹子
「弱さを持っているからこそ」 2022.1.2
モーセは言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記 31:1-8参照)
不可能とさえ思える神の召し出しに応えて、「奴隷の家」エジプトから同胞たちを導き出したモーセは、約束の地を目前にして自分の後をヨシュアに託すこととなりました。モーセもヨシュアも神に選ばれ召し出された人ですが、彼らに並外れた頭脳や体力、強固な信仰があったわけではありません。むしろ人として、弱さを持ち、それを深く自覚している者だからこそ、民を新しい天地に導く使者として選ばれたのです。
弱さ・足りなさのゆえに恐れを抱くヨシュアに、神は繰り返し「強く、雄々しくあれ」と呼びかけます。神は、困難な道程を行く彼をはげましつつ、常に民とともに歩もうとされました。
牧師補 執事 下条 知加子
「神への信頼という原点へ」 2021.12.26
今日の特祷では「(神は)驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造」り、「さらに驚くべきみ業によりイエス・キリストによって、その似姿を回復してくださ」ったとありますが、この2つが並列していると、以下のように読む人がいるかもしれません。
わたしたちがこの世界で、うまく生きていくためには、失敗を避けることは必須でしょう。しかも人にわからない範囲なら、心の中で何を考えていても自由だし、誰にもバレないと思っています。だから、人に知られるような汚点を持つことや、失敗を指摘されることを非常に恐れている、というのが正直な心中かもしれません。こんな現実の私たちが、イエスさまの十字架によって回復されなければならないのは何なのか。それは間違いをしでかさない強靭な精神力や完璧さではなく、神への混じり気のない信頼なのではないかと思うのです。何をしていても、あるいは何もできなくても、神さまが全てを統治し、無駄なことは何一つないのだと心の底から信じること。それが信仰の核心であり、そして神へのそんな信頼は、わたしたちを本当の意味で自由にしてくれるはずです。今年の最後に今一度、神さまへの信頼があなたを自由にしているかどうか、心に手を当てて問うてみましょう。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「マリアの賛歌」(アヴェ・マリア) 2021.12.19
イエスの母となったマリアが天使ガブリエルから「身ごもって男の子を産む」と告げられたのは、ヨセフと婚約中でまだ結婚する前、しかも彼女がまだ13~14歳という若さのときでした。あり得ない、あってはいけないことが身に起こる、あるいは起こってしまった。マリアはきっと、誰にも相談することができず途方に暮れ、思い悩み、苦しんでいたことでしょう。その戸惑い・不安はどれほどだったでしょうか。
マリアは、天使が話していた親戚のエリサベトおばさんになら相談できるかもしれないと思い立ち、急いでユダの山里エインカレムに向かいます。エリサベトは長い間子どもができなかったのですが、かなり高齢になってから願い叶って子を宿していました。聖書に詳細な記述はありませんが、エリサベトはマリアの話をしっかりと聴き留め、彼女の戸惑い、悩みを暖かく受け止めたに違いありません。高齢になるまで子どもを授かることなく、長く不妊の女として神さまの祝福から遠いと思って過ごしてきたエリサベトだからこそ、マリアの苦しみを理解することができたのではないかと思います。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」と伝えます。そして「お言葉どおりこの身になりますように」と神さまにゆだねたマリアを「なんと幸いでしょう」と祝福するのです。
エリサベトのところに3か月ほど滞在している間、マリアは沢山話を聴いてもらい、色々なことを考え、思い巡らしたことでしょう。そして、あらためて神さまを信じて歩んでゆく決意をしたのだと思います。そこで生まれたのが「マリアの賛歌」です。貧しく、取り立てて地位もなく、世間的に許されない状況に追い込まれてしまった私に神さまは目を留めてくださった! 神さまはそういう方なのだというマリアの目覚めから生まれた賛美の歌。
日々の夕の礼拝でささげられ、アヴェ・マリアの祈りとして唱えられ、沢山のアヴェ・マリアの曲が作曲されている「マリアの賛歌」。この賛歌を歌い唱えるとき、神さまの祝福そして救いが、私たちに、そして多くの人々に訪れることを願い、祈りたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
あなたの「お役目」 2021.12.12
今週もまた、バプテスマのヨハネの話が続きます。ヨハネのもとには、洗礼を受けようと、たくさんの人が集まって来ましたが、誰でも無条件に洗礼を授けてもらえたわけではなさそうです。どんな人が洗礼を受けることができ、誰がお断りされたのか、物語を読んでいきましょう。
まず、由緒正しい家柄の人たちがやって来ます。自分たちはきちんと伝統を守り、礼拝や献金もしている「アブラハム」の子孫なのだから、他の人たちより優れていると、どこかで思っています。まさか洗礼を受けたいと申し出て、お断りをされるなんて夢にも思っていません。
そんな人々にヨハネは、そのままでは神の国には入れないと伝えます。安定して衣食住が確保でき、生きていく上での様々な必要を心配なく満たせるのは、むしろ特別なこと。伝統を守れず、礼拝に出席したくても出席できない人々を、見下すような心根は、神の国から遠く離れていると指摘します。そして、自分たちが当然と思っている特権を分かち合うよう勧めます。
次にやって来たのは徴税人と兵士たちでした。徴税人は、税を集める仕事ですが、その業務に対しては対価が支払われないので、生活費を上乗せして税を集めざるを得ません。中には法外な金額を要求する裕福な徴税人もいるので、とても嫌われています。
一方、兵士は、ローマ帝国に属する下っ端です。命は尊重されず、ある意味消耗品のように使い捨てられ、しかし暴力を奮ったり、権力を笠に着たりする兵士もいて、ユダヤの人々にとっては帝国支配者の手下です。できれば口もききたくないし、目も合わせたくない存在です。
ヨハネはこの人たちに対して、洗礼を受けるためには、まず今の仕事を辞めて出直して来なさい、とは言いませんでした。そうではなく、騙したり恐喝したり乱暴をふるったりするのはやめて、まず自分の与えられた場で、役目を果たしなさいと勧めます。それは、その人々にとって簡単ではないにせよ、人としての存在を認める知らせです。
ヨハネが行っていたバプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていました。しかし、気持ちよく生活するために、洗礼を受けてさらに人生のグレードアップを目指しましょう、という話ではなく、余計なものや不必要なものを振り捨て、質素な生活に立ち返り、本来の自分の役割に目を向けるという強調点があったようです。
わたしたちには、それぞれこの世での「お役目」がありますが、気がつくとあまり大事ではない飾りに埋もれて、見えなくなっていることも多いのではないでしょうか。また、時にはそれを不満に思い、損をした、不公平だと感じたり、もっと楽に得をする道を探したくなったりもします。
でも、何をしていても、一見幸福なように周りからは見えても、実は自分の「お役目」を見失い、忠実に生きられない人は不幸です。紫の季節、余計なものをまといたくなる誘惑を振り捨てつつ、わたしたち自身の本当の「お役目」に耳を澄ませたいと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「悔い改め」 2021.12.5
「悔い改め」という言葉を辞書で引いてみると、“キリスト教で、自らの罪を懺悔して神にゆるしを願うこと”と書かれていました。今まで沢山聞いてきた言葉なので、それがいわゆる‟キリスト教用語“だということに少し驚き、悔い改めるとはどういうことなのか、あらためて考えてみました。
何か悪いことをしてしまったとき、あるいは悪いことをしていることに気がついたとき、相手に謝ること、ごめんなさいと言うことは、人間関係の中ではとても大切なことです。ごめんなさいと言う時、そこにはおそらく「もう(同じことは)しないようにします」という気持ちが含まれているように思います。では、悔い改めることは、神さまにごめんなさいを言うことなのでしょうか。
今日読まれた福音書にあるイザヤ書の言葉に「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」とあります。沢山の谷があり、たくさんの山と丘がある世界が、人々が悔い改めることによって平らにされていく、という風にとらえることができるように思います。
今私たちが生きている世界も、谷=低い所と、山や丘=高い所が数えきれないほどあります。もし高い山の上にいる人がその山頂から谷の底にいる人に向かって「ごめんなさい」と言ったとしても、その声は遠すぎて聞こえません。心から謝ってその気持ちが届くようにするためには、山を崩して、その土で谷を埋めて、お互いに同じ平面に立つ必要があるのです。
まず、自分がどこに立っているか、あらためて見つめ直してみることが大切ではないだろか。そうして、自分の行いを振りかえり、思い巡らし、同じ過ちを繰り返さないためには自分はどう変わって行けるのか、神さまに問うてみる。それこそが悔い改めであり、世界が平らになっていく一歩になるのではないか。
降臨節の2週目、そんなことを思い巡らしてみたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子
「暗闇からはじまる」 2021.11.28
今日から始まる新年、そして降臨節は、2つの異なるテーマが同時に存在します。一つは赤ちゃんの姿でわたしたちのために生まれてきてくれたイエスさまを迎える準備のとき。もう一つは、世の終わりが来て、今まで曖昧であった正義と不正義がはっきりするための備えのとき。この2つは、まるで違うようにも感じますが、1日の終わりがまず暗闇から始まる生活習慣を伝統として守ってきた人々にとっては、そんなにかけ離れたテーマではなかったのかもしれません。
都会にいるとなかなかピンと来ませんが、夜のとばりの中では、何か困ったことがおきても、おいそれとは助けを求めにくいものです。危機的状況に直面しても、誰かに知らせるのさえ難しいことがあります。そしてそれは、荒れ野や村はずれに住んでいた聖書の人々の生活状況ということに留まらず、今を生きるわたしたちも、同じような難しさを抱えています。困ったことがずっと解決できなかったり、疲労困憊して何も考えられなかったりすると、本当は助けを求めて動かないければならないのに、どうにも声をあげることさえ難しくなります。また、困り切っている自分の状態を誰も知らず、知らせる意味も見えず、さらに自分を追い込むことになります。そんな時のわたしたちは、自分の弱さをいやというほど思い知らされます。それなりにうまく乗り切っている時は、自分の弱さのことは忘れ、ある意味自分をもうまく誤魔化してやりくりしていますが、ごまかしも底上げも通用しない時がやって来た時、本当の自分の姿を見ることになるのです。その時がいつ来ても大丈夫でしょうか。降臨節のメッセージは、もう一度ご自分を見つめ直し、「今の生き方で大丈夫ですか?」という問いに向き合うよう、招いているのではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「どういう罪で?」 2021.11.21
ユダヤの大祭司カイアファのもとで、何か悪いことをわたしが言ったのならその悪いところを証明しろと言ったイエスは、態度が悪いというだけで平手打ちされ、ローマの総督官邸に連れて行かれます。総督ピラトは、罪が認められないままイエスを鞭で打たせ、兵士たちは茨の冠を頭に乗せます。そして最後はイエスは死刑に、しかも十字架に架けられて公開処刑されることとなりました。
なぜそんなことになってしまったのか。イエスを無き者にしようとたくらんだ人たちがいたのはもちろんですが、沢山のユダヤ人たちが、イエスを「十字架につけろ」と叫んだからです。そして、イエスが殺されることを他人事として傍観していた人々も、彼を死に追いやったといえるでしょう。
今の日本には磔刑(十字架刑)こそありませんが、罪のない人が罪に問われ、死に追いやられることはいくらでもあるように思われます。権力によって、あるいは多くの人の声によって。沢山の人々の叫び声は、出来事の本質を見失わせ、本人やその人を支えようとする人々の声も主張もかき消してしまいます。そして、その人に起きている出来事を他人事として傍観する人びともまた、彼/彼女を死に追いやってしまうのです。
年間最終主日(日曜日)の今日私たちに与えられた福音書の物語は、かの幼子が何のために生まれてくるのかということを、あらためて思い起こさせてくれます。来週から始まる教会暦の新年、アドベント(降臨節・待降節)。キリスト・イエスを迎える準備の時として心豊かに過ごすことができますように。
牧師補 執事 下条 知加子
「ニセモノとの対峙」 2021.11.14
ところで、今日の福音書が書かれた時代(実際にはイエスさまが生きた時より少し後)は、イエスさまを信じる人々が窮地にありました。ユダヤ教からもローマ帝国からも迫害を受け、みつかれば次々と投獄され、処刑されるような日常で、誰を信じたらよいのか、何をどうしたら状況を変えられるのか、本当に誰もわからない。少しでもわずかでも、今持っているものを失わないように努力する以外、なすすべがありませんでした。そんなときは、生きるために努力をしたり、あれこれと大切な決断しても、無力感に打ちひしがれ、虚しくなります。そんな絶望的な気分になると、ニセモノのスーパースターがあらわれ、少し変だなと思っても、なんだかすべて解決してくれる妄想に皆が取り憑かれてしまい、すがりつきたくなります。
わたしたちも、実は似たような窮地に追い込まれることがあります。どうしたものか苦しみ悩んでいるとき、自分のもっとも弱いところを突いてくる悪霊の声に惑わされそうになります。「これが皆にウケる」「こちらがトク」とささやき、思考停止へと誘導します。ニセモノほど本物らしく振舞いますが、様々な苦難を乗り越えニセモノとの遭遇にひるまず、正しい決断をして来た人には、今度はさらに高度なニセモノが接近して来ます。しかし、惑わそうとする声が勝手にやって来るのではなく、私たちの中にある[欲を求める心]に共鳴して引き寄せられて来るのではないでしょうか。そんな時わたしたちは心を奮い立たせ、主のみ心がどこにあるのか真っ直ぐに顔を向け、神が大切になさりたいことを見極めたいと思います。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「持っている物をすべて」 2021.11.7
イエスは教えの中で、「律法学者たちに気をつけなさい」と言っています。律法学者と言われている人たちがどんな振る舞いをしていたかというと、「長い衣をまとって広場を歩き回」ったり、「広場で挨拶されること」を望んだり、「会堂では上席、宴会では上座にすわることを望」んでいました。また、「見せかけの長い祈りを」していました。どうしてそういった行いをするのでしょう。それは、人々に見せるために他ならないと思います。人々に見てほしくて、それらのことをしているのです。最近ではマウントを取るという言い方がされたりもするようですが、自分の優位性を相手や周囲に示す行為と言えるでしょう。ついそのような行為をしてしまったり、そんな気持ちが心の中に起こることは、私たちにもあるのかもしれないと思わされます。
一方、レプトン銅貨2枚(100円位?)を賽銭箱に入れたやもめは、その行為を人びとに見てほしくてやったのでしょうか。彼女は「大勢の金持ちがたくさん入れている」中で、それしかささげるものがないことに、肩身の狭い思いをしていたのではないかと想像されます。ですから、目立たないようにこっそりと賽銭箱に入れたに違いありません。それでも、それは彼女の持っている物すべてでした。「生活費」と訳されているbiosというギリシャ語には、“人生”、“生活”といった意味もあります。ですから、“生活のすべてをささげた”と受け取ることもできるでしょう。
列王記上17章に登場するサレプタのやもめは、手元にわずかに残っていた小麦粉と油を食べてしまったら、後は自分も息子も「死ぬのを待つばかり」だと思っていました。ところが、神の人エリヤに、言われたとおりまず小さなパン菓子を作ってささげたところ、「壺の粉も瓶の油もなくなら」ず、食べるものに事欠くことはなくなったのです。
たとえわずかであっても、自分の持っているもの、生活、人生のすべてをささげるとき、神さまはそれを価値あるものとして受けとめ、私たちを豊かに養ってくださるのです。
牧師補 執事 下条知加子
「諸聖徒日」 2021.10.31
キリスト教では11月1日を諸聖徒日(諸聖人の日、万聖節)、11月2日を諸魂日(死者の日、万霊祭)として覚え、記念しています。日本にはお盆(7月または8月)というものがあり、亡くなった先祖をお迎えして供養します。先にこの世を去った人たちを思うという点では同じかもしれないのですが、違っているところもあるように思います。この世を去った人たちと地上にあるわたしたちとの距離感が、その一つではないかと思います。
聖餐式の“感謝聖別”の祈りの中で司祭は「み使いとみ使いの頭、および天の全会衆とともに」と唱えます。それは、地上にある私たちだけで礼拝しているのではなく、天にいる人びとと一緒に祈りをささげているということです。人の地上での命は有限で、いつか必ず死んでその体は葬られ、生きている私たちの目には見えなくなる。けれども、消えて無くなってしまったわけではなく、神さまに招かれてその御許にいるのだという信仰です。
墓地で礼拝する毎に、またご葬儀の度に私は、亡くなった人たちがいるはずの世界、というか空間のようなものをあらためて意識させられます。普段は忘れているものが不意にづいてくるような感じと言ってよいでしょうか。すると、その世界は、どこか遠いところにあるのではなく、見えていないだけで実はいつも私たちのすぐそばに、いつもあるのではないかと思えてきます。そして時に、そちら側に移されて行ったあの人・この人の生きている姿が私に迫ってくることがあるのです。
明日から11月。諸聖徒日・諸魂日を覚えて、関係の各霊園・墓地で逝去者を記念する礼拝がささげられます。今年は残念ながら、感染症予防のため合同礼拝は行われませが、それぞれの墓地においでになる方もおられるでしょうか。死者の月として覚えられているこの月、逝去されたご家族や信仰の先輩たちを思い起こし、み国での平安を祈ります。そして、今一度自分自身を振り返る時として、大切に過ごしてまいりたいと思います。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイによる福音書 5:11)
牧師補 執事 下条知加子
「靴屋のマルチン」 2021.10.24
年末が近づく気配がすると、どうしても思い出してしまうのがトルストイ原作の「くつやのマルチン」です。文学としてだけではなく、かわいい挿絵の絵本もたくさん出ていますので、きっと一度はお読みなったことがおありかと思います。マルチンは、年取った靴屋さんですが、息子も妻もだいぶ前に亡くなり、喜びも楽しみもないまま半地下の作業場で靴の修理をしてきました。「心の中には悲しい涙がいっぱい詰まっていました」というくだりがあり、もうすでにここでグッと来てしまいます。作業場にしつらえた小さな窓から見える、行き交う人々の足元だけが、マルチンの外の世界とのつながりでした。でも生きている意味もわからなくなっている彼には、それは目に入りません。
ところがある晩の夢で「マルチン、明日行くからね」というイエスさまの声が聞こえます。半信半疑のマルチンですが、さあ翌朝からは、窓の外が気になって仕方がありません。ふと外を見ると雪かき作業に疲れ果て、呆然としているおじいさんがいます。今まではそんなこと考えたこともなかったのに、お茶をご馳走することを思いつき、作業場の中に入ってもらって暖かなお茶でもてなすと、雪かきのおじいさんは「心もからだも温まって」帰っていきます。しばらくしてまた窓の外を見ると、雪の中なのに薄着の女の人が赤ちゃんを抱いて震えています。マルチンが暖炉の前へと招き、スープとパンの残りでもてなし、自分の上着を差し出すと、朝から何も食べていなかったその人は泣き出してしまいます。でも、マルチンがあげた上着に赤ちゃんをしっかりくるむと、元気を出して帰っていきます。そんなこんながあった1日でしたが、イエスさまは来なかったし、やっぱり幻想だったのかと落胆するマルチンに、再びその声は訪れます。「おじいさんも女の人も、それからあの人もこの人も、あれは全部わたしだった」と。
「不幸」ではないけれど、社会の中で「不便な」状況に置かれた人のところへ、イエスさまは真っ先にいらっしゃる。そして、やがてそのことに気がつくわたしたちを待っている、ということなのかもしれません。不便な状態に追い込まれるのは誰でも嫌ですが、でもそうなったのは、自分の落ち度でも、何かのバチが当たったのでもなく、恥じることでもないと聖書は明言します。それこそマルチン本人もまた、生きる意味を見失い、「涙のいっぱい詰まった心」をどうすることもできず、感謝も感動も喜びもない、言わば屍のような毎日を、とても「不便に」過ごしていた一人でしょう。そんな地下室からもっと広い世界へと、やさしく連れ出してくださるイエスさまの物語です。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「見ていてください」2021.10.17
昨日は葛飾学園(保育園)のプレイデーでした。昨年に引き続いての感染症予防対策で、競技数を減らし、第1部(0~3歳児)と第2部(4・5歳児)に分けて完全入れ替え制に、観覧席も入場制限ありという、例年とは少し違った運動会となりました。でも、朝からパラついていた雨は開始時刻にはピタッと止んで青空も…。すべての競技が無事に行われました。
保育園の先生たちが、沢山の手をかけ時間をかけ、心をこめて準備してきたプレイデー。こどもたちも一生懸命練習して、本番に臨みました。けれども、お天気も然り、本番では何が起こるかわかりません。乳児クラスでは、普段は上手にできている子が大泣きしてしまったり、予想外にスムーズに競技に参加できていたり。かけっこでは一人の幼児さんが転んでしまって、起き上がって走り始めた途端片方の靴が脱げてしまい、それでもあきらめずに最後まで走り切りました!練習のときには多少の不安が残っていた(?)組体操、本番ではものすごく上手にできました。年長さんの和太鼓も立派でした。沢山のドラマが生まれ、泣き笑いがあり、保護者の方たちも先生たちもきっと、涙が出るくらい感動したのではないかと思います。
私たちの人生においても予想外のことは次々に起こります。念入りに準備して、一生懸命努力したとしても、そうそう思った通りにはいかないのが常ではないでしょうか。想定外のことが起こって慌ててしまったり、もはやどうしてよいかわからなくなり、行き先の見えない暗闇の中に独り置いて行かれたような気持になることだってあるでしょう。そんな時、もし“誰かがわたしを見てくれている”ことに気づいたなら、もう一度立ち上がってみようと思えるかも知れません。
プレイデー第2部の最初に、みんなを代表して4人の年長さんが言ってくれた「はじめのことば」に、「神さま見ていていください」という言葉がありました。「見ていてくれる誰かがいる」というのはどんなに心強いことでしょうか。神さまの視線を感じつつ生きている彼らが、その視線の中にあって、これからも活き活きと生きてゆくことができますように。
牧師補 執事 下条 知加子
「手のひらを開くように」 2021.10.10
家族や自分のために一生懸命働いて築いた財産なのに、大切に蓄えておいたのに、それを全部吐き出して、世の中の困っている人々を助けなければ、神さまに顔向けできない、と言っているように聞こえたのかもしれません。財産の全部ではなく、一部だけなら施すとしても、自分の分をとって置こうとするのは、いけないことなのでしょうか。
ところでイエスさまは、この質問をした人を「慈しんで」返事をされた、と書いてあります。この人に対する非難の言葉も発していないし、貧しい人に施せないとは残念な人だとも言っていません。むしろ、たくさんの財産を失わないように管理する重圧に耐え、財産があるがゆえに不自由になっているこの人の心をいとおしむように、「何よりもまず守るべきは財産で、そこは変えないままで、可能なら『永遠のいのち』もほしいと思っていませんか?」と言っているように聞こえます。
それは、たいした財産のないわたしたちに対しても、呼びかけられている言葉なのかもしれません。これはさすがに手放せないと思い込み、万全な管理保管をするために、自己犠牲を強いられている事柄。どうせ変えられないからと、今までどおり我慢している事柄。もう今さら変えられないと思い込んでいる人生。そして、情けなく認めたくないような悲しい自分。それらは、ひょっとしたら「変えたくない」という気持ちがどこかにあって、それをイエスさまに見抜かれているのかもしれません。自分を変えるつもりはないけれど、追加で手に入るなら「救い」も欲しい、という思考経路から自由になるようにというお招きなのではないでしょうか。わたしたちが、人に強いられてではなく、自分の意志で手のひらを開き、心を開くとき、今まで見えなかった恵みがそこにあるのが見えてくるのではないでしょうか。
牧師 司祭 上田 亜樹子
「結びあわせてくださったもの」 2021.10.3
「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」(マルコ10:2) ファリサイ派の人からのこの質問(というより詰問)は、「離婚をすることは、律法に適っているでしょうか」と聞くのと同じようでいて、実は全く違っています。「離縁状を書いて離縁することを許し」たというのは、女性がひとりで生きて行くことが非常に困難な社会において、主人の身勝手で女性がいとも簡単に放り出されるようなことが平気で行われていたので、せめて公式な離縁状を渡すようにと決められた、と考えられるでしょう。つまり、夫の側が一方的に「離縁する」と言っているのであって、妻の意思や希望は無視されています。
男性(強者)の所有物のように扱われ、軽んじられていた妻(弱者)の人権を、イエスさまは大切に考えておられました。律法というルールを盾にして自分たちの権利を主張する人たち(強者)に対して、イエスさまは、それは神さまのみ心ではないと諭しておられるようです。
「神が合わせられた者を人は離してはならない」(マルコ10:9)という言葉は、祈祷書(現行)の聖婚式文の中で、宣言の言葉に続けて司祭が言うことになっている言葉です。教会の結婚式に何回か出席していると、つい結婚式のための聖書の言葉であるかのように錯覚してしまいそうですが、イエスさまがおっしゃっている「神が結び合わせてくださったもの」というのは、何も結婚という結びつきだけを言っているのではないでしょう。
自分の都合だけで、これは要る、これは要らないと選別することは、物に対してなら構わないでしょうが、少なくとも相手が人ならば、そういう勝手をするべきではない。人との出会いはすべて神さまが用意してくださっているものだと思います。家族、学校や職場、そのほかどんな場であっても、何十億といる人びとの中から、神さまはわたしに今、大切な人と出会わせてくださっているのかも知れません。
「神が結び合わせてくださった」と信じて、一つひとつの出会いを大切にしていきたいと思います。そして、私たちをイエスさまと出会わせてくださったのもまた神さまであることを信じて、この出会いを大切にしつつ歩んで行きましょう。
牧師補 執事 下条 知加子
「小さなもののひとりを」 2021.9.26
礼拝を見たこともなければ、キリスト教に興味を持ったこともない人々と話していると、(聖書ではなく)神話に出てくる天使の名前が出てくるアニメを語り出し、「だから自分はキリスト教をけっこう知っている」とのたまう大人がいることに正直驚きます。そんな時は「あ、そうなのね」と流しますが、その方々にとっては超越的な力を武器にした戦闘シーンが感動的らしく、この怪物はキリスト教で一番えらい!などと強調されると、多少複雑な気持ちになります。
一方、直接宗教に関わったことのない一般的な日本人にとって、「宗教とはお金目当ての活動」というイメージもあるようです。目に見えない「希望」や「信念」を言葉にするのは、何かを誤魔化すためであり、「その背後に何かある」はずなので、人の弱みにつけ込んで金銭的な搾取をするような「宗教団体」の全貌が明らかになると、逆に、変に納得したりもするようです。いずれにせよ日本で宗教/信仰と呼ばれるものは綺麗事であり、心の弱い人や非科学的な思考の持ち主が飛びつくもの、と相場が決まっています。
こうなってしまった原因のひとつには、1995年の地下鉄(日比谷線、千代田線、丸の内線)サリン事件があると思います。「宗教」に洗脳され思考停止した人々はお金のためなら何でも実行、そして反社会的な行動や破滅も厭わないというイメージを広げた事件なのだろうと思います。そして、あのような酷い事が再び起きないためには、宗教や信仰に近寄ってはならず、ある種の自己防衛からか、目に見えない世界を茶化し、心や精神の存在を軽んじるのが安全、という風潮に繋がっているのかもしれません。
でもだからこそ、なのだと思います。イエスさまは徹底して、声の小さな人、社会の果てに押しやられている人、切り捨てられている人のところに身を置きました。何が得か、役に立つかという話ではなく、徹底して「痛み」を共有し、神の愛こそがわたしたちを解放し、人生を美しくするものだと伝え続けました。お弟子たちの中には、そんなわかりにくく、まどろっこしいことを言っていないで、早く人々を唸らせたいと急いだ人もいましたが、それこそが「小さな者のひとり」をつまずかせる入り口であることを、イエスさまはご存知だったのでしょう。キリスト教の玄関の中にいるわたしたちもまた、効率と結果に心を奪われるとき、玄関の外にいる「小さな」人々をつまずかせる危険を持つものです。もしわたしたちが神さまの愛に信頼していなければ、イエスさまのメッセージをうわべだけで捉え、まちがって伝える危険があります。神の愛によって生かされていることを、まずわたしたちが心から信じているかどうか、自身に問うことから始めていきましょう。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子
「後を継ぐ者」 2021.9.19
イエスさまから、ご自身が捕らえられ、殺され、3日後に復活すると聞かされた12人の弟子たちは、その意味を理解できませんでしたが、怖くて、尋ねることもできませんでした。自分たちが信じ、すべてを捨てて従ってきた方が捕らえられるなどと考えることは耐え難いこと。それに、まさか殺されるなんて想定外だったでしょう。不安になった弟子たちが旅の道々議論していたのは、自分たちの中でだれが一番偉いかということでした。イエスさまには聞こえていないつもりで…。
イエスさまがおられなくなるようなことがあったら、残された私たちの中の誰かが、イエスさまに代わって、共にやってきたこの活動のトップになるのだろう。ではそれは誰か。頭のよいあの人か、声の大きい彼か、それとも…。いや、イエスさまに一番愛されていたのは…。そんな弟子たちの心を、イエスさまはすっかりお見通しでした。そしておっしゃいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
本当の意味でトップやリーダーになる人というのは、人々を後ろに従えて引っ張って行くというよりは、人々の後から、困っている人を助け、倒れている人を起こし、人々に仕えてゆく人なのでしょう。12人の弟子たちは、イエスさまがなさっていたように人々を助けてはきたけれど、「すべての人の後になる」というイエスさまの姿を、本当に理解することはできていなかったのかも知れません。
誰かに「仕える」という時、もし相手の尊厳を認めていないとすれば、イエスさまがなさったように仕えることはできないのだと思います。あのときイエスさまが「手をとって彼らの真ん中に立たせ」た「子ども」は、少なくとも当時、一人の人間として尊厳を認められていなかった存在です。そのような相手を、一人の尊厳ある人として受け入れ、仕えるときはじめて、イエスさまの後を継ぐ者とされるのでしょう。
牧師補 執事 下条 知加子
「十字架を負う」 2021.9.12
しかも当時、不平不満たらたらで負っていた十字架は、私を支配していた。そこから自由になろうともがくほど、支配の力は増していた。でも私はきっと、様々な節目に恵まれ、無駄にしなかったのだろう。強大な支配力があったそれらは、気がつくと栄養の一部として消化されており、浅薄さと軽率さで勝ち越したつもりが実は逃避であったことを認められるようになると、それらは内省への手がかりとなっていたことに気づく。
だからと言って、今は仙人のように悠々、マイペースで暮らしているとは到底言えない。複数の教会と施設の中を右往左往し、しょっちゅうあちらとこちらを取り違え、緊急の電話がかかってくるかもと怯えつつも、薄氷を踏みながら外出する。鍵と携帯電話があるべきところになくてうろたえ、紛れた書類やメールを発見できず探し物ばかりする。何か頼まれ事をすると、なんだか出来そうな気がして大風呂敷を広げ、それがいくつも同時多発的に重なると、だから言わんこっちゃないと後悔する。もはや自分の十字架が何であったかさえ、忘れている。
できることなら解決して終わりにし、二度と同じ目に遭わないようにしたいような出来事、しかもその重さと圧力に押し潰されそうになりながらも、とりあえずは背負うほかはないような事柄を、人は「自分の十字架」とよぶのかもしれない。そんな十字架は、一刻も早く捨ててしまいたいし、離れてせいせいしたい。またそれがあるから、自分の人生がうまくいかないのだとも思う。しかしそれが本当に「自分の十字架」であったなら、いくら目をそらしても無視しても、存在そのものを消すことはできないし、相変わらずあなたを支配しようと圧力をかけてくるものだ。逃げても、「大したことじゃない」と虚勢を張っても、自分ではなく他の誰かが悪いのだと唱えても、それは相変わらずそこに居る。
それが一体なんのためにそこに在り、いつまで居座るつもりなのか、聞いても答えはない。そしてそれがいつまで続くのかもわからない。でも、逃れようとする気持ちに向き合って、本当のところ、自分はそれをどうしたいのかと問うとき、流れは変わってくるように思う。すぐに「正解」は出せなくても、逃げるのを辞めた時、何かが変わる。そのように信じたい。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子
「エッファタ」(開かれなさい) 2021.9.5
かつて中学生時代から通っていた教会に、ひとりの耳の不自由な方がおられました。彼女は私と同世代でしたが、礼拝後の交わりのときご両親が一緒に座っておられることも多かったです。若者が集っている時、一緒に話をしたいと思って彼女を誘うことがあったのですが、筆談やリップリーディングだけで皆の話のペースについて行くことは難しく、結局彼女を置いてけぼりにしてしまいました。自ずと彼女に声をかけることも少なくなってしまっていたように思います。
今日の福音書で、人々が連れてきたのは「耳が聞こえず舌の回らない人」でした。彼らはその人の上に手を置いてくださるようにと願いました。ところがイエスさまは、「この人だけを群衆の中から連れ出し」一対一の時間を作られたようです。耳が聞こえないことで、この人にはイエスさまについての情報が他の人々よりずっと少しか伝わっていなかったと思われます。どういう人かよくわからない人と二人きりになることは、不安もあったでしょう。イエスさまにしても、初対面の耳の不自由な人とコミュニケーションを取ることは難しかったのではないかと想像します。それでも、いえ、だからこそイエスさまは、この人と正面から向き合い、関わろうとされたのではないでしょうか。人々の願いのように上から手を置くというのでなく、「指をその両耳に差し入れ」「唾をつけてその舌に触れ」たのです。「エッファタ」(すっかり開かれなさい)とのイエスさまの愛の言葉によって、このひとの耳は「開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるように」なりました。
ところで、「エッファタ」は「この人」に向かって語られた言葉ですが、実はすべての人に語られている言葉なのではないかと思います。耳障りのよい言葉は聞くけれど、耳障りの悪い言葉は、聞こえないふりをしたり、聞かなかったことにしてしまう。あるいは、思ったことをうまく表現できなかったり、言いたいことを言えなかったり。そんな私たちが、聞くべきことをきちんと聞き、話すべきことをちゃんと話せるよう、イエスさまは今も私たちに「エッファタ」=「開け」と呼び掛けてくださっています。
牧師補 執事 下条 知加子
「人を見下すことへの警告」 2021.8.29
少し話は違いますが、「十字架につけよ」と叫んだ群衆を止めることが出来ず、ローマ総督ピラトは手を洗いました。死刑執行の権限がありながら、「自分は無関係」という証として群衆の目の前で手を洗ったのは、万が一の場合、自己保身に役立つと考えたのでしょう。一方、福音書のユダヤ人たちは「昔の人の言い伝えを固く守」り、出かけ先と、自宅との境界線をはっきりさせる意味で手を洗っていたようです。でも衛生概念というよりは、しきたりを守る常識人としての、いわゆるパフォーマンスだったのかもしれないと思うのです。
聖書の時代でも、現代のわたしたちも、共同体の中で生きる以上は、ある種の「パフォーマンス」と無関係ではいられないでしょう。大切だから何かを実行しているとは限らず、とにかく「常識のない人」と決めつけられないために、無理をしていることがあるかもしれません。時には心にもない言葉を並べたり、買いたくないものをお付き合いしたりするかもしれません。
でもイエスさまが非難しているのは、そのパフォーマンスそのものではありません。要は中身なのですが、パフォーマンスをしていることを他者に強要したり、あるいはそれに従わない人を「非常識」と決めるつけるのは、自分の立場が「上」だという前提がないと不可能です。尊敬されている律法学者や、地道なファリサイ派の中にも、自らを義とし、他の人を見下す輩は結構いたようです。常識的に生きようと努力している人全てが、そうとは限りませんが、もし他者を見下す視線を持ちはじめたなら、イエスさまはとても心配されます。きっと誰にでもその可能性はあるのでしょう、もしファリサイ派の人々のような態度で何かを決めつけている自分に気がついたら、ハッとするわたしたちでありたいと思います。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子
「神さまはあきらめない」 2021.8.22
8月に入ってから4週続けて「ヨハネによる福音書」を読む暦なので、「いのちのパン」のイメージが繰り返し出てきます。でも、今日の福音書は、「いのちのパン」も重要だけれど、何か変えられない運命のようなものがあって、誰がイエスさまを裏切り、誰が天国に行くのかは、父なる神によってもう決まっているとも聞こえ、こんな話には耐えられないと、たくさんのお弟子がイエスさまから離れ去っていく話です。
わたしたちからすると、イエスさまといつも一緒にいて、働きや言葉を分かち合っていたのに、イエスさまに見切りをつけて離れてなんて、「もったいない」気がしますが、離れて行った人々にとっては、イエスさまに何かちがう期待を持っていたのでしょう。例えば「奇跡」を操れるとか、社会変革ができるとか、期待していた人もいたかもしれません。あるいは、イエスさまを頼りないと感じて離れた人もいたかも。また、よくわからないので、これ以上一緒に居てもラチがあかないと離れた人もいたでしょう。そして、「それよりもっと大事なこと」を優先しようと、心を切り替えて去っていった、ということかもしれません。
でもこれは、元お弟子さんたちだけの話ではなく、「今はそれどころじゃない」と神さまを放置して、他を最優先するような行動をとるのは、日常生活では毎日起きているのかもしれませんが、希望があるのは、キリスト教の神さまは、そんなわたしたちであっても、決して見捨てないということです。イエスさまから離れて行った人々は、そのまま闇の中へと消えるのではなく、恵みと希望に満ちた言葉を再び聞こうと立ち返ってきた時には、神さまは、両手で抱きとめることを躊躇するような方ではない、ということをわたしたちは知っています。自己都合で離れていった人に、二度と戻って来るな、などと言う神さまでもありません。たとえ、多くの人々が離れていっても、その先のことはわかりません。ただわたしたちは、どんな時でも神さまは見守り続け、待ち続けておられることを心に留めていましょう。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子
「日ごとの糧を」 2021.8.15
先々主日から3週に亘って「イエスは命のパン」と題されたヨハネによる福音書のお話(6:22-59)を読んできましたが、今あらためて私は、人間は体を養うパン無しに生きて行くことはできないということを思いめぐらしています。
8月15日は日本では終戦(あるいは敗戦)の記念日として覚えられています。私は先の戦争を直接知ってはいません。けれども、以前母が「戦争の話はいやだ、話したくない」と言いながら時折語って聞かせてくれた苦しい・悲しい・悔しい体験が、私の中に「二度と戦争を起こしてはいけない」という思いを強く起こさせてきたということを、今改めて感じています。
空襲警報が鳴ると大慌てで明かりを消して息を潜めていなければならなかったこと、防)空壕に逃げんだ話、あるいは燃えさかる火の中を母親とともに幼い妹たちを連れて逃げ惑ったというような戦時中の話も聞かされましたが、何よりも強く印象に残っているのは、戦後の食糧難の話です。学校へ行く時にお弁当を持たせてもらえず、仕方なく昼休みには一旦自宅にるのだけれど、帰ったところで家に食べるものがあるわけではない。中学生で育ち盛りだった母はどんなにひもじい思いをしただろうか。私ならとても耐えられないだろう…。戦争は飢えをもたらすものなのだと思いが、心に深くまれました。
敗戦から76年目を迎える今、世界は新型コロナのパンデミックにあってウイルスとの闘いが続いています。平常時にも増して人と人、民族と民族、国と国の助け合いが必要)とされる時でしょう。しかし、このような時でさえ人間同士の戦いが止むことはないようです。むしろ、かえって色々な局面での戦いが激しくなっているようにさえ感じます。そして、そのために今日の食事に事欠いている人々が、どれだけいることでしょうか。
体を養うパンを誰もが得ることのできる世界・社会の実現を願います。「日ごとの糧を今日もお与えください」と、心から祈り続けたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子