Homeメッセージ今週の聖書のお話

今週の聖書のお話

「暗闇からはじまる」 2021.11.28

前にもお話ししたかもしれませんが、イエスさまがおられたユダヤの習慣では、日没後に一日が始まりました。太陽が西の空に沈むと「今日」が終わり、新たな1日が暗闇から始まるのです。朝は必ず来ると知ってはいても、何も見えない闇の時間は、なんとも長く感じられたにちがいありません。時計を持っていない当時の人にとっては、夜は不安がいっぱい、時には恐ろしい時間だったことでしょう。闇の中で野獣の唸り声が聞こえれば身がちぢみ、遠くの方で雷が落ちて谷にこだますればぎょっとして跳ね起きたかもしれない。そんな「一日の始まり」を過ごしたのでしょう。

今日から始まる新年、そして降臨節は、2つの異なるテーマが同時に存在します。一つは赤ちゃんの姿でわたしたちのために生まれてきてくれたイエスさまを迎える準備のとき。もう一つは、世の終わりが来て、今まで曖昧であった正義と不正義がはっきりするための備えのとき。この2つは、まるで違うようにも感じますが、1日の終わりがまず暗闇から始まる生活習慣を伝統として守ってきた人々にとっては、そんなにかけ離れたテーマではなかったのかもしれません。

都会にいるとなかなかピンと来ませんが、夜のとばりの中では、何か困ったことがおきても、おいそれとは助けを求めにくいものです。危機的状況に直面しても、誰かに知らせるのさえ難しいことがあります。そしてそれは、荒れ野や村はずれに住んでいた聖書の人々の生活状況ということに留まらず、今を生きるわたしたちも、同じような難しさを抱えています。困ったことがずっと解決できなかったり、疲労困憊して何も考えられなかったりすると、本当は助けを求めて動かないければならないのに、どうにも声をあげることさえ難しくなります。また、困り切っている自分の状態を誰も知らず、知らせる意味も見えず、さらに自分を追い込むことになります。そんな時のわたしたちは、自分の弱さをいやというほど思い知らされます。それなりにうまく乗り切っている時は、自分の弱さのことは忘れ、ある意味自分をもうまく誤魔化してやりくりしていますが、ごまかしも底上げも通用しない時がやって来た時、本当の自分の姿を見ることになるのです。その時がいつ来ても大丈夫でしょうか。降臨節のメッセージは、もう一度ご自分を見つめ直し、「今の生き方で大丈夫ですか?」という問いに向き合うよう、招いているのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「どういう罪で?」 2021.11.21

“ピラトから尋問される”という小見出しがつけられた今日の福音書の箇所を読むと、イエスという人が、罪と認められることは何一つしていなかったのに、死刑の判決を受けることになったと書かれています。ヨハネによる福音書のその前後を読んでみても、イエスにはっきりとした罪は認められていません。

ユダヤの大祭司カイアファのもとで、何か悪いことをわたしが言ったのならその悪いところを証明しろと言ったイエスは、態度が悪いというだけで平手打ちされ、ローマの総督官邸に連れて行かれます。総督ピラトは、罪が認められないままイエスを鞭で打たせ、兵士たちは茨の冠を頭に乗せます。そして最後はイエスは死刑に、しかも十字架に架けられて公開処刑されることとなりました。


なぜそんなことになってしまったのか。イエスを無き者にしようとたくらんだ人たちがいたのはもちろんですが、沢山のユダヤ人たちが、イエスを「十字架につけろ」と叫んだからです。そして、イエスが殺されることを他人事として傍観していた人々も、彼を死に追いやったといえるでしょう。


今の日本には磔刑(十字架刑)こそありませんが、罪のない人が罪に問われ、死に追いやられることはいくらでもあるように思われます。権力によって、あるいは多くの人の声によって。沢山の人々の叫び声は、出来事の本質を見失わせ、本人やその人を支えようとする人々の声も主張もかき消してしまいます。そして、その人に起きている出来事を他人事として傍観する人びともまた、彼/彼女を死に追いやってしまうのです。

 
年間最終主日(日曜日)の今日私たちに与えられた福音書の物語は、かの幼子が何のために生まれてくるのかということを、あらためて思い起こさせてくれます。来週から始まる教会暦の新年、アドベント(降臨節・待降節)。キリスト・イエスを迎える準備の時として心豊かに過ごすことができますように。       


牧師補 執事 下条 知加子

「ニセモノとの対峙」 2021.11.14

昔々、「エクソシスト」という映画がありました。かわいい少女に何かが取り憑いたので司祭が呼ばれ、悪霊払いのため四苦八苦といった内容だったと思います。でもこの映画では聖書に登場するような「悪霊による心的身体的異常/疾患」の話ではなく、主人公の少女の目つき顔つきが別人のようになり、家族を傷つけ罵り続ける、という怖い内容でした。呼ばれた司祭は、その少女の心身の解放を祈り求めましたが、全然効果はありません。また、時間が経つにつれ悪霊もいろいろと策を練ってくるようになります。まず、親しい友や尊敬する先輩の声音を使い、「そんなことをしても意味がない」と説得にかかります。それでは効かないので、今度は亡くなった司祭の母親になりすまし、諦めるよう泣き落としにかかります。

ところで、今日の福音書が書かれた時代(実際にはイエスさまが生きた時より少し後)は、イエスさまを信じる人々が窮地にありました。ユダヤ教からもローマ帝国からも迫害を受け、みつかれば次々と投獄され、処刑されるような日常で、誰を信じたらよいのか、何をどうしたら状況を変えられるのか、本当に誰もわからない。少しでもわずかでも、今持っているものを失わないように努力する以外、なすすべがありませんでした。そんなときは、生きるために努力をしたり、あれこれと大切な決断しても、無力感に打ちひしがれ、虚しくなります。そんな絶望的な気分になると、ニセモノのスーパースターがあらわれ、少し変だなと思っても、なんだかすべて解決してくれる妄想に皆が取り憑かれてしまい、すがりつきたくなります。

わたしたちも、実は似たような窮地に追い込まれることがあります。どうしたものか苦しみ悩んでいるとき、自分のもっとも弱いところを突いてくる悪霊の声に惑わされそうになります。「これが皆にウケる」「こちらがトク」とささやき、思考停止へと誘導します。ニセモノほど本物らしく振舞いますが、様々な苦難を乗り越えニセモノとの遭遇にひるまず、正しい決断をして来た人には、今度はさらに高度なニセモノが接近して来ます。しかし、惑わそうとする声が勝手にやって来るのではなく、私たちの中にある[欲を求める心]に共鳴して引き寄せられて来るのではないでしょうか。そんな時わたしたちは心を奮い立たせ、主のみ心がどこにあるのか真っ直ぐに顔を向け、神が大切になさりたいことを見極めたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「持っている物をすべて」 2021.11.7

イエスは教えの中で、「律法学者たちに気をつけなさい」と言っています。律法学者と言われている人たちがどんな振る舞いをしていたかというと、「長い衣をまとって広場を歩き回」ったり、「広場で挨拶されること」を望んだり、「会堂では上席、宴会では上座にすわることを望」んでいました。また、「見せかけの長い祈りを」していました。どうしてそういった行いをするのでしょう。それは、人々に見せるために他ならないと思います。人々に見てほしくて、それらのことをしているのです。最近ではマウントを取るという言い方がされたりもするようですが、自分の優位性を相手や周囲に示す行為と言えるでしょう。ついそのような行為をしてしまったり、そんな気持ちが心の中に起こることは、私たちにもあるのかもしれないと思わされます。

一方、レプトン銅貨2枚(100円位?)を賽銭箱に入れたやもめは、その行為を人びとに見てほしくてやったのでしょうか。彼女は「大勢の金持ちがたくさん入れている」中で、それしかささげるものがないことに、肩身の狭い思いをしていたのではないかと想像されます。ですから、目立たないようにこっそりと賽銭箱に入れたに違いありません。それでも、それは彼女の持っている物すべてでした。「生活費」と訳されているbiosというギリシャ語には、“人生”、“生活”といった意味もあります。ですから、“生活のすべてをささげた”と受け取ることもできるでしょう。

列王記上17章に登場するサレプタのやもめは、手元にわずかに残っていた小麦粉と油を食べてしまったら、後は自分も息子も「死ぬのを待つばかり」だと思っていました。ところが、神の人エリヤに、言われたとおりまず小さなパン菓子を作ってささげたところ、「壺の粉も瓶の油もなくなら」ず、食べるものに事欠くことはなくなったのです。

たとえわずかであっても、自分の持っているもの、生活、人生のすべてをささげるとき、神さまはそれを価値あるものとして受けとめ、私たちを豊かに養ってくださるのです。

牧師補 執事 下条知加子

「諸聖徒日」 2021.10.31

キリスト教では11月1日を諸聖徒日(諸聖人の日、万聖節)、11月2日を諸魂日(死者の日、万霊祭)として覚え、記念しています。日本にはお盆(7月または8月)というものがあり、亡くなった先祖をお迎えして供養します。先にこの世を去った人たちを思うという点では同じかもしれないのですが、違っているところもあるように思います。この世を去った人たちと地上にあるわたしたちとの距離感が、その一つではないかと思います。

聖餐式の“感謝聖別”の祈りの中で司祭は「み使いとみ使いの頭、および天の全会衆とともに」と唱えます。それは、地上にある私たちだけで礼拝しているのではなく、天にいる人びとと一緒に祈りをささげているということです。人の地上での命は有限で、いつか必ず死んでその体は葬られ、生きている私たちの目には見えなくなる。けれども、消えて無くなってしまったわけではなく、神さまに招かれてその御許にいるのだという信仰です。

墓地で礼拝する毎に、またご葬儀の度に私は、亡くなった人たちがいるはずの世界、というか空間のようなものをあらためて意識させられます。普段は忘れているものが不意にづいてくるような感じと言ってよいでしょうか。すると、その世界は、どこか遠いところにあるのではなく、見えていないだけで実はいつも私たちのすぐそばに、いつもあるのではないかと思えてきます。そして時に、そちら側に移されて行ったあの人・この人の生きている姿が私に迫ってくることがあるのです。

明日から11月。諸聖徒日・諸魂日を覚えて、関係の各霊園・墓地で逝去者を記念する礼拝がささげられます。今年は残念ながら、感染症予防のため合同礼拝は行われませが、それぞれの墓地においでになる方もおられるでしょうか。死者の月として覚えられているこの月、逝去されたご家族や信仰の先輩たちを思い起こし、み国での平安を祈ります。そして、今一度自分自身を振り返る時として、大切に過ごしてまいりたいと思います。

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイによる福音書 5:11)

牧師補 執事 下条知加子

「靴屋のマルチン」 2021.10.24

年末が近づく気配がすると、どうしても思い出してしまうのがトルストイ原作の「くつやのマルチン」です。文学としてだけではなく、かわいい挿絵の絵本もたくさん出ていますので、きっと一度はお読みなったことがおありかと思います。マルチンは、年取った靴屋さんですが、息子も妻もだいぶ前に亡くなり、喜びも楽しみもないまま半地下の作業場で靴の修理をしてきました。「心の中には悲しい涙がいっぱい詰まっていました」というくだりがあり、もうすでにここでグッと来てしまいます。作業場にしつらえた小さな窓から見える、行き交う人々の足元だけが、マルチンの外の世界とのつながりでした。でも生きている意味もわからなくなっている彼には、それは目に入りません。

ところがある晩の夢で「マルチン、明日行くからね」というイエスさまの声が聞こえます。半信半疑のマルチンですが、さあ翌朝からは、窓の外が気になって仕方がありません。ふと外を見ると雪かき作業に疲れ果て、呆然としているおじいさんがいます。今まではそんなこと考えたこともなかったのに、お茶をご馳走することを思いつき、作業場の中に入ってもらって暖かなお茶でもてなすと、雪かきのおじいさんは「心もからだも温まって」帰っていきます。しばらくしてまた窓の外を見ると、雪の中なのに薄着の女の人が赤ちゃんを抱いて震えています。マルチンが暖炉の前へと招き、スープとパンの残りでもてなし、自分の上着を差し出すと、朝から何も食べていなかったその人は泣き出してしまいます。でも、マルチンがあげた上着に赤ちゃんをしっかりくるむと、元気を出して帰っていきます。そんなこんながあった1日でしたが、イエスさまは来なかったし、やっぱり幻想だったのかと落胆するマルチンに、再びその声は訪れます。「おじいさんも女の人も、それからあの人もこの人も、あれは全部わたしだった」と。

「不幸」ではないけれど、社会の中で「不便な」状況に置かれた人のところへ、イエスさまは真っ先にいらっしゃる。そして、やがてそのことに気がつくわたしたちを待っている、ということなのかもしれません。不便な状態に追い込まれるのは誰でも嫌ですが、でもそうなったのは、自分の落ち度でも、何かのバチが当たったのでもなく、恥じることでもないと聖書は明言します。それこそマルチン本人もまた、生きる意味を見失い、「涙のいっぱい詰まった心」をどうすることもできず、感謝も感動も喜びもない、言わば屍のような毎日を、とても「不便に」過ごしていた一人でしょう。そんな地下室からもっと広い世界へと、やさしく連れ出してくださるイエスさまの物語です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「見ていてください」2021.10.17

昨日は葛飾学園(保育園)のプレイデーでした。昨年に引き続いての感染症予防対策で、競技数を減らし、第1部(0~3歳児)と第2部(4・5歳児)に分けて完全入れ替え制に、観覧席も入場制限ありという、例年とは少し違った運動会となりました。でも、朝からパラついていた雨は開始時刻にはピタッと止んで青空も…。すべての競技が無事に行われました。

保育園の先生たちが、沢山の手をかけ時間をかけ、心をこめて準備してきたプレイデー。こどもたちも一生懸命練習して、本番に臨みました。けれども、お天気も然り、本番では何が起こるかわかりません。乳児クラスでは、普段は上手にできている子が大泣きしてしまったり、予想外にスムーズに競技に参加できていたり。かけっこでは一人の幼児さんが転んでしまって、起き上がって走り始めた途端片方の靴が脱げてしまい、それでもあきらめずに最後まで走り切りました!練習のときには多少の不安が残っていた(?)組体操、本番ではものすごく上手にできました。年長さんの和太鼓も立派でした。沢山のドラマが生まれ、泣き笑いがあり、保護者の方たちも先生たちもきっと、涙が出るくらい感動したのではないかと思います。

私たちの人生においても予想外のことは次々に起こります。念入りに準備して、一生懸命努力したとしても、そうそう思った通りにはいかないのが常ではないでしょうか。想定外のことが起こって慌ててしまったり、もはやどうしてよいかわからなくなり、行き先の見えない暗闇の中に独り置いて行かれたような気持になることだってあるでしょう。そんな時、もし“誰かがわたしを見てくれている”ことに気づいたなら、もう一度立ち上がってみようと思えるかも知れません。

プレイデー第2部の最初に、みんなを代表して4人の年長さんが言ってくれた「はじめのことば」に、「神さま見ていていください」という言葉がありました。「見ていてくれる誰かがいる」というのはどんなに心強いことでしょうか。神さまの視線を感じつつ生きている彼らが、その視線の中にあって、これからも活き活きと生きてゆくことができますように。

牧師補 執事 下条 知加子

「手のひらを開くように」 2021.10.10

小さいときから、清く正しく生きようと、ずっと精進してきた信仰深いお金持ちが、イエスさまに聞きます。「どうしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」この人が聞いている永遠のいのちとはいったい何を指すのか、それも大変気になるところですが、詳細はさて置き、この人はこう言われてしまいます。「行って、あなたの持っているものを売り払い貧しい人々に施しなさい。」するとこの人はがっかりして悲しみながら立ち去っていきます。たくさんの財産を手放す気はなかったからです。

家族や自分のために一生懸命働いて築いた財産なのに、大切に蓄えておいたのに、それを全部吐き出して、世の中の困っている人々を助けなければ、神さまに顔向けできない、と言っているように聞こえたのかもしれません。財産の全部ではなく、一部だけなら施すとしても、自分の分をとって置こうとするのは、いけないことなのでしょうか。

ところでイエスさまは、この質問をした人を「慈しんで」返事をされた、と書いてあります。この人に対する非難の言葉も発していないし、貧しい人に施せないとは残念な人だとも言っていません。むしろ、たくさんの財産を失わないように管理する重圧に耐え、財産があるがゆえに不自由になっているこの人の心をいとおしむように、「何よりもまず守るべきは財産で、そこは変えないままで、可能なら『永遠のいのち』もほしいと思っていませんか?」と言っているように聞こえます。

それは、たいした財産のないわたしたちに対しても、呼びかけられている言葉なのかもしれません。これはさすがに手放せないと思い込み、万全な管理保管をするために、自己犠牲を強いられている事柄。どうせ変えられないからと、今までどおり我慢している事柄。もう今さら変えられないと思い込んでいる人生。そして、情けなく認めたくないような悲しい自分。それらは、ひょっとしたら「変えたくない」という気持ちがどこかにあって、それをイエスさまに見抜かれているのかもしれません。自分を変えるつもりはないけれど、追加で手に入るなら「救い」も欲しい、という思考経路から自由になるようにというお招きなのではないでしょうか。わたしたちが、人に強いられてではなく、自分の意志で手のひらを開き、心を開くとき、今まで見えなかった恵みがそこにあるのが見えてくるのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「結びあわせてくださったもの」 2021.10.3

「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」(マルコ10:2) ファリサイ派の人からのこの質問(というより詰問)は、「離婚をすることは、律法に適っているでしょうか」と聞くのと同じようでいて、実は全く違っています。「離縁状を書いて離縁することを許し」たというのは、女性がひとりで生きて行くことが非常に困難な社会において、主人の身勝手で女性がいとも簡単に放り出されるようなことが平気で行われていたので、せめて公式な離縁状を渡すようにと決められた、と考えられるでしょう。つまり、夫の側が一方的に「離縁する」と言っているのであって、妻の意思や希望は無視されています。

男性(強者)の所有物のように扱われ、軽んじられていた妻(弱者)の人権を、イエスさまは大切に考えておられました。律法というルールを盾にして自分たちの権利を主張する人たち(強者)に対して、イエスさまは、それは神さまのみ心ではないと諭しておられるようです。

「神が合わせられた者を人は離してはならない」(マルコ10:9)という言葉は、祈祷書(現行)の聖婚式文の中で、宣言の言葉に続けて司祭が言うことになっている言葉です。教会の結婚式に何回か出席していると、つい結婚式のための聖書の言葉であるかのように錯覚してしまいそうですが、イエスさまがおっしゃっている「神が結び合わせてくださったもの」というのは、何も結婚という結びつきだけを言っているのではないでしょう。

自分の都合だけで、これは要る、これは要らないと選別することは、物に対してなら構わないでしょうが、少なくとも相手が人ならば、そういう勝手をするべきではない。人との出会いはすべて神さまが用意してくださっているものだと思います。家族、学校や職場、そのほかどんな場であっても、何十億といる人びとの中から、神さまはわたしに今、大切な人と出会わせてくださっているのかも知れません。

「神が結び合わせてくださった」と信じて、一つひとつの出会いを大切にしていきたいと思います。そして、私たちをイエスさまと出会わせてくださったのもまた神さまであることを信じて、この出会いを大切にしつつ歩んで行きましょう。

牧師補 執事 下条 知加子

「小さなもののひとりを」 2021.9.26

礼拝を見たこともなければ、キリスト教に興味を持ったこともない人々と話していると、(聖書ではなく)神話に出てくる天使の名前が出てくるアニメを語り出し、「だから自分はキリスト教をけっこう知っている」とのたまう大人がいることに正直驚きます。そんな時は「あ、そうなのね」と流しますが、その方々にとっては超越的な力を武器にした戦闘シーンが感動的らしく、この怪物はキリスト教で一番えらい!などと強調されると、多少複雑な気持ちになります。

一方、直接宗教に関わったことのない一般的な日本人にとって、「宗教とはお金目当ての活動」というイメージもあるようです。目に見えない「希望」や「信念」を言葉にするのは、何かを誤魔化すためであり、「その背後に何かある」はずなので、人の弱みにつけ込んで金銭的な搾取をするような「宗教団体」の全貌が明らかになると、逆に、変に納得したりもするようです。いずれにせよ日本で宗教/信仰と呼ばれるものは綺麗事であり、心の弱い人や非科学的な思考の持ち主が飛びつくもの、と相場が決まっています。

こうなってしまった原因のひとつには、1995年の地下鉄(日比谷線、千代田線、丸の内線)サリン事件があると思います。「宗教」に洗脳され思考停止した人々はお金のためなら何でも実行、そして反社会的な行動や破滅も厭わないというイメージを広げた事件なのだろうと思います。そして、あのような酷い事が再び起きないためには、宗教や信仰に近寄ってはならず、ある種の自己防衛からか、目に見えない世界を茶化し、心や精神の存在を軽んじるのが安全、という風潮に繋がっているのかもしれません。

でもだからこそ、なのだと思います。イエスさまは徹底して、声の小さな人、社会の果てに押しやられている人、切り捨てられている人のところに身を置きました。何が得か、役に立つかという話ではなく、徹底して「痛み」を共有し、神の愛こそがわたしたちを解放し、人生を美しくするものだと伝え続けました。お弟子たちの中には、そんなわかりにくく、まどろっこしいことを言っていないで、早く人々を唸らせたいと急いだ人もいましたが、それこそが「小さな者のひとり」をつまずかせる入り口であることを、イエスさまはご存知だったのでしょう。キリスト教の玄関の中にいるわたしたちもまた、効率と結果に心を奪われるとき、玄関の外にいる「小さな」人々をつまずかせる危険を持つものです。もしわたしたちが神さまの愛に信頼していなければ、イエスさまのメッセージをうわべだけで捉え、まちがって伝える危険があります。神の愛によって生かされていることを、まずわたしたちが心から信じているかどうか、自身に問うことから始めていきましょう。

管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「後を継ぐ者」 2021.9.19

イエスさまから、ご自身が捕らえられ、殺され、3日後に復活すると聞かされた12人の弟子たちは、その意味を理解できませんでしたが、怖くて、尋ねることもできませんでした。自分たちが信じ、すべてを捨てて従ってきた方が捕らえられるなどと考えることは耐え難いこと。それに、まさか殺されるなんて想定外だったでしょう。不安になった弟子たちが旅の道々議論していたのは、自分たちの中でだれが一番偉いかということでした。イエスさまには聞こえていないつもりで…。

イエスさまがおられなくなるようなことがあったら、残された私たちの中の誰かが、イエスさまに代わって、共にやってきたこの活動のトップになるのだろう。ではそれは誰か。頭のよいあの人か、声の大きい彼か、それとも…。いや、イエスさまに一番愛されていたのは…。そんな弟子たちの心を、イエスさまはすっかりお見通しでした。そしておっしゃいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

本当の意味でトップやリーダーになる人というのは、人々を後ろに従えて引っ張って行くというよりは、人々の後から、困っている人を助け、倒れている人を起こし、人々に仕えてゆく人なのでしょう。12人の弟子たちは、イエスさまがなさっていたように人々を助けてはきたけれど、「すべての人の後になる」というイエスさまの姿を、本当に理解することはできていなかったのかも知れません。

誰かに「仕える」という時、もし相手の尊厳を認めていないとすれば、イエスさまがなさったように仕えることはできないのだと思います。あのときイエスさまが「手をとって彼らの真ん中に立たせ」た「子ども」は、少なくとも当時、一人の人間として尊厳を認められていなかった存在です。そのような相手を、一人の尊厳ある人として受け入れ、仕えるときはじめて、イエスさまの後を継ぐ者とされるのでしょう。 

牧師補 執事 下条 知加子

「十字架を負う」 2021.9.12

私の十字架とは何だろうか。子ども時代、20代、そして司祭按手までの20年間は、神さまから無理矢理背負わされた「十字架」を負ったつもりになっていた。とにかく他のことにはかまっていられないと信じていた自分は、他者のことなどまるで視野になく、自己中心そのままのような生き方だったにもかかわらず、家族が負えないから私が負うしかない、くらいの横柄な心でいたと思う。

しかも当時、不平不満たらたらで負っていた十字架は、私を支配していた。そこから自由になろうともがくほど、支配の力は増していた。でも私はきっと、様々な節目に恵まれ、無駄にしなかったのだろう。強大な支配力があったそれらは、気がつくと栄養の一部として消化されており、浅薄さと軽率さで勝ち越したつもりが実は逃避であったことを認められるようになると、それらは内省への手がかりとなっていたことに気づく。

だからと言って、今は仙人のように悠々、マイペースで暮らしているとは到底言えない。複数の教会と施設の中を右往左往し、しょっちゅうあちらとこちらを取り違え、緊急の電話がかかってくるかもと怯えつつも、薄氷を踏みながら外出する。鍵と携帯電話があるべきところになくてうろたえ、紛れた書類やメールを発見できず探し物ばかりする。何か頼まれ事をすると、なんだか出来そうな気がして大風呂敷を広げ、それがいくつも同時多発的に重なると、だから言わんこっちゃないと後悔する。もはや自分の十字架が何であったかさえ、忘れている。

できることなら解決して終わりにし、二度と同じ目に遭わないようにしたいような出来事、しかもその重さと圧力に押し潰されそうになりながらも、とりあえずは背負うほかはないような事柄を、人は「自分の十字架」とよぶのかもしれない。そんな十字架は、一刻も早く捨ててしまいたいし、離れてせいせいしたい。またそれがあるから、自分の人生がうまくいかないのだとも思う。しかしそれが本当に「自分の十字架」であったなら、いくら目をそらしても無視しても、存在そのものを消すことはできないし、相変わらずあなたを支配しようと圧力をかけてくるものだ。逃げても、「大したことじゃない」と虚勢を張っても、自分ではなく他の誰かが悪いのだと唱えても、それは相変わらずそこに居る。

それが一体なんのためにそこに在り、いつまで居座るつもりなのか、聞いても答えはない。そしてそれがいつまで続くのかもわからない。でも、逃れようとする気持ちに向き合って、本当のところ、自分はそれをどうしたいのかと問うとき、流れは変わってくるように思う。すぐに「正解」は出せなくても、逃げるのを辞めた時、何かが変わる。そのように信じたい。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「エッファタ」(開かれなさい) 2021.9.5

かつて中学生時代から通っていた教会に、ひとりの耳の不自由な方がおられました。彼女は私と同世代でしたが、礼拝後の交わりのときご両親が一緒に座っておられることも多かったです。若者が集っている時、一緒に話をしたいと思って彼女を誘うことがあったのですが、筆談やリップリーディングだけで皆の話のペースについて行くことは難しく、結局彼女を置いてけぼりにしてしまいました。自ずと彼女に声をかけることも少なくなってしまっていたように思います。

今日の福音書で、人々が連れてきたのは「耳が聞こえず舌の回らない人」でした。彼らはその人の上に手を置いてくださるようにと願いました。ところがイエスさまは、「この人だけを群衆の中から連れ出し」一対一の時間を作られたようです。耳が聞こえないことで、この人にはイエスさまについての情報が他の人々よりずっと少しか伝わっていなかったと思われます。どういう人かよくわからない人と二人きりになることは、不安もあったでしょう。イエスさまにしても、初対面の耳の不自由な人とコミュニケーションを取ることは難しかったのではないかと想像します。それでも、いえ、だからこそイエスさまは、この人と正面から向き合い、関わろうとされたのではないでしょうか。人々の願いのように上から手を置くというのでなく、「指をその両耳に差し入れ」「唾をつけてその舌に触れ」たのです。「エッファタ」(すっかり開かれなさい)とのイエスさまの愛の言葉によって、このひとの耳は「開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるように」なりました。

ところで、「エッファタ」は「この人」に向かって語られた言葉ですが、実はすべての人に語られている言葉なのではないかと思います。耳障りのよい言葉は聞くけれど、耳障りの悪い言葉は、聞こえないふりをしたり、聞かなかったことにしてしまう。あるいは、思ったことをうまく表現できなかったり、言いたいことを言えなかったり。そんな私たちが、聞くべきことをきちんと聞き、話すべきことをちゃんと話せるよう、イエスさまは今も私たちに「エッファタ」=「開け」と呼び掛けてくださっています。

牧師補 執事 下条 知加子

「人を見下すことへの警告」 2021.8.29

昨年の2月以来、コロナ禍はわたしたちの生活をすっかり変えてしまいました。手を洗うのも生活の一部となり、買い物から戻ったら、冷蔵庫に食品をしまう前にまず手洗い、着替える前にまず手洗いという毎日。ウィルスに晒されたかもしれない手や持ち物の表面に「長居させない」衛生上の理由から、もはや手を洗うのが「常識」のわたしたちですが、今日の福音書に登場するユダヤ人たちが「常識」とした手洗いは少し意味が違うようです。

少し話は違いますが、「十字架につけよ」と叫んだ群衆を止めることが出来ず、ローマ総督ピラトは手を洗いました。死刑執行の権限がありながら、「自分は無関係」という証として群衆の目の前で手を洗ったのは、万が一の場合、自己保身に役立つと考えたのでしょう。一方、福音書のユダヤ人たちは「昔の人の言い伝えを固く守」り、出かけ先と、自宅との境界線をはっきりさせる意味で手を洗っていたようです。でも衛生概念というよりは、しきたりを守る常識人としての、いわゆるパフォーマンスだったのかもしれないと思うのです。

聖書の時代でも、現代のわたしたちも、共同体の中で生きる以上は、ある種の「パフォーマンス」と無関係ではいられないでしょう。大切だから何かを実行しているとは限らず、とにかく「常識のない人」と決めつけられないために、無理をしていることがあるかもしれません。時には心にもない言葉を並べたり、買いたくないものをお付き合いしたりするかもしれません。

でもイエスさまが非難しているのは、そのパフォーマンスそのものではありません。要は中身なのですが、パフォーマンスをしていることを他者に強要したり、あるいはそれに従わない人を「非常識」と決めるつけるのは、自分の立場が「上」だという前提がないと不可能です。尊敬されている律法学者や、地道なファリサイ派の中にも、自らを義とし、他の人を見下す輩は結構いたようです。常識的に生きようと努力している人全てが、そうとは限りませんが、もし他者を見下す視線を持ちはじめたなら、イエスさまはとても心配されます。きっと誰にでもその可能性はあるのでしょう、もしファリサイ派の人々のような態度で何かを決めつけている自分に気がついたら、ハッとするわたしたちでありたいと思います。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「神さまはあきらめない」 2021.8.22

神さまはあきらめない 

8月に入ってから4週続けて「ヨハネによる福音書」を読む暦なので、「いのちのパン」のイメージが繰り返し出てきます。でも、今日の福音書は、「いのちのパン」も重要だけれど、何か変えられない運命のようなものがあって、誰がイエスさまを裏切り、誰が天国に行くのかは、父なる神によってもう決まっているとも聞こえ、こんな話には耐えられないと、たくさんのお弟子がイエスさまから離れ去っていく話です。

わたしたちからすると、イエスさまといつも一緒にいて、働きや言葉を分かち合っていたのに、イエスさまに見切りをつけて離れてなんて、「もったいない」気がしますが、離れて行った人々にとっては、イエスさまに何かちがう期待を持っていたのでしょう。例えば「奇跡」を操れるとか、社会変革ができるとか、期待していた人もいたかもしれません。あるいは、イエスさまを頼りないと感じて離れた人もいたかも。また、よくわからないので、これ以上一緒に居てもラチがあかないと離れた人もいたでしょう。そして、「それよりもっと大事なこと」を優先しようと、心を切り替えて去っていった、ということかもしれません。

でもこれは、元お弟子さんたちだけの話ではなく、「今はそれどころじゃない」と神さまを放置して、他を最優先するような行動をとるのは、日常生活では毎日起きているのかもしれませんが、希望があるのは、キリスト教の神さまは、そんなわたしたちであっても、決して見捨てないということです。イエスさまから離れて行った人々は、そのまま闇の中へと消えるのではなく、恵みと希望に満ちた言葉を再び聞こうと立ち返ってきた時には、神さまは、両手で抱きとめることを躊躇するような方ではない、ということをわたしたちは知っています。自己都合で離れていった人に、二度と戻って来るな、などと言う神さまでもありません。たとえ、多くの人々が離れていっても、その先のことはわかりません。ただわたしたちは、どんな時でも神さまは見守り続け、待ち続けておられることを心に留めていましょう。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子                                         

「日ごとの糧を」 2021.8.15

先々主日から3週に亘って「イエスは命のパン」と題されたヨハネによる福音書のお話(6:22-59)を読んできましたが、今あらためて私は、人間は体を養うパン無しに生きて行くことはできないということを思いめぐらしています。

8月15日は日本では終戦(あるいは敗戦)の記念日として覚えられています。私は先の戦争を直接知ってはいません。けれども、以前母が「戦争の話はいやだ、話したくない」と言いながら時折語って聞かせてくれた苦しい・悲しい・悔しい体験が、私の中に「二度と戦争を起こしてはいけない」という思いを強く起こさせてきたということを、今改めて感じています。

空襲警報が鳴ると大慌てで明かりを消して息を潜めていなければならなかったこと、防)空壕に逃げんだ話、あるいは燃えさかる火の中を母親とともに幼い妹たちを連れて逃げ惑ったというような戦時中の話も聞かされましたが、何よりも強く印象に残っているのは、戦後の食糧難の話です。学校へ行く時にお弁当を持たせてもらえず、仕方なく昼休みには一旦自宅にるのだけれど、帰ったところで家に食べるものがあるわけではない。中学生で育ち盛りだった母はどんなにひもじい思いをしただろうか。私ならとても耐えられないだろう…。戦争は飢えをもたらすものなのだと思いが、心に深くまれました。

敗戦から76年目を迎える今、世界は新型コロナのパンデミックにあってウイルスとの闘いが続いています。平常時にも増して人と人、民族と民族、国と国の助け合いが必要)とされる時でしょう。しかし、このような時でさえ人間同士の戦いが止むことはないようです。むしろ、かえって色々な局面での戦いが激しくなっているようにさえ感じます。そして、そのために今日の食事に事欠いている人々が、どれだけいることでしょうか。

体を養うパンを誰もが得ることのできる世界・社会の実現を願います。「日ごとの糧を今日もお与えください」と、心から祈り続けたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子

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