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今週の聖書のお話

「祈りの宮として」2024.3.3

  エルサレムという町は地中海から少し内陸に入った所、標高750mほどの所にあります。過越祭が近づいたので、国中から多くの人々がエルサレム神殿へと集まっていました。イエスさまもエルサレムへ上って行かれました。神殿の境内は沢山の人々でごった返していたことでしょう。

  イエスさまが神殿に行かれると、一番外側の境内では、牛や羊、鳩などを売る人たち、また両替人たちが座っていました。牛、羊、鳩というのは神殿にお参りする人々に売るためのものです。人々がそれらの動物を持参した場合、完全で傷がなく汚れが無いかどうか、料金を払って検査を受けなければなりません。そして不合格だったら買い直す必要がありました。また、成人男性は神殿の維持管理のために税金を納める決まりがあったのですが、一般に流通しているローマの通貨はふさわしくないと考えられており、神殿でささげるための銀貨に、手数料を払って両替しなければなりませんでした。

  ヘロデ大王によって46年もかけて大改修された神殿は不必要にきらびやかで、その境内で金儲けが横行している。神と人々を結び合わせ、交わらせる場所であるべきなのに、神と人々を分断するものになってしまっている。それをご覧になったイエスさまは、「私の父の家を商売の家としてはならない」と言って羊や牛を追い出し、商売をしている人たちに出ていけと命じました。それまで当たり前としてきた事を否定され、境内は大混乱に陥ったことでしょう。

  「この神殿を壊してみよ」と言われています。祈りの場であるべき神殿が搾取の場となっている。そんな神殿はない方が良いと。また、ご自身の行かれる先にある十字架をも、イエスさまは思っておられました。私のしていることが気に入らないゆえ、命を奪われるかも知れない。しかし私は三日後に復活する、と。

  私たちの内にも、不必要な装飾、あるいは分断しようとする心が居座ってはいないでしょうか。イエスさまは言われます。混乱に陥るかも知れないが、祈りにふさわしくないものは追い出しなさい、と。私たちの身体が、心が、祈りの宮としてふさわしいものとされるよう、祈り求めてゆきたいと思います。

(ヨハネによる福音書 2:13~22)

牧師補 執事 セシリア 下条 知加子

「いのちを救え」 2024.2.25

  大斎節に入って、まだ2回目の日曜日ですが、今日の福音書は、十字架へまっしぐらです。「自分の十字架を背負って、ついて来なさい」と言われるイエスさまの、その十字架とわたしたちのそれぞれの十字架はケタ違いですが、一方で「自分の命を救おうとする者はそれを失う」と言われたそのすぐ後に、「自分の命を損なって何の得があろうか」とも言われる。「いのち」がかかっているだけに、イエスさまはわたしたちにどうしろとおっしゃっているのか、不安にもなります。

  「十字架」という現実を耳にしたとき、人の思いとして自然かもしれませんが、聞きたくないことを言うイエスさまを、ペトロは止めようとします。そんなことがあなたの身に起きてはならない、自分の身を犠牲にしてでもそれは回避します、くらいのことを言ったかもしれません。でもそれは、イエスさまを大切にしている人の発言のようでいて、実は「そんなことは聞きたくない」という自分の安心を最優先した、不安感を回避する言動だと、イエスさまは指摘されたのではないでしょうか。

  わたしたちもまた、自分の背負いたいものだけを選んで背負い、こんな大変なことを自分は背負わされている、という気分になります。イエスさまを大切にしているようでいて、実は自己保身のための発言や行動をしていることがあります。わたしたちの聖書日課では、「自分の命を救いたいと思う者」とありますが、別の翻訳では「自分自身を救おうとばかり思う人は自分を滅ぼす」となっています。つまり、神さまが優先ではなく、他の人を思いやるためでもなく、(本人は気がついていないかもしれないけれど)自分の立場や気分の安定第一のため、あたかもイエスさまを大切にしているような行動をとって見せること、それに対してイエスさまは「サタンよ、引き下がれ」と言われたと思うのです。自分の命を守ろうとすることがいけないのではなく、命を守るフリをしながら、実は自己保身を優先する欺瞞について、イエスさまは指摘しているのではないでしょうか。このみ言葉に留まり、わたしたちが真に神さまと人々を大切にすることができるよう、願い求めましょう。それこそが、神さまからいただいた「命を守る」生き方なのではないでしょうか。

(マルコによる福音書 8:31~38)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「どこに立つ」2024.2.18

  大斎節第1主日(本日)の特祷(主題的祈祷))は「四十日四十夜、わたしたちのためにみ子を断食させられた主よ」という呼びかけで始まっています。この日には、イエスさまが四十日四十夜(四十日間)断食されたこと、その間、またその後に“サタン(試みる者、悪魔)から試みを受けられたという物語が読まれます。マタイ(A年)とルカ(C年)ではその“試み”の部分のみですが、今年(B年)読まれるマルコではその部分が大変短くまとめられていて、その前のイエスさまが洗礼を受けられる物語が一緒に読まれることになっています。

  イエスさまはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられましたが、この洗礼(バプテスマ)は「悔い改めの洗礼」であると記されています。悔い改めというのは、自分の行なったことを悪かったと反省して二度とそのようなことをしないようにと考えたり、もうしませんと誓ったりすることではありません。物事を見る視点、あるいは自分の立ち位置(視座)を変えることです。

  先日保育園の3階ホールでお遊戯会が行なわれ、沢山の保護者が参観に見えました。それぞれ事前のインフォメーションを参考にしながら、自分のお子さんがよく見える場所に座ろうと工夫されていました。しかし、同じ時間と空間にいても全く違う景色を見ていた人がいます。舞台に立っている子どもたちから見えていたのは、舞台ではなく客席(お家の人たち)です。舞台袖で出番を待つ子どもたちや裏方の職員たちはまた全然違う景色を見ていたはずです。

  そのように、その人の立つ場所によって物事の見え方は全く違ってきます。洗礼の折、地面の最も低い所を流れる川のその中に身を沈めた時に聞こえてきたのが、「あなたは私の愛する子」と言う声でした。最も低いところに向けられる神さまの愛を改めて知ったイエスさまは、荒野へ導かれて試みを受けられ、ガリラヤでの宣教へと押し出されてゆきました。

  大斎節の初めの主日、私たちは今どこに立っているのでしょうか。そのことをあらためて確認しながら、この期節を過ごしてゆきたいと思います。

(マルコによる福音書 1:9~13)

牧師補 執事 下条 知加子

「理解できないことの前で固まらない」 2024.2.11

  夏にも登場する「変容貌」(姿かたちが変わる)の話で、この物語はヨハネ以外のすべての福音書に登場します。現代のわたしたちにとっては難解でも、当時の人々には、どうしても外せないことだったのかもしれません。それにしても、説明もなしに突然エリヤとモーセが現れ、イエスさまと何事か語り合う。そうかと思うと眩しいほどの白さが強調される。そしてあわてふためくペトロが「小屋を3つ建てる」と口走り、イエスさまの洗礼のときと同じような「これはわたしの愛する子」という声が響く。なんだか疑問や不可解なことばかりが目につきます。

  しかし、そもそもイエスさまの誕生も、その死と復活も、客観的には不可解なことです。そしてわたしたちに聖書が与えられているのは、よくわからないことを鵜呑みにするためではなく、その中に込められた「神さまがわたしたち人間に伝えたいこと」のエッセンスを受け取るためです。「不思議なこと」のエピソード一つ一つは文字通りそうだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。でもわたしたちがすべきことは、よくわからない事柄の前で固まって進めなくなることではなく、神さまが伝えたいことの核心を読みとることなのだと思います。

  イエスさまがこの世に来たのは、「十字架にかかる」ためでした。充実した青春を送るためでも、家族との楽しい時間を過ごすためでもなく、十字架の上で死ぬために来たのです。その特別な出来事は、ひとりの人間としては「惨敗」ですが、そこには1ミリのブレもなく、神さまの計画が実行された、何ひとつ間違ったわけではない、とはっきり告げる必要があったのでしょう。

  わたしたちの毎日の生活の中でも、何のために起きているのか、よくわからない出来事があるかもしれません。とくに、何故だか事がうまくいかないときは、自分を惨めに感じたり嫌な気持ちになったりします。でもそれは自分の基準だけが大きく支配している決めかもしれません。ずっとあとになってから「ああ、こういうことだったのか」と納得することも含めて、神さまの大きな計画の中で、その出来事が何だったのかと俯瞰する視点を失わないでいたいと思います。

(マルコによる福音書 9:2~9)

牧師 司祭 上田亜樹子

「イエスさまが触れてくださる」 2024.2.4

  イエスさまと弟子たちがシモンとアンデレの家を訪ねました。その時、シモンのしゅうとめが高熱で寝ていることをその家の人々がイエスさまに伝えました。きっとかなり具合が悪く、イエスさまに助けていただきたいと思ったのでしょう。それを聞いたイエスさまは彼女の寝ているところへ行き、その手を取って起こされました。すると熱は下がり、「彼女は一同に仕えた」と記されています。

  だいぶ前のことになりますが、神学院在学中、主日勤務実習をしていた時に入院中の信徒の方のお見舞いに同行させていただいたことがありました。長く病床にあった様子の、初対面の年配の男性に、私はどんな言葉をかけてよいか分からずに戸惑っていました。しばらくの沈黙の後、思わずその手を取らせていただいたのですが、それまで大儀そうに横になっておられたその方は私の手をぎゅっと握りしめ、ご自身の身体をぐっと起こされました。そしてしっかりとした声で「ありがとうございます」と おっしゃったのです。ただ手を握るという行為が、病に臥せっている方をこんなにも元気づけることなのかと驚いたことを、今も鮮明に覚えています。

  イエスさまの時代、ユダヤ教の教えでは、病気の人はけがれている、触れてはいけないとされていました。人々が触れてはならないと思いこんでいるもの/ことがらに、常識を超えて触れること。そのことのなかに救いが訪れるということがあるように思います。イエスさまが触れてくださったことは、このしゅうとめにとって大きな驚きであり、思いがけない喜び(福音)でした。熱が下がって体調が回復しただけではなく、彼女は「一同に仕えた」、つまりイエスさまの弟子となり、奉仕する人となってゆきました。

  イエスさまの働きは、会堂で教えること、悪霊を追い出すこと、病気の人を癒やすこと、そして宣教すること(福音を宣べ伝えること)。「私はそのために出て来たのである」と言われています。イエスさまの愛に触れ、その行いに学び、常識(自分(たち)の思い込み)を超えてイエスさまに倣ってゆく道を模索して行きたいと思います。

(マルコによる福音書 1:29~39)

牧師補 執事 下条 知加子

「『汚れた霊』の不得意なこと」 2024.1.28

カトリック教会には、ちゃんと免許を交付されたエクソシスト(悪魔払い師)という人がいるそうですが、今日の福音書のイエスさまはまるでエクソシストです。会堂で教えておられると、汚れた霊の方からイエスさまに近づいてきます。イエスさまを自由にさせておくと、我が身の安全が図れないと察知したのか、「関わらないでくれ」とわざわざ言いに来て、整合性のないことを次々語ります。

電車の中や公共施設でも、こういった人を見かけることがあります。「汚れた霊に取り憑かれている」かどうかは、外見からはわかりませんが、問題は中身です。精神疾患あるいは障害があるということとは別の、しかし本人がどうすることもできない何か大きな力に支配されていて、最初は窮屈だと感じている様子です。しかしながら、怒りや妬みなどのネガティブな支配力にせよ、普段の自分にはないパワーが存在する感じに慣れてくると、今度はそれを手放したくなくなってくる、そしてさらに闇の力に支配されていきます。

イエスさまは「黙れ」と、怒鳴り声で威圧した訳ではなく、悪魔祓いによく用いる「静かになりなさい」という言葉で、汚れた霊に語りかけられた。しかし心を「静かにしている」ことができない悪霊は、そこに居られなくなり出ていってしまったという事の次第なのでしょう。別の聖書の箇所に、部屋の中に悪霊が住みついたので、綺麗に掃除をして出て行かせた。しかし掃除をしただけで、中身については何の対策もしなかったのでそれを見つけた悪霊は、さらにたくさんの仲間を引き連れて住み着き、前よりもっとひどい状態となった、というお話があります。悪霊が居場所を探して、言い方を変えればわたしたちの心の雑音を探して、いつもうろうろしているのは、特殊なことではないでしょう。常にあれもこれも、より便利な、有利な、得する日常をゲットしようと、雑音をたくさん抱えている人は、ひょっとすると大きな危険に晒されているかもしれません。わたしたちに必要なのは、権力や他を圧倒する支配力ではなく、神さまの存在に耳を澄ませ、そこから聞こうとする「静かにしている」心です。

(マルコによる福音書 1:21~28)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「呼びかけに応える」2024.1.21

イエスさまの12人の使徒のうちの半分位は漁師であったと思われています。イエスさまが多くの時間ガリラヤ湖周辺で教えていたからなのでしょう。最初に弟子になったのも漁師たちでした。

漁師というのはきつい仕事で、当時の最下層の職業の一つであったと言われています。イエスさまが弟子にした人たちは、人々から尊敬されるような職業の人というのではなく、どこにでもいる人、そしておそらく生きることの苦労を多く知っている人だったのではないでしょうか。

イエスさまは、シモンとその兄弟アンデレに「私に付いて来なさい」と呼びかけました。二人は湖で網を打っていましたが、「すぐに」網を捨ててイエスさまに従いました。たまたま彼らを見かけたから声をかけてみたということではなく、きっとイエスさまは、二人の救いを求める心を見通されて、愛をもって彼らを呼ばれたに違いありません。網を捨てたというのは、漁師であることを辞めた(捨てた)ということではなく、この時は漁をすること(日常)よりも大切なことに気づいて、イエスさまのところへ行かざるを得ない気持ちになったということだと思います。

次にイエスさまは、ヤコブとその兄弟ヨハネが船の中で網の手入れをしているのをご覧になって、「すぐに」彼らを呼ばれました。イエスさまはこの二人の心を見通されて、ご自分の方へ呼ばなければ!という思いとなり、急いで声をかけたのでしょう。二人は父と雇人たちを船に残して、イエスさまについて行きました。この漁師たちがイエスさまの弟子になったのは、決して偶然ではなく、必然だったと思うのです。

イエスさまは私たちの日常の中に現れてくださいます。そして私たちの、言葉にならない心の叫びを、見て、聞き取られて、私たちに声をかけてくださるのです。生きることの困難や苦痛に苛まれているときこそ、イエスさまに出会う時なのかも知れません。そしてイエスさまは「共に歩もう」と呼びかけてくださいます。

私たちの心は弱いので、一度呼ばれて付いて行く決心をしても、すぐに迷い、揺らいでしまいます。それでも招き続けてくださるイエスさまの声に、今日も応えてゆきたいと思います。

(マルコによる福音書 1:14~20)
 
牧師補 執事 下条 知加子

「主よ、どうぞお話しください」 2024.1.14

サムエル記という書があります。サムエルは人の名前で、ダビデという王さまの時代に活躍した預言者です。元々は1つの書として編纂されましたが、現在は、上・下2巻に分けられて、旧約聖書の中に納められています。サムエル記上は、サムエルの生い立ちから話が始まります。

昔々(紀元前千年頃と推定されています)、エフライム山中にエルカナという一家が住んでいて、ハンナ(「恩恵」という意味)と、ペニンナ(「真珠」という意味)という二人の妻がいました。ハンナにはこどもがいませんでしたが、エルカナからとても大事にされていました。その様子に、社会的優位(こどもが多い)にもかかわらず、自分より尊重されるハンナを妬み、ペニンナは機会あるごとにハンナをわざと傷つけました。シロという場所へ礼拝をしに行く恒例の家族旅行でも、毎年ハンナを苦しめました。ハンナは耐えきれず、会食の席を立って、礼拝所の入口で祈りながら激しく泣いているとき、祭司エリと出会います。ハンナは、男の子が生まれたなら、その子は神に捧げる、と祈りの中で神さまと約束します。

それから数年経って、ハンナに男の子が生まれました。乳離れすると、約束通りその子を連れてシロへ行き、祭司エリに預けます。その幼児がサムエル(「神は聞かれる」という意味)です。祭司エリは神に仕える人でしたが、その息子たちは祭司であるにもかかわらず、ならず者でした。人々からの神への捧げものを横取りし、その他諸々神を軽んじる行動を恥じない人たちだったのです。エリは、口頭での注意はするものの、息子たちから祭司職を剥奪するなどの行動はとりませんでした。

そんなことが常態化し、数年が過ぎた頃の話です。いつものように、神の箱が安置されている主の宮で、夜の眠りについたサムエルを起こす声が聞こえます。サムエルは、祭司エリが呼んだのだと思い、走ってエリの部屋に行くと「私は呼んでいない」と言われてしまい、また自分の寝床に戻ります。そんなことが数回あってから、祭司エリははたと思い当たり、その声がまた聞こえた時は、「お話ください、僕は聞いております」と答えるよう指導します。さて、サムエルがそのように応答すると、その声はエリ一家に対して裁きを下すことを予告します。エリにお世話になっているサムエルとしては、それはとても辛い内容で、伝えることをためらいます。なぜなら、エリの祭司としての苦悩と、息子たちの行状を止められない父親としての苦しみと、しかしそれをどうにも変えられない痛みを知っていたからでしょう。しかしエリに促されてその内容を伝えます。

やがてサムエルは、必ずしも真実を聴きたいとは思っていない人々に対し、聞くこともためらわれ、伝えることもためらわれるような、しかしどうしても神さまが伝える必要のある言葉を預かり、それを告げる「預言者」となっていきます。わざわざサムエルが言葉を預からなくても、直接、本人に伝えればいいのではないかとも思いますが、このエリのように、「わかっていても、どうにも止められない」「このままではいけないと知りながら、どうしても変えられない」状況もあるのだと思います。そんなとき、諦めて放置するのではなく、預言者を用いてでも何とかして伝えようとする神さまのあたたかさを、裁きの中でさえ感じます。

わたしたちもまた、聴きたくないこと、避けて通りたいことは、たくさんあるでしょう。たとえ時が止まったように、そのまま事が流れていたとしても、神さまは決してわたしたちを諦めたり放置したりならさないことを覚えたいと思います。そしてわたしたちにできることはただひとつ。「主よ、どうぞお話ください。しもべは(辛いけれど)お聞きします」と応えることではないでしょうか。

(サムエル記上 3:1~20)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「水に浸されて」 2024.1.7

先日、私たちの教会で久しぶりに洗礼式が行なわれました。受洗する人の額に司祭が水をかける、いわゆる滴礼で行なわれたのですが、浸礼と呼ばれる全身を水中に沈める方法で洗礼が行なわれる教会もあります。もしかしたら、川で洗礼を受けたという人もいらっしゃるかもしれません。

イエスさまはヨルダン川で洗礼を受けられました。この時、イエスさまは全身を水中に沈められたわけですが、洗礼を授けたヨハネも共に川の中にいて、腰あるいは胸のあたりまで水に浸かっていただろうと思います。洗礼を受ける者が水の中に沈められて再び起こされる、その姿を想像しますと、洗礼-過去の自分に死に、新たに生き始める-という出来事のプロセスは、孤独のうちに過ごすことではなく、そこには必ず同伴者がいるのだということを思わされます。

罪のない方であるにもかかわらず洗礼を受け、その姿を私たちに見せてくださったことの中でイエスさまは、あなたは一人ではない、どんな苦しみのなかにあろうとも、新たに生き直そうとするならば必ず共に生きてくれる人-同伴者-が与えられるということを知らせようとしてくださったのかも知れません。

ヨハネは「私は水で…洗礼を授けたが、その方(イエスさま)は聖霊で洗礼をお授けになる」と言っていますが、洗礼の元の言葉「バプテスマ」は、水に浸すという動詞から来ています。この頃は霊も液体のようなものとして捉えられていました。水に浸されれば着ている服に水が染みていくように、霊に浸された人には霊が染み込んで行くという感じでしょうか。洗礼を受けた人にはきっと、神さまの霊が少しずつ染み込んでゆくことでしょう。

イエスさまが洗礼を受けられた時に天から聞こえた「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声は、イエスさまだけでなく、私たちにも向けて語られています。
私たちをありのまま愛し、決して一人ぼっちにはされない神さまの愛を、イエスさまの受洗を記念するこの日にあらためて想い起こし、どうかその愛が私たちに染み込んで来ますよう、願い祈ってゆきたいと思います。

(マルコによる福音書 1:7~11)


牧師補 執事 下条 知加子

「証しする人に」2023.12.31

  今日の聖書では、ヨハネについて書かれている短いみ言葉の中に、証しという言葉が4回使われて、ヨハネが「証し」をするために来たことが強調されています。

  ところで、み言葉は「初めに言(ことば)があった」…「言は肉となって、私たちの間に宿った」と語られてゆきます。この「言」はイエスさまを指していますが、本来は“ことば”として神さまの教えを抽象的に示すものでしょう。

  神さまは、どう生きるべきかを私たちに教えたいと思っておられました。ただ教えるだけであれば、聖書なりを通して、上から「教え」として私たち人間に示すだけでもよかったのではないかと思うのです。しかしこの「言」は「肉」=人間と同じ、肉体を持つ人となって、私たちのところへ降って来られました。あたたかい身体、傷つけば血が流れる肉体、そして人間が感じる痛みや悲しみを、私たちが感じるのと同じように感じられる人としこて来られたのです。

  神さまの教えは、互いに隣人として生きること。他の人のため、自分の生・ 命を、犠牲にして生きることです。それがどういうことか、どういう生き方であるか、イエスさまは、 私たちのために死ぬという姿で、身をもって示してくださいました。このイエスさまの愛をこの上ない喜びとして受け、証ししてゆきたいと思います。

  教会の玄関に「証しと奉仕」という標語が掲げられています。証しは私たちキリスト者=キリストに出会った者に託された使命です。しかし、捕らえられて殺されてしまったヨハネの生涯から、また他の使徒たちや多くの殉教者の姿からも、証しすることは危険を伴うこと、ときに命がけで行われることであることを思わされます。

  今の社会の中でも、正しいと思うことを言ったり行ったりすることは、たやすいことではないと思います。けれども、私たちは諦めずに歩んでゆきたいと思います。

私たちの間にイエスさまは生まれてくださいました。どうか私たちに、証ししつつ進む勇気と知恵が与えられますように。そして、神さまのみ心が行われる社会の実現のために、私たちが「証し」する人として生きてゆくことができますよう、祈り求めてゆきたいと思います。

(ヨハネによる福音書:1章1~18)

牧師補 執事 下条 知加子

「マリアの決断」 2023.12.24

クリスマスを待つ季節の締めくくりの福音書は、マリアと天使ガブリエルのやりとりです。冒頭でいきなり「六ヶ月目に」と始まりますが、これはマリアの話ではなく、この箇所の直前に天使ガブリエルがザカリアを訪問し、妻エリサべトの懐妊を予告していますが、その出来事から6ヶ月を経た、という意味です。つまり胎児が安定し、生まれることがほぼ確定してから、次にガブリエルはマリアに会いに行きます。神が計画したことなのだから呑みなさい、という一方的な宣告ではなく、多少の行き違いはあっても、段取りを踏んだ丁寧な進め方という印象です。

一方、マリアに対しても神の計画のゴリ押しはしていません。ガブリエルとマリアのやりとりが、どのくらい時間をかけたものなのか、聖書は記していませんが、最終的にマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と言うまで、ガブリエルは去りませんでした。しかもマリアは、反論の余地なく、恐怖のあまり承諾するしかなかったという筋立てではなく、後にマリアが「マリアの賛歌」で表現するように、何に対してこれから立ち上がることになるか、よく理解した上でその運命を引き受けたことを表しています。これから、人々の無理解と蔑視の視線、そして大きな社会的圧力の中で、戦い続ける人生を覚悟する必要がありましたが、そのことに対しての「お言葉なら」というマリアの返答であったわけです。

彼女は若い女性として、ここに至るまで、どんな祈りを捧げてきたのでしょうか。想像するのは、他国の支配に苦しみ虐げられている人々、孤独な人々に心を痛め、マリア自身もその中のひとりであったにもかかわらず、より良い社会のために何ができるだろうかと、模索する祈りであったかもしれないと思うのです。マリアにとっては、確信とともに「祈りが聞かれた」とはいう気持ちにはなれなかったかもしれませんが、思うところがあって、何が起きても神に信頼しようと腹をくくった。神さまに祈った結実が、マリアの想定していたこととかけ離れていても、マリアは神さまに信頼し、そこに生涯をかけて取り組もうと、彼女自身の意志で決断をしたその瞬間だったのではないかと思います。

(ルカによる福音書 1:26~38)


牧師 司祭 上田 亜樹子

「喜んでいなさい」 2023.12.17

本日はローズサンデー(喜びの主日)と呼ばれ、アドベントクランツもローズ(バラ)色のろうそくを灯します。降臨節の祭色は紫(償い、回心、節制、待つこと等を表わす色)ですが、今日だけはそのトーンが少し弱まり、喜びのときが近づいていることが示されます。

昨日は保育園のクリスマス会で、4・5歳児によるキャンドルサービスとページェント(降誕劇)が行なわれました。多くの讃美歌(聖歌)が用いられましたが、歌詞もしっかり覚えていてすごい!と思うくらい沢山の歌を、可愛らしい素敵な声で歌ってくれました。真っ暗なホールで大勢の保護者参観の中で緊張していただろうと思うのですが、こどもたちの歌声がひときわ明るく響いていたことが印象的でした。こどもたちの“喜び”がその場を共にしている人々にも伝わって、私もの心にも明るい光が灯されました。

今日読まれた使徒書は「いつも喜んでいなさい」という言葉で始まります。(Ⅰテサ5:16) 〇〇だったら喜ぶ◇◇したら喜ぶ、というのではなく、「いつも」喜んでいるというのは容易くできることではありません。私たちの目はどうしても、辛いこと、苦しいことに向いてしまいがちです。うまくいかないこと、失敗したと思うことが気になれば、とても喜ぶなどという気にはなれないでしょう。でも実は、目に見えている負の出来事がすべてなのではなく、いつも大きな愛に包まれていることに気づいているでしょうか。

昨日のクリスマス会でこどもたちは、うまく歌えたから、言葉が上手に言えたから喜んでいた、というのではなく、歌っていること、劇をしていることそのもの、そしてその場に居られること自体が嬉しいようでした。イエスさまが一緒にいてくださるから喜ぶことができた、そんな一時を経験したのだと思います。

クリスマス。それは、今ここに在ることの恵みに気づき、愛されていることをあらためて知る時なのではないでしょうか。どうか、苦しみ・悲しみの中にあっても、イエスさまが私たちと共に居るために来ようとしてくださっていることを思い起こし、今日を喜びの日とすることができますように。  

(テサロニケの信徒への手紙 一 5:16~28)

牧師補 執事 下条 知加子

 

「神さまの愛は注がれる」2023.12.10

  バプテスマのヨハネと呼ばれる人物の話をしましょう。その人は、必要最低限の衣食(住まいはなかったかもしれない)を得るだけの毎日に満足し、生活のほとんどの時間を、人々に「悔い改め」を呼びかけ、目に見える赦しのしるしとしての「洗礼」をほどこしていた、そんなふうに聖書には記しています。

  もっとも「洗礼」という儀式そのものは、バプテスマのヨハネのオリジナルではなく、この時代のいわば「世直し運動」のような流れの中で、あちこちで行われていたようです。外国人や他宗教の信仰者が、ユダヤ教に改宗する際に「穢れ」を清めるといった象徴的な意味で、また、ユダヤ人共同体から離れていた人々が立ち返る場合、などに洗礼は施されました。

  ユダヤ教の律法や掟は、神さまとの関係を健全化するために与えられたものなのに、指導者たちはそれを自分たちにとって都合のよい解釈へと歪め、声の出せない社会的弱者は神の恵みの対象外として潰してもかまわない、律法さえ守っていれば、心の中がどうであれ神の救いは保証される、と強調されるようになります。そんなユダヤ教に対して危機感を持ち、神への信頼に立ち返ることを呼びかけた「洗礼」は、バプテスマのヨハネのオリジナルだったかもしれません。

  現代のわたしたちにとっての「洗礼」は、「自分の罪を告白し、悔い改めて罪を赦される」という側面よりは、「神さまはわたしを大切にしてくださっている」と信じて、そのことを命懸けでもたらしてくれたイエス・キリストに信頼し、キリストの薦める生き方に加わりたいと公言する、という要素が強いです。とは言え、バプテスマのヨハネが広めた洗礼と、今、わたしたちが教会の中で行う洗礼式とは、それほどかけ離れたものではないとも思うのです。

  ヨハネの時代は、律法を守ることができる恵まれた人が、 神さまに愛されるに相応しい者だという理解が横行し、律法学者や祭司たちは、その理解を利用しました。彼らが掌握している力関係をより強固なものにするため、献金や貢ぎ物を強制し、何よりも律法を優先するのがユダヤ教。そんなふうに神さまの愛からは、どんどん離れていく結果となりました。

  当時は律法が神にとって代わっていましたが、現代では「人にどう思われるか」が、神の座にいるのではないかと私は思うのです。自分の行動基準の根源に「人から非難されたくない」という無意識の「信仰」が居座っている場合、神の愛はないがしろにされていく危険をはらんでいます。

  聖書の言う「罪」とは、「本来の道から外れた、まとはずれな生き方」のことですが、それは、名前がつけられるような犯罪や間違いだけではなく、見当違いの言動や、善意ではあるものの本来の意味や目的を取り違えて、どんどん道からズレしまう生き方も含みます。わたしたちの生活の中心に神さまがおられず、人の目(自分の目も含みます)を一番大切にして、その都度やり過ごすような「的はずれ」な行動を、もしわたしたちがとっていたら「神への信仰に立ち返るように」と、バプテスマのヨハネは呼びかけます。それは、わたしたちが何も貢献出来ない状態でも、どんなに情けなくなくても、あまりにひ弱であっても、神さまの愛は注がれ続けることを信じる信仰です。見かけや言葉化できる善行にすがるのではなく、神さまへの真の信頼を取り戻したいと思います。

(マルコによる福音書 1:1~8)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「確かなもの」 2023.12.3

今日からアドベント(降臨節・待降節)に入りました。クリスマス(12月25日)を迎える準備をする期節です。アドベントは到来という意味を持つ言葉。美しく飾られたアドベント・クランツの4本のろうそくに、日曜日毎に1本ずつ火を灯しながら、救い主イエスさまのお誕生を待つのです。 

ところで、今日読まれた短い聖書に「目を覚ましていなさい」という言葉が3回も出てきます。(マルコ13:33~37) あなたがたは、家を後にして旅に出る主人から仕事を託された僕たちのようなものである。主人は、門番にはいつでも目を覚ましているように言いつける。いつ家の主人が帰って来るかあなたがたは知らないのだから、主人が突然帰って来ても良いように目を覚ましていなさいというのです。 

いつも目を覚ましているというのは、もちろん、眠らずにいなさいという意味ではありません。私たちの心の目を覚ましているということです。では、私たちが門番だとしたら、何に目を配るようにというのでしょうか。それは、この世界の現実をしっかりと見るように、社会の不正や不正義を見過ごしにしないように。自分たちの不正にも目をつぶらないようにしなさい、ということではないでしょうか。 

また、このイエスさまの言葉は、オリーブ山の上からエルサレムの神殿に向かって語られた説教の締めくくりとなっています。「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」との言葉があるように、人々がその立派さに見とれるような神殿でも、本当に頼りになるものではない。目に見える、滅びゆくものではなく、目には見えないけれど確かなものは何か、目を凝らしてよく見なさいと言われているようでもあります。 

一人の幼子が家畜小屋で生まれました。多くの人が気にも留めないような小さな出来事でしたが、そこに遣わされた「言葉」は真実でした。その出来事の確かさを見過ごしにせず、この喜びを世界に伝えてゆく者として神さまから託された責任を思いめぐらすアドベントを過ごしてゆきたいと思います。

(マルコによる福音書 13:33~37)

牧師補 執事 下条 知加子

「あなたのところに行くからね」2023.11.26

  教会の暦の上では、次の日曜日から新しい一年が始まるという、大晦日にあたる今日。読まれる聖書の箇所は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というお話です。クリスマスが近づくと思い出す絵本や童話というのは、皆さんもたくさん心に浮かぶことと思います。私にとっては、この聖書を聞くと、トルストイの「靴屋のマルチン」が真っ先に浮かんでしまうのです。よく知っておられる方もおられますが、まずそのストーリーをご紹介します。

 マルチンは年取った靴屋さん。半地下にある仕事部屋で毎日一生懸命働いています。でも、心の中は悲しい涙でいっぱい。それは、パートナーもこどもたちもみんな亡くなってしまい、マルチンひとりが残されたからです。寂しさと絶望感に、マルチンの心はまるで埋もれた半地下のよう。小窓からの景色は、見えるには見えるけれど関係のない世界でした。ある晩、いつものように聖書を少し読んでから眠りにつくと、なんと夢の中でイエスさまの声が聞こえます。それだけでもびっくり仰天でしたが、その声は「明日行くからね」と言うのです。「行くからね」とは確かに聞いたけれども、単なる自分の願望?いやいやひょっとしたら本当に来られる?どうやって?と落ち着かないマルチンです。

  朝になると、今まで興味がなかった小窓の外が気になり始めました。朝から雪かきをしているおじいさんが目に入りました。疲れ果てて寒くて震えています。思わずおじいさんに声をかけてお茶をごちそうします。次に赤ちゃんを抱えて家を飛び出してきた女の人が目に留まりマルチンは自分の上着と朝ご飯の残りを差し出します。そして今度はこどもです。その子は確かに盗みをしたのですが、事情を聞こうともせず愛のない方法で一方的に叱られています。マルチンが割って入り一緒に話をしているうちに、両者がやさしい気持ちを取り戻して帰っていきます。

 ここに登場するおじいさんや若いお母さんや男の子にとっては、マルチンこそがイエスさまだったかもしれません。途方に暮れ、世の中の誰も味方になってはくれず、自分は神に見捨てられていると確信したそのときに、必要なものを与え、寄り添ってくれる存在は、まさに神そのものに感じられたことでしょう。しかし、お茶や食事や上着が与えられることが重要なのではなく、途方に暮れているその人々に、イエスさまはすでに寄り添っておられる、その事実にわたしたちが気がついたとき、人生の視点が根こそぎ変わっていくのではないでしょうか。毎日が涙と悲しみと寂しさで手一杯だったマルチンは、夢の中の「行くからね」のひと言で、「すでにイエスさまが寄り添っておられる人々」へと目が開かれていきます。

 こども食堂やフードパントリーやその他の活動が行われること、そして互いを理解しようとする輪が広がっていくことは、決して「良い人ぶって」いるのではなく、すでにイエスさまがその人と共に働いている、というとてもシンプルな事実に気付かされていくことです。そしてわたしたちもどんなときでも(ことに人生最悪のとき)、決してひとりぼっちではないことを確信していくのだと思います。あなたにも、「行くからね」というイエスさまの声が届きますように!

(マタイによる福音書 25:31~46)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「賜物は豊かに」 2023.11.19

ある人が、三人の僕を呼んで自分の財産を預けました。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン。そして主人は、長い旅に出ました。その間に、5タラントン預けられた人と2タラントン預けられた人は商売をして、預けられたものと同じ位多くのものを得ました。しかし1タラントン預けられた人は、主人から預かったお金を、穴を掘って隠しておきました。

当時、地面に穴を掘って財産を隠しておくのは安全で確実な財産管理の手段と考えられていたようです。主人の財産を守ることだけを考えたら、リスクを冒して商売をするよりも確実で、推奨されるべき方法だったかもしれません。しかし、タラントンを「地の中に隠しておいた」と聞いた主人は、「怠け者の(臆病な)悪い僕だ」と言って預けたものを取り上げてしまいました。主人は、財産を隠しておくことではなく、活用することを望んでいたのです。

商売をして儲けたという他の二人の僕に、この主人は「僅かなものに忠実だった」と言って喜んでいます。1タラントンは6000日分(ざっと20年分ほど)の賃金にあたると言いますから、決して「僅か」とは言えないでしょう。しかし、タラントンはタレント(賜物としての色々な才能)に通じるものです。この僕たちは、自分に託されたタレントを全て自覚していたわけではないでしょうが、その人生における出会いの中で、その時の人々の必要に応答して、自分に託されたタレントを惜しみなく発揮していったのでしょう。一つひとつの出会いは小さくても、分かち合われるものが僅かであっても、その誠実な関わりを通して、喜びと恵みが広がっていったということではないでしょうか。

神さまから、沢山のタレント(賜物)がすべての人に与えられています。その恵みの豊かさに気づき、臆病になることなく怠けることなく、人々と分かち合ってゆくとき、感謝の思いとともにさらなる賜物が注がれることでしょう。そこには人々の、そして神さまの喜びが広がってゆくのです。

(マタイによる福音書 25:14-15,19~29)

牧師補 執事 下条 知加子

「油を満たしておく」2023.11.12

花婿の到着を待っている間にウッカリ寝落ちし、ずっと到着を待っていたのに、夜中になってから起こされ、予備の油を持っていなかったために、宴席から締め出されてしまう乙女たち。喩え話とは言え、天国も結構冷たいじゃないかと言いたくなります。

ところで登場する5人の賢い乙女と、5人の愚かな乙女ですが、この人々は主役ではなく、花嫁の付き添い人という役割です。また、手に持った「ともし火」に、最初から火が灯っていたのではなく、棒の端に油の付いた布を巻き付けてスタンバイし、花婿が到着したら、すぐに婚礼行列や会場を照らすため、また宴の中で披露する「たいまつの踊り」などのため、朝までずっと灯りを途切れさせない、という担当も兼ねていたのでしょう。

そう考えると愚かな乙女たちは、夜中まで待たされたから、用意した油を使い果してしまったのではなく、最初から予備の油壺どころか、油そのものを持参していなかったことが明らかとなります。布にあらかじめ染み込ませた油はすぐに尽きますが、そのあと、どうするつもりだったのでしょう。最初から「借りればいい」と思ったのかもしれませんが、では花嫁付き添い人としての役割を、いったい何と心得ていたのでしょうか。他の乙女と一緒にたいまつさえ振り回しておれば、誤魔化せると思ったのでしょうか。

共通点があると思うのは、外見以外はあまり気にならない律法学者やファリサイ派の人々の言動です。「油」は、神さまに対する信頼を深め続けることや、愛に根ざした信仰かどうか振り返ること、などに置き換えられるかもしれませんが、目に見えないそれらには関心がなく、たいまつさえ持っていれば乗り切れると考えるあたり、先週の福音書に登場した「長い裾の上着」や「大きな聖句の小箱」の大好きな指導者層のようです。今回の話は、「賢い乙女たちを見習え」と勧めているのではなく、また、天国では準備の良い人が優遇されるという話でもなく、愚かな乙女(=指導者層)のようなうわべを求めてはいけない、むじろ本当の油のために、他ならぬ自分のために「信仰を深めなさい」と伝えているのではないでしょうか。

(マタイによる福音書 25:1~13)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「皆きょうだい」 2023.11.5

イエスさまは、「先生」、「父」、「教師」と呼ばれてはならないと教えられました。「先生」と呼ばれることを好む律法学者やファリサ派の人々を批判してそのように言っているように聞こえる話ですが、群衆や弟子たちに話されたとありますから、一般の人びと、そして私たちに向けて語られているということでもあります。

私たちは日常、「先生」という呼称を頻繁に用います。医師、学校の教員、議員や弁護士…幼稚園教諭や保育園の保育士を先生と呼ぶことも多々あります。私たちの教会でも、牧師あるいは司祭や執事(聖職候補生も)を先生と呼ぶことが一般的に行われています。(教派によって多少の違いはありますが。)先生という尊称は日本語としてとても便利なので、つい「先生」と呼んでしまうという面もあるでしょう。

「先生」と呼ばれると、それだけで自分に価値があるように錯覚したり、尊敬されているようで気持ち良く感じたりするかもしれません。また、他の人と違う立場であることを必要以上に意識してしまうこともあるように思います。しかし、先生と呼ばれているからといって、格別に偉いとか、常に正しい行いをしているかというと、そういうわけではありません。先生と呼ばれている人も、他の人々と同じ人間なのです。

「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆きょうだいなのだ」といわれています。「父は天の父おひとりだけ」、「教師はキリスト一人だけ」なのです。

律法学者やファリサイ派の人々の教えていることは、教えとしては正しい。けれども、言うだけで実行しない、あるいは人に見せるための行いばかりする人もいる。それを見習ってはならないと言われています。自分自身はちゃんとしていないのに、そして人々ができるよう手助けもしないのに、実行できていない人々を裁くようなことがあってはならないのです。

自分だけは特別だと思い込む罪(見当違い)から解放されたいと思います。そして、すべての人は同じく人間であり、「皆きょうだい」であることを覚え、互いを尊重し大切にし合ってゆきたいと思います。

(マタイによる福音書 23:1~12)


牧師補 執事 下条 知加子

「究極の目的」 2023.10.29

イエスさまの存在を、快く思わない人々による反撃のお話が、今週も続きます。先週の福音書の後には、もう一つ別の話があり、そこでイエスさまは、サドカイ派の人々のツッコミもかわしたので、今度は律法の専門家が登場するという構成になっています。「律法の中で何が最も重要か」というその質問は、物理学者が一介の大工に「相対性理論をどう思うか」と聞くようなものかもしれません。「先生」と呼びかけてはいますが、民衆に人気があるだけで、専門家である自分に太刀打ちなどできるわけがないというこの人の魂胆も見えます。

ユダヤ教としては、「十戒」は手を触れられない聖域であり、すべての決まり事の根幹なので、何か別の掟に寄って十戒が成り立つとは、考えにくいことでした。ところがイエスさまは、いとも簡潔にその壁を乗り越えてしまいます。しかし、新しい宗教を産み出そうとしてこう言われたのではなく、抑圧されている人、貧しさゆえに悲しみや苦しみを負っている人と、共に歩もうとされるイエスさまにとっては、十戒のために人間が存在するのではなく、人間のために十戒が存在する、ということが当たり前だったのではないでしょうか。いわば十戒は、目的を実現する方法の具体例であり、その方法を実行したら、その先に何があるのかというと、「神を愛すること」「隣人を愛すること」であると。言い方を変えれば、この2つの目的のために十戒が存在すると言っているわけです。


「あなたは神と人を愛することを最も大切にしていますか」と、わたしたちもまた、イエスさまから聞かれているのでしょう。そうしたいと思っても実際は、自分の欲と他者の視線、諸々のプレッシャーや「こうするべき」という嵐の中で、時々は神さまの声に耳を傾けてみようかと立ち留まる生活、それが現状なのかもしれません。それでも、何のために自分はここにいるのかと迷い、何故こうなったのかわからなくなるとき、ふと立ち返って自分に「今、わたしがやっていることは、神と人を愛するためか」と問うてみたいと思います。そのあとに、わたしたちがどのように決断しても、神は最後まで見守ってくださると信じます。

(マタイによる福音書 22:34~46)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「神は語らせてくださる」2023.10.22

イエスさまがたびたび語る「天国のたとえ」を通じて、偽善と保身と、そして立場の弱い人々に対する搾取を、コテンパンに指摘されてしまった指導者たちが、反撃に出る場面が今日の福音書です。イエスさまに、仕返ししてやろうという魂胆も大人気ないですが、それよりもイエスさまから攻撃されたと感じ、何よりも自分たちの今の立場が危うくなることを、心配したのでしょう。普段は対立しているヘロデ派の人々と結託し、「よい」か「だめだ」の2択で答えざるを得ない質問を用意して、手下の者たちを送ります。イエスさまが「よい」と答えるならば、猛反発を買い民衆は離れていくだろう、「だめだ」なら、ローマ帝国への反逆の証拠として、逮捕へ繋がると。つまりどちらの答えを選んでも、イエスさまにとっては致命的だ、と指導者たちは確信したわけです。

ところがイエスさまは、「よい」でも「だめだ」でもない、別のお返事をされます。下心満載の指導者たちをやり込めるのは、読んでいてスカッとするし、こんな短時間(?)で、どちらともつかない返事を考えつくとは、なんてイエスさまは頭が良いのだろう、と感心するかもしれません。でも、この話はそれだけなのだろうか。さすがイエスさま!とかいうことが、果たしてわたしたちの魂を救うことに繋がるのでしょうか。また神のものは「神に返す」とは具体的に何なのか、という疑問も生まれます。


指導者たちの上を行く、スマートな応答をイエスさまが考えついたということではなく、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。」(マタイ10:19)という信仰に、徹底して留まられたのではないかと思うのです。つまり、「私が」語る、応答する、というこだわりから解放されて、全てのことは神さまの霊が実現させてくださる。自分を通して必要な言葉が語られ、どのように応答したら良いのか知らせてくださる、ということを、イエスさまが自然に実践された、ほんの一部の物語なのではないかと。

それは、自分で考える必要がないという意味ではなく、わたしたちの普段の祈りの生活へと繋がる物語なのではないかと思うのです。

(マタイによる福音書 22:15~22)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「祝宴に招かれて」 2023.10.15

今日の福音書では、天の国が、王が王子のために催した婚礼の祝宴にたとえられています。

王は当時の習慣に従って、祝宴の準備が整ったところで家来を送り、あらかじめ招いておいた人たちを呼ばせました。ところが、その人たちは来ようとしません。それどころか、再び家来たちが呼びに来ると、それを無視して出かけてしまったり、彼らを捕まえて侮辱を加えた上殺してしまったりしました。

王さまに招待されることはとても名誉なことなのに、その招待を無視するのは、王の主権を認めていないということでしょう。王の招きよりも自分の生活を守ること-畑に行ったり、商売に出かけること-を優先しているのです。王の催す祝宴に連なることによって、自分の生活-地位や財産や名誉-を失うことになると考えていたのでしょうか。

そう考えると、このたとえ話の聞き手-祭司長たちや民の長老たちなど-の姿が思い浮かびます。彼らは、自分たちが教えられてきたことや、守ってきた習慣や教えに従うことに頑なで、イエスさまの語る神の国への招きを受け入れようとしなかったのです。侮辱を加えられ殺されてしまった家来は、洗礼者ヨハネやかつての預言者たちの姿と重なります。

天の国のたとえということですから、この王は神さま、王子はイエスさまです。招いておいた客たちが拒んだこの祝宴には、家来の見かけた人は善人も悪人も…誰でもが招かれました。聖書の原文では「悪人」も善人もとなっているようですが、イエスさまが罪びとたちと食事を共にし、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とおっしゃったことが思い出されます。

自分と意見の違う人を認めなかったり、排除しようとするのは私たち人間の常かもしれません。しかし、あらゆる人を祝宴に招いておられる神さまの愛を覚えたいと思います。自分の思いを優先して招きを拒否するより、神さまが心を込めて整えてくださっている祝宴の喜びをともに味わう者とされますよう、祈り求めて行きたいと思います。

(マタイによる福音書 22:1~14)

牧師補 下条 知加子

「天国はすでに在る」 2023.10.8

秋になると教会の暦は、「天国とは何か。どういうところなのか」についてたとえ話をする、イエスさまの物語がしばらく続きます。今回のお話も、天国をぶどう園に例えています。

ある人が、必要なものがすべて備えられた理想的なぶどう園を作ります。畑が整えられているだけではなく、遠くまで見通せるやぐら、野獣から作物を守る塀、そして収穫を迎えたときのしぼり場まで備えています。すっかり出来上がったので、ぶどう園の仕事に慣れている農夫たちを雇い、彼らを信頼して園を託し、その人は家に帰っていきます。しかしこの農夫たちは、作業を任せられたに過ぎないという事実を次第に忘れ、ぶどう園もその収穫物も、すべて自分たちのものだと思い込むようになります。やがて季節が巡り、収穫のときを迎えると、主人はしもべたちを遣わしますが、農夫たちは自分たちの財産を奪いに来た敵であるとみなし、結託して残酷にあしらいます。ところが主人は、この農夫たちを断罪するのではなく、きっとわけがわかっていないだけだろうと、今度は大切な息子を送り、混乱を鎮めようとします。すると農夫たちは、この息子さえ殺してしまえば、財産は確実に自分たちのものになる、という浅はかな考えから、息子も殺してしまいます。

皆さまも薄々お気づきのこととは思いますが、この農夫たちは当時のユダヤ教の指導者たち、律法学者や祭司を指しています。 “農夫”としてお役目を与えられているのに過ぎない彼らは、すべてを創られた神さまから大切な仕事をお預かりしているという事実を忘れてしまい、あたかも自分たちが産み出し、所有しているかのように振る舞っている。そのことで底辺の人々が苦しんでも自業自得とみなし、自分たちの立場を守ることを最優先してきました。そんな中でも神さまは諦めず、たくさんの預言者(神さまの言葉を預かる人)を送り、その勘違いをただそうとされましたが、既成の組織や制度にしがみつく指導者たちは、預言者を破壊者あるいは敵としてあしらってきました。いくらたくさんの預言者を送っても、一向にらちがあかないので、ついに最終手段として、いわば断腸の思いで一人息子(イエスさま)を送ります。しかし、この息子さえ消してしまえば、自己防衛ができると踏んだ“農夫”たちは、十字架にかけて殺してしまいます。

なぜこれが「天国」の話?とお思いになるかもしれません。でも天国とは、死んでから行く場所ではなく、安楽で退屈な国のことでもなく、そして日常生活の中では手が届かない理想郷のことでもないのだと思います。そうではなく、神さまの優しさと忍耐強さと公平は、すでに実現されているのに、今わたしたちがそう感じられないのは、「天国」を自分のために所有しようとする欲、自己防衛のために利用しようとする心が邪魔している、見えなくしている、というメッセージではないかと思うのです。わたしたちは、そこで生き働かせていただくだけで、十分に満たされ感謝でいっぱいになるのに、所有や支配の誘惑に落ち、また生きる目的を忘れ、実は天国は今ここに在るのだという真実を見失っている、ということではないかと思うのです。

イエスさまが教えてくださったのは、あなたが幸せに生きること以外、何も望まない神がおられ、そのための代償や報いは一切求めず、他の人がなんと言おうと、あなたを慈しみ大切にしたいと切望する神さまの無条件の愛です。それは、「天国」という代名詞により、丁寧に創られたぶどう園のように、すでに準備されています。

(マタイによる福音書 21:33~43)

牧師 司祭 上田 亜樹子

 

「有言不実行?」 2023.10.1

今日ぶどう園へ行って働きなさいという父親の呼びかけに、いやですと答えたけれど「後で考え直して」出かけた兄。反対に、はいと答えたけれど出かけなかった弟。どちらが父親の望み通りにしたかと聞かれて「兄の方です」と答えたのは、祭司長たちや律法学者たちでした。しかし、この父親とは神さまのことを言っていて、口で「はい」と言いながら神さまに従っていないのはあなたたちの方だとイエスさまに言われ、彼らはどれほどプライドを傷つけられ、腹を立てたことでしょうか。 

彼らは、洗礼者ヨハネの回心を呼びかけるメッセージを、悪いものだとは思わなかったでしょう。けれども自分たちはちゃんとやっていると考え、その呼びかけを自分に向けられたものとして正面から受け取ることはしませんでした。回心すべきは自分たちではなく、律法を守っていない(徴税人や娼婦たちに代表されるような)罪びとたちだと考えていたのです。

「後で考えなおす」と訳されているメタメロマイというギリシャ語は「心を入れ替える」という意味の言葉ですが、考え方の根本を変える・神に立ち返ることを意味するメタノイア(回心)という言葉とつながっています。 

徴税人や娼婦たちは、生きる困難や世間からの抑圧に苦しめられていたために、神さまの呼びかけ~解放の宣言~を聞いたとき、その呼びかけに答えてゆきました。そんな彼らの姿を見ても、後から考え直してヨハネのメッセージに自ら向き合うことをしなかった人々は、律法を守れない人たちを罪人として括って軽蔑し、社会からはじき出すことによって安心を得ているに過ぎないと、イエスさまは言われているのです。 

生きづらさに叫ぶ声が満ちています。どうか彼らに神からの呼びかけの声が届き、考え直して出かけてゆく力が与えられますように。そしてイエスさまの教会はその呼びかける声を届けるためにこそ建てられていることを、いつも思い起こすことができますよう、祈り求めてゆきたいと思います。 

(マタイによる福音書 21:28~32) 

牧師補 執事 下条 知加子

「目が『腐らない』ために」 2023.9.24

現代社会では、到底受け入れられそうもない「ぶどう園」の話です。天国では、1時間しか労働に従事しなかった人も、まる一日汗水流して働いた人も、1日分の賃金1デナリオン(5千円程度)を受け取ります。もしパートの仕事をいくつも掛け持ちして、必死に生きている人がこれを聞いたら、最初から夕方頃にぶどう園に行く計画を立てるかもしれません。夜はしっかり寝て、朝から一日中別の仕事、そして夕暮れ近くになってぶどう園へ駆け込み、最後の1時間だけ働く。そしてフルタイムで働いた人と同じ金額の賃金を受け取る、それが賢い生き方ということになるのでしょう。

しかしながら、このぶどう園の話は、「神さまと出会って平安が与えられる」という1デナリオンの話であることは明らかです。神さまの悠久の時間に比べ、わたしたちの生涯はほんの一瞬に過ぎませんが、一生をかけて神さまと一緒に歩いてきた人も、散々放蕩の限りを尽くし生涯の最後に駆け込みで神さまと出会った人も、全く同じように永遠の命が与えられ、もれなく天の国に迎え入れてくださる神について語っています。ところが、1日中重労働と酷暑を耐えて働いた人は、同じ扱いでは不満だと言います。「妬むのか」(16節)という語は、「あなたの目は腐っているのか」という意味のギリシア語が使われています。つまり、わたしたちの永遠の命や魂の平安は、神さまから恵みとして無条件に与えられたのに、それを自分の努力の結果だと思い込む誘惑や間違いについて語っているのではないでしょうか。


昔々、病院のチャプレンをしていた時に、一人のホームレスの高齢男性が入院してきました。海辺の公園で何十年と野宿をしてきたので、入院してからも、医師や看護師がベッドに近づくだけで、身体を硬直させて怖がりました。それは、公園に住む彼に近づいてくる人々は、彼に危害を加える存在だったからです。しかし時間が経つとだんだんと表情が和らぎ、人生の夕暮れ時になって人との関わりを平安のうちに受け入れられるようになり、そのあとすぐに洗礼を受けて旅立っていかれました。この方は、社会の片隅に隠れるようにして生きてこられ、「一日中」ぶどう園で働くことはできませんでしたが、まさに日没1時間前に間に合って、思いやりある人々と出会い、平和な心と共に神さまの元へと旅立った。そんな神さまの業を、人々に伝える役割を果たしたと思うのです。

(マタイによる福音書 20:1~16)


牧師 司祭 上田 亜樹子

「7の70倍赦されて」 2023.9.17

ペトロがイエスさまに、「きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と尋ねています。3回まで赦せというのがユダヤ教の教えでしたから、それを7回までと言ったのは、自分は赦すことが大事であることを知っていると言いたかったのでしょうか。しかしイエスさまは、「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」とおっしゃいました。7の70倍というのは490回という意味ではなく、無限に赦しなさいという意味です。ペテロはきっと面食らったに違いありません。

そこでイエスさまは、天の国の例え話をなさいます。ある王様の家来が、主君から一万タラントン(6千億円ほど)の借金をしていた。一生かかっても、どんなことをしても返せないほどのお金…どうかもう少し待ってほしいと懇願する家来を、主君は憐れに思って赦し、借金を帳消しにしてやった。ところがその家来は、百デナリオン(100万円ほど)貸している仲間を、もう少し待ってくれと懇願したにも関わらず赦さなかった。それを知った主君は「お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と怒って、一万タラントンを返すまで家来を牢役人に引き渡した。

借りが何であれ、人を赦すことの難しさというものはきっと誰しも感じていることでしょう。しかしながら、日々保育園でこどもたちと保育士さんのやり取りをうかがっていると、人間は繰り返し赦されつつ生きているのだということを改めて感じます。保育士さんたちの忍耐力には本当に頭が下がる思いです。そして私たちが生まれてこの方、保育士さんに限らず親や家族、周りの人たちにどれほど多くを赦されてきたか=愛されてきたかということを、ひしひしと感じるのです。

7の70倍、私たちは誰しも、限りなく赦された上に今日生きることを得ているのです。であるならば、私たちも仲間を赦すことのできる人になりたいと思います。そして、赦すことによってのみ、私たち自身「牢」から自由になることができるのです。

(マタイによる福音書 18:21~35)

牧師補 執事 下条 知加子

「ゆるしについて」 2023.9.10

約束を忘れてしまった、他人の持ち物を壊した、そんなときに「ごめんなさい」とわたしたちは言いますが、それは「赦してもらおう」「きっと赦してもらえる」と思うから、口に出すことができるのだと思います。その一方で、相手が赦してくれるかどうか本当にわからないときの「ごめんなさい」は気が重く、断られる覚悟をしないとなかなか言えるものではないでしょう。取り返しのつかないこと、人生を変えてしまうような傷を負わせたときは、「相手に対して赦しを乞う」という考え自体が厚かましいと感じ、「赦してほしい」などとても言えないということに。そんなとき多くの人は、物事の本質を直視するより、法的制裁や相手が矛先を収めてくれる道を探し、それによって自分の出方を測るのかもしれません。

たとえ法律によって「犯罪」と断定されなくても、賠償を要求されなくても、わたしたちはまず「神さまにとっては何が起きたのか」を中心に考える必要があるでしょう。何故このようなことになったのか、自分の何が間違っていたのか、そして取り返しのつかない事実から自分は何を学べばいいのか、祈って祈って向き合う、ということなのだと思います。

今日の聖書は、自分が赦しがたいことをしてしまった場合ではなく、赦しを乞うべき人に対して、どのように願うべきなのかを語っています。それは、過失を犯した人をわたしたちが対岸の火事として眺めるのではなく、火の粉が飛んでこない対策にあくせくするのではなく、自分に同じようなことが起きる可能性をも含んだ話なのだと思います。それは、愛をもって率直に忠告しても、結果的にその人が聞き流すようであれば、あとは神の働きに委ねてみましょうということです。それは外見からは「諦めた」ようにも見えますが、関わりを拒絶するのではなく、その人が回心した時にはいつでも話を聞く心の用意がある状態です。

わたしたちは、ひとりでは「祈る」ことさえ難しいときがあります。でも、神さまを信じる者が二人三人と集まったときにやっと祈ることができるように、「罪」を犯した人に対しても、自分の力ではなく、神さまの働きを信じ続ける人が二人三人と集まって祈るとき、神さまの願いが実現していく、と語られているのではないでしょうか。

(マタイによる福音書 15:15~20)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「弱さによって」 2023.9.3

「天の国の鍵を授ける」と言われたペテロに対して、そのすぐ後に「サタン、引き下がれ」と言われたイエスさま。何故そんなことを言われたかというと、ご自分が「多くの苦しみを受けて殺され…」と告白されたことに対して、ペテロが「それはないでしょう!」とイエスさまのなさろうとしていることを否定しようとしたからでした。

5000人を超える人々を5つのパンと2匹の魚で養い、湖の上を歩き、多くの病人を癒やされた。イエスさまの御言葉には力があり、人々に多くの気づきと勇気を与えられた。ペテロの目にはきっと、強く、愛あふれる素晴らしい方としてイエスさまが映っていたのでしょう。この人こそ、この世界をひっくり返して、苦しんでいる人々を救い解放してくださるに違いない。そのように信じたからこそ、イエスさまをメシア(救い主)と告白し、ずっとついてゆくと約束したつもりだったのだと思います。

ところがイエスさまは、これから多くの苦しみを受けて殺される、それは避けることができないことだと言われるのです。自分がついて行こうとしている方が弱くされ、こともあろうに殺されるなどということは、ペテロには到底受け入れ難く、「そんなことがあってはなりません。とんでもないことです」と言ってしまいます。きっとペテロは気が動転していたことだろうと思います。イエスさまが逮捕され処刑などされてしまったら、自分の人生も終わりだ!と考えたかもしれません。でもイエスさまは、自分を捨てることによってこそ誰かの命を救うことができるのだと、弟子たちを諭されたのです。

イエスさまはペテロに、イエスさまに倣って強くなろうとするのではなく、むしろ弱さに目を向けて欲しい。弱さを持った一人の人として歩んで行ってほしいと願ったのだと思います。自分の弱さを受け入れることから救いは始まる、そのことを人々に伝える人としてペテロを、そして教会を建てられたのです。

どうか、自分の弱さを知り、受け入れ、「自分の十字架を負って」生きることの恵みに、多くの人が与かることができますように。

(マタイによる福音書 16:21~27)


牧師補 執事 下条 知加子

「岩盤まで寄り添う神 」 2023.8.27

ニワトリが鳴けば「あなたのことなど知らない」と言い放ち、急にイエスさまが出現するとビックリして湖に飛び込む。そうかと思うと、「小屋を3つ建てましょう」などと場違いなことも口走る。イエスさまの最も身近にいたのに、思慮深いとは言えないその言動を、聖書にたくさん記されてしまっているこの人を、イエス様は「あなたはペトロ(岩という意味)」と命名します。

シモンというのがこの人の元々の名前ですが、イエスさまの「あなたは岩だ」との言葉により、シモン=ペトロと呼ばれるようになりました。それにしても、なぜこの人が「岩」なのでしょうか。行動や言葉からは想像し難いですが、「実はこの人は、岩のような堅固な信仰を持っているのだ」と、イエスさまが見抜いていたということでしょうか。

この後、皆が安心して教会に集い礼拝を捧げることができる日が来る前に、まずキリスト教徒への「迫害」が数百年続きます。今のように情報網が発達しているわけではなかったので、イエスさまの名を口にすると徹底して同じ処罰を受けるわけではなかったものの、命の危険は常にありました。こんな中では、表面や見た目だけを整えた「信仰」や「教会」では、簡単に「陰府の国」に引き倒されたことでしょう。万人に理解しやすい福音、そして中身は問わずにまず何でも受け入れる、という姿勢は大切ですが、それは他者に目を向けたときのこと。教会のしくみや制度ばかりではなく、自身の信仰や神さまに対する信頼まで、「そのままで問題ない」と放置を決め込むと、それは砂浜の上に立てた信仰、空中に浮かぶ信頼のよう。お天気が良い時は大丈夫でしょうが、嵐が来れば、あっという間に消えるかもしれません。

砂の表面にではなく、心の岩盤に到達する信仰へと導いてくださる神さまは、岩盤とはほど遠いシモン=ペトロに寄り添い、人々を「岩盤」へと導く器として、敢えてこの人を用いられました。わたしたちも、自分の普段の行状から「自分の信仰は薄い」と決め込んでガッカリし諦めるのではなく、シモン=ペトロをも用いられ、わたしたちの頑な岩盤にまで寄り添ってくださる神さまの愛の深さに信頼したいと思います。

(マタイによる福音書 16:13~20)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「揺るがない信頼」2023.8.20

イエスさまがティルスとシドンの地方に行かれました。ここは異邦人の地ですが、宣教するために行かれたのではなく、退かれた、つまり、人目を避けて休息をとるために行かれたようです。それほどイエスさまの日常は大忙しで大変だったのでしょう。 
ところが、イエスさまが来ているといううわさが伝わって、一人のカナン人の女性がやってきました。そして、イエスさまに「私を憐れんでください!」と叫びます。 

この女性の娘が悪霊に苦しめられていました。悪霊に苦しめられる、というのは、心や精神を病んでいたということかもしれません。娘が苦しんでいるとき、心穏やかに生きることができていないとき、母親はどんなに苦しい思いをすることでしょうか。 
この状況を何とかしたいけれど、どうしたらよいかわからない。八方手を尽くしたけれど、娘の状態は良くならない。もはやどうしようもないと思っていたところで彼女はイエスさまに出会います。イエスという人が沢山の人々の病を癒されているらしい。そのイエスという人がやってきた。この人こそ私を救ってくれるに違いない。彼女は必死の思いで遠くからイエスさまに向かって叫びます。しかし、イエスさまは最初のうちは何もお答えになりません。それでも彼女はあきらめず、叫びながらついてゆきました。 

ところで、彼女の願いは「主よ…私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」というものから「主よ、私をお助け下さい」へと変化しています。イエスさまに願い祈る中で、助けを必要としているのは娘ではなく自分なのだということに、彼女自身が気づいて行ったと捉えられるように思います。 

初めは、イスラエルの失われた羊を救うのがご自分の使命であると言って取り合おうとしないイエスさま。それでも彼女はあきらめず、イエスさまの前にひれ伏して「主よ、私をお助けください」と願います。イスラエルの人がまず救われることが神さまの意思だということは尊重する。でも、異邦人だからと言って救わないという神さまであるはずがない、これが彼女の信仰=イエスさま、そして神さまに対する信頼でした。その心からの信頼に、そして本当の必要に気づいた彼女に、イエスさまは「願い通りになるように」と言われました。異邦人であった彼女の願いは聞き入れられ、主の救いの業は宗教を超えて実現することとなりました。

(マルコによる福音書 15:21~28)


牧師補 執事 下条 知加子

「不安に駆られるという誘惑」2023.8.13

聖書には、信頼し切れないけれど、しかしイエスさまがそう言われるからと、こわごわと足を踏み出してみる、意外と小心なイエスさまの弟子たちの話がたびたび登場します。そうやって恐々と一歩を踏み出したにも関わらず、途中でやっぱり不安になる。果たして「本当に支えてくださのかどうか」と不安になり、水に沈みかける、というのが今日のお話です。ちょっと情けないけれど、人間らしい中途半端で迷いがいっぱいのお弟子さんの「信仰」のようすです。でもこれは、他人事ではないかもしれません。
 わたしたちも日常的に、「どうしたら生き残れるか」「どうやって経済的に乗り切るか」と頭を悩ませます。もちろん、客観的な計算や、冷静な事実確認は必要ですが、それだけでは乗り切れないこともたくさん起きます。もうできることは全てやり尽くした、あとはもうどうしたらいいのか途方に暮れる、という状態に直面することも、一度や二度ではないかもしれません。
 そんな時に役に立つのが、「信仰」と呼ばれる、神さまへを信頼する気持ちです。教会に通っているクリスチャンも、実はイエスさまのお弟子たちのように、時々不安になったり迷ったりするのですが、できれば、もっと信仰を深めて、そして神さまに信頼して生きていきたいと願っています。辛いこと苦しいことが起きると、「忘れられているのかもしれない」とか「本当に私のことを大事だと思っているのか」と疑ってしまいそうになりますが、そういう中途半端な行動が、かえってわたしたちが前に進む上での負担となります。
 もちろん何も考えず、人の言うとおりになることや、神様はこう言っていますなどという話を鵜呑みにすること、そして、周囲の人々に合わせてその圧力に屈することなどを薦めているのではありません。嵐の中にいて、不安にならない人はあまりいないでしょう。そして時には不安による思考停止も起きてしまうかもしれません。不安のままでいること、それも誘惑です。
 不安は、さまざまな理由もあり、時にはわたしたちを助けてくれることもありますが、不安のまま留まっていると、現実に直面しなくてもいいという誘惑にからめ取られていることがあります。
 わたしたちが、神さまが見守ってくれていると心の底から信じるとき、自分の持てる力を充分に発揮して、自由な発想をしたり、冷静な判断をしたり、人に思いやりを持って接することなどが、できるようになるのだと思います。どういう状況になっても、先が見えにくくても、まずは神さまが、わたしたちを決して見捨てない、という信頼から出発しましょう。そして自分らしく自分の持つ力を十分に発揮させて生きていきましょう。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「共にいる」2023.8.6

8月6日は広島平和記念日です。今朝は、広島への原爆投下を覚えて祈り、8時15分(原爆が投下された時刻)、平和のベルが鳴らされました。この8月6日は教会暦では「主イエス変容の日」として祝われています。イエスさまの衣が白く光り輝いたことを祈念する日がヒロシマの日と重なっていることは、偶然だろうとは思いつつ、何か必然のようなものも感じます。

イエスさまは、ご自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活するということを弟子たちに話されたのですが、それから約一週間後、この変容の出来事が起こりました。イエスさまが祈るために山に登り、祈っていました。どれくらい時が経った頃でしょうか、イエスさまの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いたのです。そこにモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合っていました。その内容は、イエスさまがエルサレムで遂げようとしていた最後のことについてです。イエスさまの身体が傷つけられ、命奪われるという絶望的な展開。にも関わらず、イエスさまの顔は、そして衣は白く光り輝いていたのです。

かの日、原爆投下という全く非人間的な、巨大な暴力によって、広島にいた多くの人々の命が傷つき、苦しめられることとなりました。想像を絶する破壊の有様、多くの命が奪われ、どれだけ多くの人が原爆の後遺症で苦しむこととなり、今も苦しめられているか…。すべての希望が奪われたような、絶望的と思われる現実があります。

しかしイエスさまは、その苦難の最中におられます。地上で起こる様々な困難、人々が味わっている苦しみを、高みから見つめておられるのではなく、まさに地上で、苦しむ人と共にいてくださり、共に苦しまれる。そこに希望があります。

迫りくる困難を思い、苦しみの内に祈りながらイエスさまは栄光に包まれ、その顔は、衣は、白く光り輝くのです。復活の希望のうちに。

牧師補 執事 下条 知加子

「天の国への希望」 2023.7.30

マタイによる福音書の13章の初めに「イエスはたとえを用いて多くのことを語られた」と書かれていています。この「たとえ」という言葉は13章だけで12回も使われています。イエスさまが身近な物や事柄にしつこい位にたとえて人々に伝えようとしたことは、全て「天の国」につながっているようです。イエスさまは「天の国」がどういうものか、どのように実現していくかということについて、何とかして伝えたかったようです。

今日読まれたところでは、天の国がまずからし種にたとえられています。からし種は、0.5ミリほどの小さな種ですが、畑に蒔かれるとどんな野菜よりも大きくなるということです。いわゆる❝木❞ではないので、本当に鳥が巣を作ったかどうかわかりませんが、それくらい大きくなるということです。また、パン種は粉のようなものですから、さらに小さいといえるかもしれませんが、たった2~3%(3サトン(約40ℓ=約24㎏)に対しては500gほど)のパン種を入れると、小麦粉はやがて大きく膨らんでゆき、焼かれれば美味しいパンになります。

からし種は育つとき、またパン種は小麦粉の中に混ぜられると、その姿は消えて、見えなくなってしまいます。このからし種、あるいはパン種は、私たちの住む世界に来られて十字架にかけられたイエスさまご自身をあらわしているのだろうと思います。そして真暗闇のような世界にあって、イエスさまによってもたらされた希望の光は必ず大きく成長していく。天の国はそのようにもたらされることを、このたとえはあらわしています。

私たちの生きる社会にも、本当に多くの困難があり、人々が生きづらくされています。少しでもこの社会を、世界を少しでも変えられたらと思うけれど、どうやっても無理なのではないか、今やっていることは無駄なのではないか。そんな風に思ってあきらめてしまいたくなることも多々あるでしょう。しかし、小さな小さな種、ほとんど見えないようなパン種が、必ず大きく成長して、この地上に天の国が実現するのだという希望を、イエスさまという光を、私たちは見失わずに進んでゆきたいと思います。

(マタイによる福音書 13:31-33、44-49)

牧師補 執事 下条知加子

「じっと待つ神」 2023.7.23

先週の「たね」に続いて、今週は「麦」の話ですが、ここに出てくる「麦」と「毒麦」とは、そういう別々の植物があるわけではなく、ふつうに畑にタネを撒いても、ある株には細菌のようなものが入り込み、成長中に増殖し、収穫後、知らずに食べると腹痛や下痢、嘔吐などをひきおこしてしまう麦のことを「毒麦」とよんでいたようです。生育途中は外見での区別がつきませんが、穂浪が熟してくると、一見して毒麦かそうでないか簡単に識別できたので、先に毒麦だけ刈り取り、間違って食べないように火にくべて焼き、それから改めて麦の収穫にとりかかる。そんな段取りが、当たり前だったイエスさまの時代の刈入れの様子を、天の国にたとえられたのだと思います。

これがなぜ天の国のたとえなのか、良い知らせなのか、釈然としないかもしれませんが、良い麦だけが生育されている理想郷が「天の国」だとは言っていないのです。

天の国とは、神さまが諦めずにタネを撒き続けてくださる場所。しかし同時に「敵意」を持つ存在も入り込み、毒麦をも知らないうちに撒き散らしていく。そして神さまは、それをすぐに成敗するのではなく、何よりも良い麦を一つでも傷つけたり失ったりしないために、時が来るまで両者を混在させておく。しかし、やがて最終的な時がきたら、すべてを明らかにしてくださる、そういう話ではないかと思うのです。

「私自身が毒麦かもしれない」そんな不安も頭をよぎるかもしれませんが、私たち自身の中に良い麦と毒麦が混在しているということも、きっとあるでしょう。また、世界に存在するどうにも解決できていないさまざまの悲しみと苦しみ〜戦争、飢餓、人権侵害、不条理〜なども、毒麦のしわざなのかもしれません。だから仕方がないと諦めるのではなく、わたしたちの痛みを一緒に感じながら、じっと耐えて、何よりもわたしたちの魂と命を守り抜こうと決めている、神さまの姿に目を留めたいと思います。

(マタイによる福音書 13:24~30、36~43)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「種まき」 2023.7.16

先週末、4年ぶりとなった保育園の清里キャンプが行われ、約30名の5歳児たちと一緒に自然の中で過ごす恵みにあずかりました。ユースキャンプ場のキャビンで過ごした一泊二日、すべてが新鮮な体験でしたが、中でも自然学校のレンジャーさんと一緒に森の中を歩くガイドウォークは新しい発見と驚きに満ちていて、こどもたちは大喜び。森の木々や草花、鳥や動物たち、虫たちとの出会いは、ふだん都会で過ごしているわたしたちに沢山のことを教えてくれたように思います。

清泉寮で飼育しているジャージー牛のための牧草を育てている採草牧草地にも連れて行っていただきました。そこのエリアは人も入れるのですが、レンジャーさんのお話によると、牧草を育てていても、人が入ってくると牧草以外の草も生えてきてしまうので、牧草だけを育てるためにはそのエリアに人は入れられないということです。人の靴底にはいろいろな植物の種がくっついているからなのでしょう。観察してみると確かに、牧草とともに様々な種類の草が生えていました。

当たり前かもしれませんが、牧草を栽培し良い餌にするためには、ただ種が播かれれば良いわけではなく、牧草が育つための環境や条件が必要なのですね。日差しや栄養はもちろんですが、他の種類の草が生えないために人を入れないように気遣うことも必要なのでしょう。
イエスさまの「種を蒔く人」のたとえでは、種が落ちる(蒔かれる)場所が色々あって、その場所の環境や条件によって良く育つかどうかが決まってゆくように語られています。その後には、その「種」は「御国の言葉」であって、種が育つということは、それを聞いた人が「悟る」ことであるというように説明されています。

保育園での園児礼拝でのお話などは、まさにこの種まきであると思いますし、保育というかかわりそのものの中で沢山の種がまかれているのですが、同時に、彼らの心の畑を踏みにじってしまっていることがないだろうかと思いめぐらすことも多々あります。蒔かれた「御国の言葉」を悟り、よく育つため、こどもたちの心を踏みにじることなく関わってゆくことができますよう、願い、祈っています。

(マタイによる福音書 13:1~9、18~23)

牧師補 執事 下条 知加子

「疲れている人々よ、」 2023.7.9

心身ともに疲弊しているとき、わたしたちはまず「寝たい」と思うことでしょう。やるべきことは目の前に山積みでも、明日のことを心配せず、何もかも忘れて力を抜き、爆睡することができたらどんなにいいだろうかと。

今すぐに休みたいという声をいちいち聞いていては、日常生活が回らなくなる現実があることを知っているからこそ、身体の声に耳を傾けることは、きっと大切なのでしょう。今年2月に国内で行われたある調査によると、常に慢性的な疲れを感じている人は、なんと調査対象者全体の6割。身体の中の部位でも、目疲労や肩こりを訴える人が最も多かったそうですが、次に来るのが「精神的な疲れ」なのだそうです。そして精神的な疲れに対しても、多くの人がとりあえず寝る、スイーツを食べるなど、暫定的お手当をしつつ疲れを抱えたまま、毎日を走り続けているというのが現状なようです。

今日の福音書のイエスさまの言葉は、「(労働で)疲れた者、重荷を負う者」と、心身両方の疲労について言及しておられます。しかし、その解決方法として「このようにしなさい」と指示なさるのではなく、「だれでもわたしのもとにきなさい」と言われます。イエスさまの時代には通勤ラッシュも、人口の過剰集中もなかったと思われるので、その頃の「心の疲労」とはどんなことだったのだろうか、想像するのは難しいです。しかし、他国の支配による不条理や不平等、食べていくことの困難さは、人々を精神的疲労へと追いやったことは間違いないでしょう。そしてユダヤ教では「不条理な目に遭うのは先祖や本人のせい」と教えていたので、こんなひどい目に遭うのは、神が「これがあなたに相応しい人生」と定められたから、と信じる圧力が、さらに精神的な疲労へと追い込んだに違いありません。


イエスさまは、「休み」「安らぎ」を与えると約束されています。それは、何があっても、自分自身がどのような状態になっても、「わたしは神さまにとって大切な存在だと信じ続ける」という、イエスさまが私たちに与えてくださった「くびき」を、わたしたちが身にまとうことによって与えられるのではないでしょうか。わたしたちを能力のない者とみなし、すべての疲労や圧力を除去してしまうのではなく、それをモノともしない生き方へと招き、そして共に歩こう!と言っておられるのではないでしょうか。

(マタイによる福音書 11:25~30)


牧師 司祭 上田 亜樹子

「平和を造る」 2023.7.2

「私が来たのは…平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」というイエスさまの言葉を聞くと、ちょっとドキッとしてしまいます。“平和をもたらすため”に来てくださったのではないのですか?と聞き直したくなります。でも注意深く読んでみると、平和をもたらすために来たのではない、と言っているわけではなく、「平和をもたらすためだ、と“思ってはならない”」と言われていることがわかります。

この「もたらす」というところには、投げるという意味の言葉が使われています。平和を投げる、というと、自分たちではなく他の誰かがもたらしてくれるという感じを持ちます。平和、あるいは救いを希求してきたイスラエルの民は、メシア(救い主)がやって来て、大きな力をもって世の中(の力関係)をひっくり返し自分たちを救ってくれると期待していたということでしょうか。イエスさまは、そのように与えられる平和があるとしたら、それは本当の平和ではないと言われているのです。

この世の中にはいつも、生きるための問題や困難が山積しています。それらすべてをスッキリ解決するとか、すっかり無くしてしまうなどということは不可能でしょう。それでも、間違っていると思うことや不正義があれば声を上げて闘う。そうして出来事に関わって行くことで初めて、イエスさまの言われる平和が実現されるということではないでしょうか。それは易しいことではありません。時には仲間や家族と闘わなければならないこともあるでしょう。いえ、むしろ関わりが深い分、近しい人々と闘わなければならないことの方が多いのかも知れません。

真の平和は、私たちが造り出してゆくものなのです。そして実は、平和のために闘う道程(プロセス)こそが平和そのものだということかも知れないと思います。黙っていて向こうからやって来るような平和があるとしても、それはきっと見せかけだけのもの、本当の平和ではないのでしょう。

現実の中で闘わねばならない時、「剣をもたらすために来た」というイエスさまの言葉が励ましとして響いてきます。それまで大切にしてきたもの(人)と敵対しなければならなくなった時、どうか勇気をもってその闘いに臨むことができますように!

(マタイによる福音書 10:34~42)

牧師補 執事 下条 知加子

「人を恐れるな」 2023.6.25

「不幸な人三選」という話があります。どういう人かというと、①感謝や喜びを生活の中に見いだせず不満ばかりが心にある人、②自分はいつも損をしていると嘆く人、③人にどう思われているか常に気にしている人、それが不幸な人の3つの特徴だ、ということなのだそうです。

日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、それらをカウントせず、出来なかったこと不完全だったことのみに目に留め、記憶に残す不幸です。言い換えれば、神さまに支えていただいているという恵みは認めず、身体は動いて当たり前、ご飯を頂けるのは当たり前、家族が無事に帰ってくるのは当たり前で、期待どおりにいかなかったことを数え上げる生き方でしょう。

②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、同じ益が自分にないと「損をした」と感じる不幸です。例えば、親切に「してあげた」見返りを期待する、飢えている人に食料が手渡されると、飢えていない自分は「何ももらっていない」と不満を感じることなどです。

③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、自分の感じ方は重要ではないと思う不幸です。嫌われないように、非難の対象とならないように生きることが最優先と信じ、本当は価値観や思いは持ってはいるのですが、ないがしろにしてきたので「自分にはない」と思ってしまう人です。

この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」ということだと思います。さしあたりの損得に一喜一憂し、誤解されたらもう世の終わりと感じる一方で、不都合なことは隠しておけば大丈夫と思っています。少しドキッとする言い方ではありますが「隠されているもので知られずに済むものはない」「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と聖書は告げます。さまざまな困難の中でも、まずは「神さまに信頼することが大切」と力説しているのではないでしょうか。窮地に立たされても、誰かの罪を着せられても、不条理を押し付けられても、神さまは知っていてくださる、見ていてくださると。そして、わたしたちの都合や便利に向けて、ではなく、すべてはいつか、神さまのご計画の中で成就していくと、信じられること、それがわたしたちが目指すゴールではないでしょうか。

(マタイによる福音書 10:16~33)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「働き手となる」 2023.6.18

先主日の福音書には、マタイという人がイエスの弟子になる物語が読まれました。この二人の間にどのような出来事があったのか聖書に記されてはいませんが、「私に従いなさい」とのイエスさまの言葉に、マタイは「立ち上がってイエスに従っ」て行きました。彼がどんな生き辛さを抱えていたかは、彼が徴税人であったこと以外私たちには分かりません。でも、イエスさまとの出会いの中で希望を見出し、救われて、この人について行こう!と決めたのでしょう。

イエスさまは、「町や村を残らず回って、諸会堂で教え…ありとあらゆる病気や患いを癒され」ました。本当に多くの人がイエスさまの話を聞き、癒され、救われたと思います。けれども、その中で、「立ち上がってイエスに従」う決断をした人-弟子となった人-はどれくらいいたのでしょうか。イエスさまは、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われています。

また、弟子になったからといって、すぐにイエスさまと同じような働きができるというわけでもないのでしょう。イエスさまと共に行動し、ともに働き、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々と、イエスさまがどのようにかかわっておられるかを見て、聞いて、ともに過ごす中で良い感性が身に着き、磨かれてゆくのだと思います。

イエスさまは、弟子たちの中から12人を選び、呼び寄せ、汚れた霊に対する権能を授け、派遣してゆきます。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す」ちからは、神さまからの恵みです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われています。

今、神さまによばれてこの場につながっている私たちは、きっと神さまの「働き手」となることを期待されているのだと思います。それは恵みを分かち合うことでもあると思うのです。神さまからいただいている恵みの大きさをあらためて受け止めて感謝し、イエスさまに倣って歩む中で磨かれつつ、恵みを分かち合ってゆける私たちでありたいと願います。

(マタイによる福音書 9:35~10:8)

牧師補 執事 下条 知加子

「マタイをよぶ」 2023.6.11

さて今日は、イエスさまの弟子となったマタイという人のお話です。ローマ帝国に税金を納めるために、人々から税金(通行税、人頭税など)を集める仕事をしていましたが、現代の「公務員」とは少しニュアンスが異なったようです。まず、「税を集める権利」をお金で買うことにより、徴税人になることができたので、元手を回収する必要がありました。次に、徴税人というステータスは確保しても、給料は出ないので、一定の税金額に上乗せをして徴収し、差額を生活費に当てていました。中には圧政を強いるローマ帝国の権力を利用し、かなりの私腹を肥やす徴税人もいたので、人々からは距離を置かれ、経済的には安定しているけれど、共同体の構成員としては認められず、神の恵みから漏れた嫌われ人、つまり「罪人」という烙印を押されていたわけです。

このような背景があったマタイですが、イエスさまは、この「罪人」に自分から声をかけ、食事まで共にしています。すると、当時の社会で「神の恵みから漏れた」他の人々も、噂を聞いて次から次へと集まってきます。

それを見た正統派ファリサイ人は違和感を感じ、「どうしてこんな人たちが来ているのか。ましてや一緒に食事をするなど正気の沙汰か」と、弟子たちに詰め寄ります。それがイエスさまにも聞こえたのでしょう。「私が喜ぶのは慈しみ、神を知ることであって、いけにえではない」(ホセア書6:6)と、イエスさまは旧約聖書を引用して答えます。

でもこの話は、神さまは誰でも受け入れてくださる、この中途半端な私さえ仲間に入れてくださる、というところで留まってはならないのだと思います。マタイとその仲間たちとの食事風景を「現代風に訳すと、ヤクザさんが大量に礼拝に来た感じ」とたとえた人がいました。もちろん黒服のイカツイおじさんが大量に教会に現れたら、正直なところ、わたしたちも違和感を感じてうろたえるかもしれません。でもイエスさまは、わざわざそういう方々をも招かれた。それはわたしたちも、思い込みや慣れ親しんだ「あたりまえ」の中で心地よく自己完結するのではなく、神さまがどういう方々に心を砕いておられるか目を向けて欲しい、そんな呼びかけにも聞こえます。

(マタイによる福音書 9:9~13)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「聖霊が働く」 2023.6.4

創世記の第1章には神さまの創造物語が記されています。神さまは、初めに天と地を、そして光を創造され、光と闇を分けられた。第二の日、水を一か所に集め、大空を造り、その下と上の水を分けられた。第三の日、乾いたところに草木を生えさせられた。第四の日には、太陽と月、そして星を造られた。第五の日、神さまは水の中の生き物と空に飛ぶ鳥を、第六の日には地の上に生きる生き物を、そして最後に人間を造られた。天と地、森羅万象が完成し、神はご自分の造ったすべてのものをご覧になったところ、それは「極めて良かった」と書かれています。

その良さがずっと続いたら良かったのでしょうが、最後に造られた人間は、神さまの願いに反して自己中心的で、極めて良かったはずの被造物を意のままにしようとしてきました。便利・快適を求めるあまり、神さまの造られた豊な自然を平然と破壊してきました。また自分や仲間の都合を優先し、自分たちだけが満たされ、多くのものを独占しようとして、利害の反する人々を傷つけてきました。

そんな人間たちを、創造したときの良さに立ち返らせたいとの思いで、神さまはイエスさまをこの世に送ってくださいました。イエスさまは神さまの愛を、命をかけて人々に伝えようとして捕らえられ、処刑されてしまいましたが、神さまはイエスさまをよみがえらせ、その愛が永遠であることを知らせてくださいました。

けれども人間は、神さまに「極めて良い」存在として造られたことも、本当に大切な存在として愛されているということも、すぐに忘れてしまいます。そして相変わらず自己の思いに囚われ、自然を破壊するばかりか、他の人々を傷つけ、自分自身さえ傷つけてしまうのです。だからこそ神さまはわたしたちに、聖霊を送ってくださったに違いありません。

聖霊が働いてくださっていることを感じることのできるわたしたちでありたいと思います。聖霊の息吹を受けて、傷ついたわたしたちが新たな命に生かされてゆきますように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともに、限りなくありますように!

(創世記 1:1~2:3)
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 13:11~13)
(マタイによる福音書 28:16~20)

牧師補 執事 下条 知加子

「聖霊を受けなさい」 2023.5.28

聖霊なる神を「わかろう」とすること、それは自分の持つ限界や弱さを認めることと関係があるのかもしれません。世の中の不具合や、人生で起きる様々な不条理に立ち向かい、少しでも人生をよくしようと努力する。当たり前かもしれませんが、そんな時、限界を越えるような状況にしばしば直面します。自分には越えて行けない、無理だと感じる壁が目の前に立ち塞がったとき、そこで撤退することも多いかもしれませんが、一方で「自分の力」では到底有り得ないような事柄へと導かれることがあります。「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわば自分では「所有していない」力が何処からかやって来て、物事が思わぬ方へ展開するような場合です。それは、わたしたちの「所有しているが隠れていた能力」が陽の目を見たからではなく、「必要なものはすべて、神さまがそのつど与えてくださる」ことの証であって、わたしたちを通して働く聖霊なる神の邪魔さえしなければ、必要なことはすべて「為されていく」ということなのだと思います。

イエスさまは息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊を受ける」とは、すでにわたしたちと共におられる聖霊なる神の存在を認め、その働きに支えられていると、信じることではないでしょうか。

聖霊なる神を受け入れる人には主の平安があります。思いがけない事態に陥っても、期待や予定から大きく外れても、自分にできる努力はしつつ、パニックに陥ることはありません。聖霊なる神が共にいてくださると信じているからです。 

聖霊なる神を受け入れる人は罪から解放されていきます。わたしたちがしばしば陥る「罪」(=的をはずす行動)ですが、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力みます。それは聖霊なる神をないがしろにすること。自分の弱さを認め、間違いを認知するのは辛いことですが、まずは「的を外している」事実を認めること、そして神さまはどうなさりたいだろうか、謙虚に祈り求めること。それは、自身の「罪」から解放されていく、ということだけではなく、周りの人々にも波及し、罪の束縛から自由になっていく、そんなふうにイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。

(使徒言行録 2:1~11)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「復活と昇天」 2023.5.21

イエスさまは復活されてしばらくの間、イエスさまを慕い、従っていた人びと=弟子たちを訪ねては、その姿を現わされました。

イエスさまを失った時の弟子たちの、大切な人を失ったという悲しみ、最後までついてゆくと言いながら十字架を目の前に逃げてしまった情けなさ、裏切ってしまったという後悔、自分たちも捕まるのではないかという恐怖…、その恐れと不安は、自分を失ってしまう位に大きかったのではないかと想像します。おそらく絶望するしかなかったであろうその弟子たちの目の前に、イエスさまは現れてくださいました。

空の墓を訪ねたマリアに現れ、扉も鍵も固く閉ざした家に隠れていた弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と声をかけ、エルサレムから逃げようとしていた二人に同行してパンを割き、共に食事をし…。その出現に驚き惑い、怪しみつつも、希望を絶たれ生きてゆく力を失っていた彼らに、希望の光が与えられました。イエスさまは、裏切り、逃げだした自分たちを、決して責めたりされなかった。それどころか、死んだ後も愛をもって共にいてくださることを示してくださったのです。復活のイエスさまに出会って、弟子たちは大きく変えられてゆきました。

イエスさまは復活から40日後、天に上げられてしまいました。その場に居合わせた弟子たちは、イエスさまが昇って行った天を見つめるしかなかったようです。弟子たちは、今度こそずっとイエスさまが一緒にいて、導いて行ってくださることを望んでいたでしょうか。イエスさまが離れて行ってしまって、再び絶望したでしょうか。

いいえ。死をもってしてもイエスさまと自分たちが離されることはないのだと知った彼らは、今度は自分たちの足で立ち、出かけてゆきます。イエスさまと共に行動していたあの頃のように、神さまの愛を伝え、隣人への愛を示すため、歩み始めるのです。

(使徒言行録 1:8~14)

牧師補 執事 下条 知加子

「わたしにつながっていなさい」 2023.5.14

 「つながっていなさい」と言われるとなんだか「束縛」のように感じることがあります。ブドウの木とはイエスさまのことであるとはわかっていても、「あなたは枝だ」と言われると抵抗を感じます。そんな固定的な生き方より、その時の気分で行きたいところにいつでも飛んで行ける方が自由だ、と感じることもあるでしょう。でもイエスさまは、束縛したり支配したりするために「つながっていなさい」と言われるような方ではないことを、わたしたちは知っています。

ユダヤの人々の常識では、「ぶどうの木」や「ぶどう園」は、イスラエルの共同体や神さまの国のたとえだったそうです。人々に約束されたすべてのことが、イエスさまの生涯を通じて果たされた、「神の国」が示されたのだと、聖書の著者は言いたいのかもしれません。父なる神は、不必要なものを取り除き「豊かに実を結ぶ」ために、丁寧にぶどうの木の手入れをする様子ですが、単に収穫量を増やすことが目的ではなく、ぶどうの木もその枝も、本来あるべき姿となるように、つまり神の国が実現されるために作業を絶やさない、そんな神さまの姿が浮かび上がってきます。

ところがわたしたちは、物事がうまく行っている時は、ひとりで何でもできるような気分に陥るのに、どうしたらよいのかわからない窮地にひとたびはまると、「神さまは一体何をしているのか」と詰め寄ったりします。それは、自分の弱さや情けなさと直面するのを避けるにはよい方法かもしれませんが、わたしたちがそうしている間も、淡々とぶどうの木の手入れをなさる神さまです。

つまり、わたしたちが自力では抜け出せないような泥の中にいる時、そこに降りてきて一緒に這い回り、共に居てくださろうとする神さまの姿を表しているのではないかと思うのです。そしてそのことこそが「神の国」の到来なのかもしれないと思うのです。祈りの言葉さえ浮かばない苦しみの中にあるとき、イエスさまはわたしたちに呼びかけ続けてくださいます。「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたとつながっている。どんな時も決してあなたを一人にはしない」と。

(ヨハネによる福音書 15:1~8)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「イエスさまこそ『道』」 2023.5.7

イエスさまはご自分が逮捕される直前、最後の晩餐の席で、「私が行く所にあなたがたは来ることができない」と言われました。イエスさまはどうなってしまうのか。自分たちは置いて行かれてしまうのか。一体どうしたらいいのだろうと、弟子たちは不安で一杯でした。 

ペテロはイエスさまに、どこへ行かれるのですかと問い、付いて行きたい、あなたのためなら命を捨てます、と申し出ますが、「今付いて来ることはできない」と言われてしまいます。トマスは、イエスさま、あなたがどこへ行くのか分からない、その道もわからない、と言います。「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」とおっしゃるイエスさまにフィリポは、自分たちに「御父をお示しください」と願います。 

長く行動をともにしてきたはずの弟子たちさえ、私の行こうとしているところを、そしてその道を理解していないのかと、イエスさまはがっかりされたのでしょうか、「こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか」とおっしゃっています。いよいよ十字架が間近にせまっているというのに…と。 

私たちは、初めてどこかへ行こうとするとき、目的地をはっきりと見据えて、地図や道案内を頼りにそこへ行く道すじの見当をつけておかなければ、不安で出発することができないでしょう。この時の弟子たちは、その目的地を見失い、行くべき道が分からなくなってしまっているようです。イエスさまの行かれるところに「後から付いて来ることになる」と言われても、もはや何をどうしたらよいのか、心はざわざわと騒ぎっぱなしだったのではないでしょうか。 

でも、イエスさまはおっしゃいます。「私を見た者は、父を見たのだ。」そして目的地は私の父の家である。そこには安心して住むことのできる家がたくさんある。そこへ至る道は私自身である、と。イエスさまの行ないに倣い、イエスさまを信じて歩んでゆくとき、きっとイエスさまがおっしゃった「あなたがたのための場所」-安心して居ることのできる住まい-に導かれてゆくに違いありません。

(ヨハネによる福音書 14:1~14)

牧師補 執事 下条 知加子

「羊飼いに導かれて」 2023.4.30

聖書では私たち人間を羊に例えていますが、羊とはどんな動物でしょうか。 

まず、とても臆病で、危険を察知するとすぐにパニックになって逃げ出してしまいます。身を守るために群れで生活しているのですが、群れの中で一匹がパニックになると、ほかの羊たちも連鎖的にパニックになってしまうことがあるそうです。また、極度の方向音痴で、一度群れからはぐれると自力では戻って来られません。毛を刈る前の羊は、体重の割に足が細いため、一度転んでしまうと自力で立ち上がることができないこともあり、狼などに襲われたら、逃げることも抵抗することもできず、食べられてしまうのです。 

こんな特徴を持つ羊ですから、その群れを守りお世話をする羊飼いは本当に大変な仕事です。しかし、この羊の姿は私たち人間の姿でもあるように思われます。人間もまた、導き手を必要としている、一人迷い出たら戻ってくることさえできない、弱い存在なのではないでしょうか。 

今日読まれた詩編23編には、羊たちを導くイエスさまの姿が描かれています。私が中高時代に習った、詩編23編を歌った讃美歌では、次のような歌詞になっていました。

「主はわが羊飼い主 我ともしきことあらじ
 緑の野辺に我を伏させ 水際に憩わせたもう」

思春期で、自分自身のこともよくわからず、心身ともに不安定な時期にあった私は、文語体のこの美しいことばに幾度となく慰められ、助けられたように思います。 

ヨハネによる福音書10章で、イエスさまはご自身を、羊の囲いに入る門であると同時に、良い羊飼いであると言われています。私たちを導き守り、疲れた時は野辺に休ませ、渇いた時には水を与え、活き活きとした生へと導いてくださるイエスさまに信頼して、今日も歩んでゆきたいと思います。

(ヨハネによる福音書 10:1~10)

牧師補 執事 下条 知加子

「エマオへの遠回り」 2023.4.23

いわば「お祭り騒ぎ」のようなイースターのお祝いも、わるくはないのですが、イースター(復活節)は1回限りではなく、しばらく続きます。
これは、暦の上でそうなっているから、ということだけではなく、神さまがなさろうとした計画全体を理解し、本当の意味で「わかる」ためには、わたしたちの想像を超えた時間や経験が必要なのでしょう。

聖書には、イエスさまの十字架の意味や復活について、腑に落ちていないお弟子さんたちの姿があちこちに描かれていますが、ずっと一緒にいたこの人々でさえ、イエスさまの「十字架と復活」の意味が本当にわかるまで、少し時間が必要だったということなのかもしれません。

今日の福音書は不思議な設定です。時は十字架刑が行われた3日後のこと。お墓に行った女性たちが「イエスは生きている」と言っていると聞かされますがにわかには信じられず、暗い顔をしたまま、何故かエマオへ向かうお弟子たちです。隠れているのも危険だと判断したのか、それともあまりの恐ろしさにエルサレムを脱出したのか、そこは書いてありません。最初は誰が一緒に歩いているのかさえ、全く気がつかなかったお弟子たちでしたが、そのまま夕暮れとなり、宿をとった家で夕食のパンを裂いた時、急に「イエスさまとずっと一緒だったこと」を知るのです。これから何か起きるか、とイエスさまから直接、何度も告げられていたにもかかわらず、全然リアリティがなかった。しかも、自分達の描く「神の子」の行く末とかけ離れていたゆえ、これからどのように生きたものか、途方にくれていたのでしょう。しかしイエスさまは、無理解な彼らを見捨てるのでもなく、わざわざエマオまでやってきて、なんとしてでも励まそうとされる。

わたしたちが「復活は知っている」と思いながら、現実は「暗い顔」をしたまま、魂に喜びがなく、燃えた心もなく、惰性で生活をしているとき、それはエマオへの道を歩いているのと似ているのかもしれません。そして、イエスさまは一見無駄にもみえるエマオへの遠回りにさえ寄り添ってくださり、なんとしてでも「どんな時も一緒にいますよ」と必死になってわたしたちに伝えようとされる。「復活」は、完成した出来事ではなく、頑ななわたしたちの心に、今も静かに、少しずつ染み込んでいるのではないでしょうか。

(ルカによる福音書 24:13~35)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「赦されて」 2023.4.16

イエスさまが十字架に架けられたのち、弟子たちは仲間同士で隠れるように過ごしていました。この人ならば自分を、そしてみんなを救ってくれると信じて慕ってきたのに、なぜ処刑されなければならなかったのだろう。納得がいかない。いや、仲間だと知られたら、今度は自分たちが捕まるかも知れない。どうしよう。自分たちは結局イエスさまを見捨ててしまったのだ。イエスさまは私たちを恨み、悲しみ、怒っているに違いない。一体、これからどうやって過ごしていったらいいのだろうか。

弟子たちの心は、失望と恐れ、先が見えない不安に縮こまり、家の扉は固く閉ざして鍵をかけ、窓もカーテンも閉めきっていたことでしょう。真っ暗な中でひっそりと過ごすしかなかった彼らは、思うように自分の不安を口にすることもできず、その心は窒息しかけていたのではないかと思います。そんな彼らの真ん中に、不意にイエスさまが現れて、「平和があるように」と言われたのです。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」と書かれていますが、はじめは驚き、戸惑ったに違いありません。何が起こったか理解できなかったからです。けれども、手と脇腹の傷を見せられて、それがイエスさまだということが分かりました。自分たちは見捨ててしまったのに、イエスさまはわたしたちを見捨ててはいなかった。傷の痛みを負ったままのイエスさまが、今も共にいてくださる。この出会いによって弟子たちは、本当の意味で自分たちが赦されていることを感じたのではないかと思います。

もはや平和も平安も訪れることはないと絶望しかけていた弟子たちでしたが、再びイエスさまと出会い、立ち上がることができました。真っ暗な心のただなかに、平和・平安という希望を与えられて、閉ざしていた心の扉を開くことができるようになったのです。

しかし、平和や平安は、一度与えられたらそのまま続くというものでもありません。疑い深いトマスの姿は、すぐに不安になる私たちの姿でもあります。イエスさまを直接見ることができずとも、必ず共にいてくださることを信じる私たちであり続けたいと思います。

(ヨハネによる福音書 20:19~31)


牧師補 執事 下条 知加子

「イースターおめでとうございます!」 2023.4.9

イースターというと、エッグハント?うさぎ?チョコレートのお菓子、、、と思い浮かぶ方もおられるでしょう。また、厳しい冬が去り、世界(北半球だけですが)が、灰色から一転し、一斉にあざやかな彩りに包まれる春の訪れと、そして「今年もなんとか冬を乗り切った」「生き残った」という喜びを、実感するのでしょう。

教会にとってのイースターは、「新しい季節がやってきた喜び」だけではなくて、どうしても、「イエスさまの十字架の意味」を自分のこととして、心に留めることと切り離せないのだと思います。つまり、十字架という大変な苦しみを引き受けてくださって「ありがとう。はい次!」ではなく、どうしても十字架なくしては、わたしたちに告げる方法がなかった。世間的には「人生失格」「敗残者」といった烙印を押される十字架刑を通じてしか、わたしたちが理解することができなかった「何か」を伝えようとされた出来事なのではないかと思うのです。

神さまのイメージというと、何かとても崇高で、万人に手の届かないところにおられ、善悪を判断し、悪人には罰を、善人には御褒美を与える、といったイメージがあるかもしれません。しかしイエスさまは、短い活動期間(たった3年!)の間に、徹底して全然ちがう神さまについてお話しされました。それは、旧約聖書のイザヤ書(53章)に描かれた「苦難のしもべ」と呼ばれる神さまの姿です。堂々とした神らしい風格も、好ましい容姿もなく、人々から軽蔑され、親しい人からも見捨てられる神であると。しかも、そういった対人関係だけではなく、多くの痛みや苦しみを負っておられ、「病に罹る」ということの辛さも知っている神であると。そして、神だからそのうち社会を変えてくれると人々が期待していると、逮捕され、リンチに遭い、いい加減な裁判で有罪判決が出て、あっけなく死刑になる神。

当時の人々は「そんな神ならいらない」ということで、期待は怒りに変わり、喜びは憎しみに包まれます。つまり人々は、自分が期待する「神」を、イエスさまに投影したので、「裏切られた」と、妬みや困惑も相まって、行政側だけでなく、一般民衆もこの憎しみの輪に加わっていきます。そうして、イエスさまは完全に「見捨てられ」て、十字架刑にかかって亡くなります。

ここで話が完全に終わるなら、「ひょっとしたら、イエスという人は単なる惨敗者なのかも」という気持ちが、わたしたちの中にも広がったことでしょう。わたしたちを愛し、わたしたちのためになんでもしてくださる神さまは、さらに一歩、足を踏み出してくださいました。それが「復活」したイエスさまの存在です。

つまり、社会的には「極悪人」として処刑されたイエスさまは、何かに失敗したからそうなったのではなく、その一連の出来事を通じて、神とはどういう存在なのかを、あらゆる方法を用いて、わたしたちに伝えて下さったのが、「イースター」の出来事なのです。言い方を変えれば、「よみがえったから凄い」のではなく、神さまのわたしたちに人類に対する想いを本当に知ること、わたしたちがどんなに神さまに大切にされ、愛されているかを知ること、それがイースターなのではないでしょうか。

「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれません。でも、自分が大切にされることを通じてしか、わたしたちは自分で自分を大切にする方法を知りません。また、自分を大切にすることが出来て初めて、他の人を大切にすることができるようになります。生きていくことは、時にはとても辛いです。でも今日の命があるということは、神さまが他でもないあなたに「今日、あなたにやっていただきたいことがある。よろしくね」と、命をお預かりし、生きていくのに必要なものを与えようとされている、ということなのだと思います。生かされていることへの感謝、いのちの喜びを感じられるイースターが、あなたのところにも届きますように!

(新約聖書 ヨハネによる福音書 20章1~10節)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「十字架につけたのは」 2023.4.2

復活日の一週前の日曜日(本日)は棕櫚の主日または枝の主日などと呼ばれています。過越しの祭りのときエルサレムにやってきたイエスさまを、大勢の群衆が、自分の上着を道に敷き、あるいは木の枝を切って道に敷いて「ホサナ、ホサナ(「どうか救ってください」の意から転じた歓呼の叫び、神を賛美する言葉)」 と叫んで大歓迎したことを記念。群衆はイエスさまを預言者(神の言葉を預かり、人々に伝える者)だと思っていました。困難のなかにある自分たちを救ってくれるだろうと、大きな期待をイエスという人に寄せていたのです。

ところが、それから間もなくイエスさまはユダの裏切りをきっかけに捕らえられてしまいます。共に活動していた弟子たちは皆逃げてしまいました。最高法院で裁判を受けたイエスさまは、神を冒涜したかどで有罪となりました。自分たちで死刑にはできないユダヤ人たちは、イエスさまをローマ総督ピラトに引き渡しました。祭司長たちや長老たちが散々イエスさまに不利な証言をしましたが、イエスさまは何故か何も答えられませんでした。

総督ピラトは、人々がイエスさまを引き渡したのは妬みのためだとわかっていました。祭りの度に民衆の希望する囚人ひとりを釈放することにしていた総督は、バラバ・イエスかメシアと言われているイエス、どちらを釈放してほしいのかと人々に問います。バラバは名うての囚人でしたから、人々はイエスさまの釈放を願うだろうと思ったのかもしれません。しかし民衆はバラバの釈放を求め、イエスさまを「十字架につけろ」と叫び続けました。

今日読まれる福音書は、朗読劇として会衆が分担朗読するのですが、全員で「十字架につけろ!」と叫ぶ時、イエスさまを十字架につけているのは他でもない私自身だということを、あらためて思わされます。この社会で、罪のない人が裏切られ、不利な証言をされ、裁判にかけられ、死に追いやられる…。この社会で起きている事柄・事実に目を向けようとせず、かの弟子たちのように、逃げてしまってはいないだろうか。今日から始まる聖週、そのことに思いを致しつつ過ごして行きたいと思います。

(新約聖書 マタイによる福音書 27章1~54節)

牧師補 執事 下条 知加子

「生きること 死ぬこと」2023.3.26

聖書にはたびたび「死んでいた人が生き返る」話が登場しますが、これって一体何が言いたいのでしょう。イエス
さまが生きておられた時代には、そうとしか表現できない何かが起きたのかもしれませんが、今、誰かを生き返らせていただけるわけではなし。「へぇ〜、よかったね、知らんけど(←関西風に)。」と心の中で言っている自分がいます。

今日のエゼキエル書(旧約聖書)にせよ、福音書のラザロの話にせよ、生き返った人は、いつかまた遠くない将来亡くなるわけですから、何のために生き返させられたのか、何が目的だったのか、謎は深まるばかりです。

少し話はズレますが、キリスト教の人間観では、人は身体と心と魂が、互いに影響し合いながら生きている、と考えています。身体の不健康は分かりやすく、熱が出たり立っているのがしんどかったりすると、すぐに気がつきます。また心についても、誰とも会いたくない何もする気が起きない期間が長く続くと、医者に行ってみようかと思う人もいるでしょう。しかし魂はどうでしょうか。魂の不健康さは、人に意地悪をしても平気、人に知られなければ不正も強行、人を騙し自分にも嘘をつく、といった症状として現れます。でも、一般的にはそれを「魂が不健康な兆候」とは認めず、むしろ「要領がいい」くらいに思われている節があります。

そういうことを考えると、現代のわたしたちが思うよりずっと、心と身体と魂の「健康」と「不健康」の境目は曖昧なのでしょう。また、心や魂や身体が「生きている」か、あるいは「死んでいるのか」という境目は、わたしたちが思っているよりずっと、曖昧なのかもしれません。肉体が死んでも「終わり」ではないことは知っていても、実は自分の魂と心が「死んでいる」ことに気がつかない人は多いのかもしれません。常に、命へと導いてくださる神さまの愛に信頼し、命を選ぼうとするわたしたちでありたいと思います。

(旧約聖書 エゼキエル書 37章1~3、11~14節)

牧師 司祭 上田 亜樹子

「イエスさまと出会って」 2023.3.19

イエスさまと弟子たちが、生まれつき目の見えない人に行き会いました。すると弟子たちは「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」とイエスさまに尋ねます。障がいを負うことは罪の結果だと考えられていたのです。罪を犯したのは本人なのか両親なのか、などと聞こえるところで尋ねられて、この人はきっととても傷ついたことだろうと想像します。けれど彼自身も、目が見えないのは自分が罪を犯した結果なのだろうか、それとも両親のせいなのだろうか、神さま何故…?と問い、悩んでいたに違いありません。

障がいを負うことは、ただ不自由というだけでなく社会から疎外されることでもあります。疎外される、仲間外れにされることは、身体に不自由があることよりもずっと辛いことではないかと思います。生きて行くためには物乞いをするしかない。両親さえ自分を保護してはくれない。そんな状況にあって、彼は本当に孤独だったことでしょう。

そんな時に出会ったイエスさまは、目が見えないのはあなたが罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもないと宣言し、彼の目に触れ、シロアムの池で洗うように言われました。そんなことで生まれつき見えなかった目が見えるようになるのだろうかとイエスさまの言葉を疑い、言われるように行動しなかったならば、その目は開かなかったでしょう。しかし、彼はイエスさまの勧めに従いました。目が見えないのは誰のせいでもなく、「神の業が」あなたに現れるためだというイエスさまの言葉を受け入れ、言われるままにシロアムの池に行きました。

彼がイエスさまを信じたのは、人々との関りが絶たれ孤独の内にあったときに、自分と関わり、自分に触れ、真っすぐに向き合って言葉をかけてくださったイエスさまに励まされたゆえでしょう。

目が見えるようになり初めて社会へ出て行こうとしたとき、イエスを疎んでいたユダヤ人たちは彼を拒否しました。しかし再び、彼はイエスさまと出会います。イエスさまを主と信じ力を得た(神の業が現れた)その人は、力強い一歩を世の中へと踏み出して行ったに違いありません。

(新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1~13、28~38節)

牧師補 執事 下条 知加子

「人にどう思われるか」 2023.3.12

コロナ前のある夜、非常に混んだ地下鉄の車両の床に、ころっとしたピンク色の財布が落ちているのが目に止まった。人々はそれに気がつきながらも横目で眺めるだけで次々と降りていく。そして新しい人々が乗り込んでくる。拾う人がないままに、財布は床に座っている。やがてわたしは、自分の降りる駅を迎えてしまったので、手を伸ばして財布をつかみ、立ち上がった。ところが驚いたのは、(誰かが拾ってくれて)「ホッとした」ではなく、一部始終を見ていた人々が「あ〜あ、あいつ拾いやがった」という、突き刺さるような視線を、一斉に向けてきたことである。つまり落ちている財布を「自分のものにする」という誤解をされないために、この人々は財布を放置していたのだ。他人の財布を盗る人と思われたことはさて置き、「人にどう思われるか」がこんなにも大切な人々の世界観に驚いていた。

しかしながら、「人にどう思われるか」という視点が培われるのは、実際に受けた、人からのリアクションに加え、自分の中にも行動チェックをする別の自分がいて、むしろそちらの方が強烈な力があるように思います。無意識のうちにしかも素早く「人にどう思われるか」を察知して、身を護るよう警鐘を鳴らしてくる、そんな別の自分です。

今日の福音書のサマリアの女性にとって、イエスさまの行動は、最初は警鐘だらけだったに違いないのです。サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が話しかけてきて、さらに下手に出て何かをお願いする、この女性が不審に思っても何ら不思議はありません。親切に水を呑ませても、絶対に何か別ストーリーがあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリアの共同体からほれ見たことかと言われるかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて、自分は安全なのか、と気が気ではなかったに違いありません。ところが、信じられないことが次々とおきていきます。その町のサマリア人の多くがイエスさまの言うことに耳を傾け、神さまの愛を信じるようになります。ユダヤ民族としては切り捨てた人々なのに、イエスさまはサマリア人の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされます。民族や常識や宗教を超えて、また「人にどう思われるか」を超えて、最も優先すべきことを大切にしていくよう、人々が変えられていく、そんな奇跡の物語ではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「新たに生まれる」 2023.3.5

ニコデモはファリサイ派の律法学者(教師)で、ユダヤ人たちの指導者(最高法院に属する議員)でした。ユダヤ人指導者の中にはひそかにイエスを信じる人もいたのですが、そのことが知られるとユダヤ人共同体や会堂から追放されてしまうので公言はしませんでした。ファリサイ派の人々は、イエスが自分たちの立場や人々への影響力を脅かすと考え、恐れ、イエスを殺そうと企むようにもなっていきました。

そのような中、ニコデモは人目につかないよう夜遅くにイエスのもとを訪ねました。高い地位にあり宗教指導者でもある彼が、自分よりずっと若いイエスに対して「先生」と呼びかけていることから、イエスさまを尊敬している様子がうかがえます。そして、神の国に入るため-救われるためにはどうしたらよいか尋ねたのです。

イエスさまの答えは「新たに生まれ」ることでした。霊から生まれることによって「新たに生まれる」のだと言われているのですが、それは、新しい生き方をすることと言い替えることができるかもしれません。ニコデモは、イエスさまの言葉の意味を「もう一度、母の胎に入ってうまれること」だと考えたわけではないでしょうが、今ある地位や立場を捨てて生き直すことは、それと同じくらい不可能だと感じていたということではないかと思います。

この夜のイエスさまとの問答で、ニコデモはにわかに生き方を変える-生き直す決断をする-には至らなかったようです。しかし、イエスさまとの出会いを通して彼は変えられて行きました。ヨハネによる福音書でニコデモはこのあと2度ほど登場します。かつて密かにイエスさまに会いに行くことしかできなかった彼は、堂々とイエスさまを弁護する発言をし(ヨハネ7:50-51)、イエスさまが十字架上で亡くなられたとき、アリマタヤのヨセフと共に遺体を受け取り、墓に葬りました(ヨハネ19:39-40)。

今手にしているものをすべて捨てて生き直すことは易しいことではないかもしれません。けれども、本当の救い-真理-を求め続ける時、ニコデモのように、新たな生を生きる者とされることを信じたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「『誘惑』との別離」 2023.2.26

2月22日から大斎節(イースターを迎える準備の季節)に入りました。イー スターを迎えるまでの40日間を「大斎節」と呼びます。イエスさまが、荒野で、さまざまな誘惑を退 けたことに倣い、美食や気晴らし事を斥け「自身の弱さに向き合う」期節として 過ごす習慣がありました。昔は「娯楽」や「贅沢」がごく限られていましたので 自分の弱さと向き合うためには、そんな習慣も役立ったのかもしれませんが、 今や、娯楽や贅沢でないことを見つけるのが大変なほど、日常生活は様々な雑音 で満ちています。この現実の中では、40日間だけ何かを我慢したところで、自己満足や達成感を味わうだけとなってしまう危険もあります。具体的な過ごし方 については、個人の判断と考え方にお任せしていますので、まずは、イエスさま が遭われた誘惑について注目したいと思います。

1つ目は、「石をパンに変える」誘惑でした。災害が起きた時に、水や食料 を届けるのは必須ですが、それで「何かやってあげた」という気分になる誘惑も 含むのでしょう。当時、イエスさまだけではなく、多くの人がお腹を空かせていましたが、そんな人々の前で石をパンに変えて見せれば、身体が満足しただけで はなく、神さまの力を信じる人も出てきたかもしれません。しかし、イエスさま が紹介する神さまは、都合よく「物をくれる神」ではなく、また「自立を阻害 する神」でもなく、「愛」の神でした。

2つ目は、「神を試してみる」誘惑でした。目に見えず手で触れることもできない神さまを、悪魔は旧約聖書を引用し、心身が納得する方法で試すよう誘います。イエスさまは神殿の屋根まで連れて行かれましたが、人間の弱さを忘れていませんでした。「試し」た直後だけ神の存在を感じることができるかもしれませんが、 1秒後にはまた試したくなる。それは、いくら飲んでも喉が渇く塩水を呑むのと同じです。永遠に神を試し続け、そして不安しか与えられないというジレンマをよくご存知でした。

3つ目は「世界のすべてを支配する」誘惑でした。でも、神さまの国は、支配や秩序やルールによって守られる国ではなく、「愛」が基盤となり、人々が自由意志と、喜びと自らの責任において生き方を決める国です。そう最終的に心を決めたイエ スさまの道は、ここからはまっすぐ十字架に向かうことになります。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「大斎節に」 2023.2.19

間もなく大斎節(レント)に入ります。大斎節は、復活祭(イースター)を迎える準備の期間です。この期節、わたしたちはイエスさまのご受難を覚え、悔い改めの期節として過ごします。

大斎の始まりの日・大斎始日は灰の水曜日とも呼ばれます。この礼拝の中で司式者は会衆に、灰の十字架のしるしを受けることを勧めます。そして「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠をつくしなさい。」と唱えながら、一人ひとりの額(おでこ)に十字架のしるしをつけるのです。この灰は、わたしたちが悔い改めを必要としていることを思い起こすためのしるしですが、わたしたちがいつかは死に至るものであることをあらためて思い起こすよう促すものでもあります。

普段、一定の健康に恵まれ、滞りなく日常を過ごしている時は、いつか必ず死が訪れること、それは明日、あるいは今日かもしれないということを忘れがちです。自分が、あるいは自分たちが自力で上手くことを運べているように思う時、自身が弱く儚い存在であることも、助け合って生きることの必要と大切さも、つい忘れて過ごしてしまうように思います。

しかし、災害や紛争・戦争に遭遇するとき、死ということを意識せざるを得ないとき、わたしたちは助け合って生きることへ向かわされるのかもしれません。先だっての東日本大震災の折には、127もの国から日本へ、ボランティアが来てくれたのだと聞きました。

わたしたちが、ちりから造られ、ちりへと帰ってゆく儚い存在であることをあらためて意識するとき、そんなわたしたちのためにその生涯と命をささげてくださったイエスさまの愛を思います。その大きな愛を無駄にしてはならないと、今あらためて思います。
悔い改めよとの呼びかけは、愛することを忘れていませんか、という呼びかけではないでしょうか。わたしたちがイエスさまの愛に倣う者とされますよう祈りつつ、この大斎節を過ごしてゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「神さまの前に生きる」 2023.2.12

日本では「言葉化する」ことをあまり良しとしない風習があるせいか、言葉以外の表現に対して、許容度が高いように思います。不快な表情や無言の応答など、明らかに表情では苛立っているのに言葉化はせず、「言わなくてもわかるでしょ」といった一種の「会話」が通用する社会なのかもしれません。もし無言のまま表現し合えるのであれば、「会話」として成立するのかもしれませんが、大概の場合はどちらかが察し、会話をする前に終了してしまうことがほとんどでしょう。しかも「言わなくてもわかってほしい」という甘えが混じっていることも多いので、なかなか厄介です。

ユダヤ人社会でも、律法に照らして「間違い」とは認識されないものの、神さまの「愛」に反する行為は見過ごしにされてきました。密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりすることは、律法に反したとは明らかにされないので許容されてきたのでしょうが、イエスさまはこういったことに対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」とおっしゃいます。

しかも具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、たとえ口に登ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるとおっしゃっています。

しかし「裁きを受け」ないために、何一つ間違うな、とイエスさまが言っているわけではありません。重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが目的ではなく、こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、実は本人の心と身体と魂の健康を少しずつむしばみ、愛に基づかない判断や自分を絶対化する傾向、そして最終的には神さま不要の生活になってしまう。しかもそれに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっています。神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めていきましょう。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「地の塩、世の光」 2023.2.5

「塩」には、料理の味付け、防腐剤、あるいは清めに用いるなど、沢山の役割があることはご存知の通りです。塩はわたしたちが生活する上で欠かせません。また、わたしたちの命を保つためにも、塩というもの不可欠です。その重要性は、調べれば調べるほど、深く判明してくるようです。

「光」も大切なものです。光がなければ、わたしたちは見ることができません。物の色もわからないし、その大きさや形を知ることもままならないでしょう。私たちが生きて行く上で、光は無くてはならないものです。

イエスさまは、話を聞いている弟子たち、また話を聞きに来ている多くの人々に向かって、あなたがたは「地の塩」、「世の光」であるとおっしゃいました。あなたがたは大切な存在です、無くてはならない存在なのですよ、と伝えようとされたのだと思います。

イエスさまが弟子として招いた人たちは、社会的に地位が高いわけでも、ことさら優秀なわけでもなく、生きることに不安を抱えていたり、当時のユダヤの社会の中で罪人とされている人も含まれていました。話を聞きに来ていた群衆の中にも、罪人とされている人や、様々な病に苦しんでいる人びとが大勢いたのです。自分など生きる価値があるのだろうか、このままでよいのだろうかと悩んだり、希望を見失っている人びとも少なからずいたのではないかと思います。

あなたは大切な人、無くてはならない尊い存在だと聞かされて、彼らはどんなに励まされたことでしょう。あなたは闇ではない、光なのです。燭台の上から家のものすべてを照らし、その光を人びとの前に輝かせなさい、と言われて再び生きる希望を見いだした人もいたに違いありません。

イエスさまは今を生きるわたしたちに向けても語っておられます。誰一人としてこの世界に不必要な人は存在しないと。生きることに困難を感じ、あるいはその意味を見失いかけているときにこそ、「あなたは地の塩/世の光」と語りかけてくださるイエスさまの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「心の貧しい人々が幸い?」 2023.1.29

「心の貧しい人々は、幸いである」とは、山上の説教とよばれるイエスさまの教えをまとめたものの冒頭に記されている言葉です。最初に語られているのだからよほど大切なことなのだろうとは思いつつ、少々わかりにくい教えだと感じる人は多いと思います。心が貧しいってどういうこと?心の貧しい人って誰?貧しいのに幸せなの?と、次々に疑問が湧いてきます。

普通に考えれば、心の豊かな人が幸いなのでは?と思えるかも知れません。でももしその豊かさが、自分の望んでいるものだけで心が満たされている状態だとしたら、その人はそれで満足し、他の物事が入り込む隙間が無くなってしまっているかもしれません。そんな時はきっと、何かに頼る必要も感じないことでしょう。

反対に、心が貧しいというのが、自分の望むものが得られず、心が空っぽのような状態だとしたら―自分の無力さを自覚し、虚しさを感じているとしたら―そこには他の物事の入る余地があります。望ましくないものが入り込んでしまう危険もありますが、神さまの言葉が、メッセージが、入る可能性があるということにもなるのだと思います。そういう意味で、心の貧しい人は幸いであると言われているのではないでしょうか。

人は自分の現状に満足してしまうと、神さまの言葉に耳を傾けることを忘れてしまうのかも知れません。私が、私たちが、今のままでいられればそれが一番都合が良いように思われるし、何より楽なのです。けれど、一旦、この世の不条理や、不正義が横行し決して平和とは言えない社会に目を向けたとき、私たちはどのように応答しているでしょうか。

「幸い」と題されたこの箇所には8つの幸いについて語られています。どんな人々が「幸い」なのか。それは心から神さまを求める人々なのだと思います。そしてまた、他の人々の心の平和のため、社会の正義と平和のため、行動を起こす人こそ幸いであるとも、イエスさまは語っておられるような気がしてなりません。

牧師補 執事 下条 知加子

「天の国はすでに近くにある」 2023.1.22

クリスマス物語に登場する「羊飼い」は、人々から少し見下されていた職業だったことは度々お話ししましたが、今回登場する「漁師」もまた同じような職業だったようです。現代では漁師というと、数ヶ月に渡って北の海で漁を行う「たらば蟹」漁などでは、大きな危険ときつい肉体労働が伴うものの、無事に帰ることができれば収入も悪くない、「勇ましい」というイメージもあります。しかし今日の聖書に登場する漁の現場はガリラヤ湖。遠浅で、普段は穏やかな湖ですが、山々に囲まれている地形から突然強風が吹き、船がひっくり返ることもあります。しかし北の海の厳しさとは格段に状況が異なり、魚の種類も多いわけではなく、網を繕ったり船の修理をしたりと手数がかかる割には、地味で資本も不要、尊敬を集めるような職業ではなかったようです。

それは一旦置いておいて、「天の国は近づいた」という言葉を最初に問題にしたいと思います。もしこれを「この世の終わりが近づいている。審判の時がすぐそこに迫っているから、今のうちに良い人になって、天国に入る準備をしておいた方がよい」というふうに読んでしまうと、その情報を手に入れることが出来た「早い者勝ち」のように聞こえてしまいます。しかし原文を見ると、「天国は(すでに)近くにあるのだから、考え直しなさい」とも訳せます。イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、「あなたには関係ない」とされてきた貧しい庶民や社会的地位の低い人々に、「他ならぬあなたの近くに、天の国はある。だから、自分は関係ない、なんていう考えは変えなさい」と、イエスさまが言っておられるように思うのです。


さらに追い討ちをかけるのが、「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。読み方によっては、食べるために魚を捕まえるように、商品のように人間を捕まえる、という話に聞こえてしまいますが、こちらも原文を見ると、「私はあなたを人間の漁師にしよう」とあるだけで、狩のように「人間を獲る」とは書かれていません。この方がわかりやすいだろうと言葉を添えたのかもしれませんが、イエスさまがおっしゃりたかったのは、人を獲るという意味ではないように思います。

つまり、社会的に一人前の大人の仕事とも認められていなかった職業の一つである漁師に対し、職業を変えるのではなく「あなたはあなたのままで、すでに一人の人間として神さまから尊重されている。そういう者として生きなさい」とイエスさまは告げておられるのではないでしょうか。


牧師 司祭 上田 亜樹子

「何を求めているのか」 2023.1.15

ヨハネの二人の弟子は、ヨハネがイエスさまを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言うのを聞いて、イエスさまに従って行きました。二人は師であるヨハネを信頼しつつも、ヨハネ自身がまだ何かを探し求めていることに気づいていたのでしょう。そして、イエスさまに対するヨハネの眼差しから、イエスさまの中にその答えがあるかも知れないと感じたのでしょう。 

イエスさまについて行ったところ、「何を求めているのか」と聞かれた彼らは、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねます。イエスさまは「○○に泊まっている」とは答えず、「来なさい。そうすれば分かる」とお答えになりました。どこに泊まっているのかという質問は、ただ宿泊場所を聞いているのではなく、どんな場所に留まり、どのようなことをなさっているのかを知りたいのだと察したゆえの返答だったのだと思います。二人はゆく道々、イエスさまの話を聞き、イエスさまのなさることを手伝ったことでしょう。そしてその日はイエスさまのもとに泊まりました。 

二人はイエスさまと共に過ごす中で、真にイエスさまに出会い、自分たちの探し求めていたものを見つけたに違いありません。ただ話を聞くだけでなく、一緒に過ごし共に体験する中でこそ最も大切なことに気づくことができるのだと、イエスさまが教えてくれたようです。二人の内の一人アンデレは、そのあと自分の兄弟シモンに会い、「わたしたちはメシアに出会った」と告げ、イエスさまのところに連れて行きます。シモンもまた、共に過ごす中で探し求めていたものと出会い、イエスさまに従う者となってゆきました。 

わたしたち自身の本当の願い、心の奥底で探し求めていることは何なのか。それは自分の力だけでは知ることの難しいことですが、イエスさまとの出会いによって知ることができるのかも知れません。一番大切なそのことに気づく道筋が、わたしたちにも示されますように…。

牧師補 執事 下条知加子

「なぜ、イエスさまが『洗礼』を?」 2023.1.8

前にもお話ししたかもしれませんが、中世のキリスト教会では、亡くなる直前まで「洗礼を受けること」を引き伸ばす習慣が流行していました。洗礼を受けることによって、それまで犯した「罪」が全部帳消しになると信じていたので、確実に天国へ行く「ノウハウ」として、洗礼によって清廉潔白となる必要があると考えたからです。

しかし、今日の福音書では、罪のない「神の子」イエスが洗礼を受けています。うろたえるバプテスマのヨハネに対し、「今は止めないでほしい。正しいことだから」と答えるイエスさまですが、「罪を帳消し」にされる必要があったとは思えません。また、洗礼の場面なので、つい「水」のことばかり記憶に留まってしまいますが、イエスさまご自身は洗礼を受け、そして続いて「神の霊が鳩のように降っ」たと書かれています。つまり、「水で洗うこと」と「神の霊が降ること」はセットであり、本来は1つの出来事なのですが、さまざまな経緯により、前半を「洗礼」、そして後半を「堅信」とみなすようになりました。

でも、「神の霊が降った」からといって、別にビビビッと電流が流れた訳ではないでしょう。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の霊が降って「愛する子」と宣言されたように、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたすべての人々は、実はすでに神さまの「愛する子」と宣言されているのではないかと思うのです。それを受け入れるのには、とても大きな勇気を必要とするかもしれません。なぜなら、目に見える確証はなく、音としても聞こえないからです。

現代のわたしたちにとっての洗礼は、これからの人生を神さまと共に歩きたい、イエスさまが示してくださった「愛」に信頼して生きていきたい、その決断を公表することであり、このための努力を自分も続けられるよう、教会の皆さんに祈って支えていただきたいと公言することでもあるでしょう。

しかも洗礼は、依存の対象を人間から神へ転換する、ということではありません。間違えても失敗しても、迷っても怠けても、あるいは良い子でいても悪い子になっても、決して見放すことのない方が、自分をしっかり支え続けてくださる、神さまは自分を「わたしの愛する子」と呼びかけておられる、と信じることなのでしょう。それが、わたしたちが洗礼を受ける時に、神さまと交わしたお約束なのではないかと思うのです。そしてその模範を示してくださるために、イエスさまはわざわざ洗礼を受けてくださったのかもしれないなと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「その名はイエス」 2023.1.1

クリスマスを迎えて1週間が経ちました。12月25日から数えて8日目の1月1日、今日は主イエス命名の日として守られています。ユダヤの社会では男の子が生まれると8日目に、名付けと割礼を行なうことが義務付けられていました。割礼はユダヤ教にとって非常に重要視されていましたので、かつては割礼を受けたことを記念する日と定められていましたが、現在では「イエス」と名付けられたことが大切であるという意味で、命名の日として祝われるようになっています。

私たちにも一人ひとり名前があります。名付けというものは自然と“思い”がこもるものだと思います。みなさんそれぞれの名前は、親や祖父母、あるいは近しい人が、あなたにはこういう人になってほしいという願いを込めて付けられたことでしょう。私たちにとって名前は大切なものです。
ユダヤの人々にとっても、名前というのは特別な意味をもっていました。名は体を表すと言うことがありますが、名前は願いや思いという以上に、人や物の本質を表すものと考えられたのです。


イエス(ギリシャ語でイエス―ス、ヘブライ語・アラム語ではヨシュア)という名前は、当時のユダヤでは平凡な名前でしたが、その意味は「主は救い」というものです。マリアが懐妊前に天使ガブリエルから告げられた、またヨセフが夢で天使から示されたその名前はイエス。クリスマスに生まれた幼子は、イエスと名付けられました。そしてその名の通り「私たちの救い」となられました。

神さまが私たちを愛するがゆえに送ってくださった幼子は、神さまが私たちを救うためにこそこの世に来られたということを、あらためて思いめぐらしたいと思います。
主イエスが私たちとともにおられますように!

牧師補 執事 下条 知加子

「ことばは、わたしたちの間に宿った」 2022.12.25

言うまでもないことかもしれませんが、神さまは目に見えません。(見える人もいるかもしれませんね)
そのままでは目に見えず、音として聞くことができず、風や香りでもなく、いかなる「かたち」にもなり得ないのが、神という存在です。つまり「ここにいる」「あそこにいる」と言われても、証拠はありません。

しかし「証拠のない」神を信じるためには、人々はしるしを求め、すがる「物」を探し求めます。すると、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、これ幸いとばかりに、人々をだます人も現れます。本当は、ひとりひとりが自分の良心と洞察力を駆使し、偽物か本物かを見極めれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。神の存在そのものの捉え方があやふやな人間は、神のご意志についても、あれこれと道に迷ってきました。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)や律法を送ってくださいましたが、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐにそんな神の苦労も忘れ、再び道に迷う生き方を人々は繰り返してきました。

そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる神に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に人々に示しました。

「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂は真実を知った。つまり、人はどのように生きるべきか示され、その指針は希望の光として、すべての人々に宿った。「イエス」と名前の付く前の存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感動しながら、わたしたちにそのことを伝えています。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「共にいる」 2022.12.18

今日読まれる福音書では、イエスの父となったヨセフにスポットが当てられています。婚約者のマリアが妊娠したことを知ったヨセフ。どんなに動揺したことでしょう。婚約中に妊娠したことが知られれば、マリアは不貞を犯したということで周りから責められ、訴えられるかもしれません。女性の不貞の罪は石打ちで処刑されるのが律法の定めでした。また、他の男と関係をもった女性と結婚することは律法で禁じられていました。これはもう、婚約を解消するしかないのではないか。ヨセフは悩みます。

彼は「正しい人であった」と書かれていますが、この言葉の原語は、公正な、律法に忠実である、というだけではなく、曲がったことのきらいな性格という意味もあります。マリアを大切な存在に感じていた彼は、この事件によってマリアが後ろ指を指されて生きて行くこと、まして処刑されるなどということを何とかして避けたいと考えたのでしょう。マリアを心から愛していたのです。ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心します。

しかし、縁を切ったところで生まれた赤ん坊を抱えたマリアは生活していけるだろうか…。そんなことを思い巡らしているところへ、主の天使が夢に現れて、言いました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」不安と恐れに心を埋め尽くされていたヨセフに、神さまの言葉が与えられたのです。わたしがあなたと共にいる(インマヌエル)。わたしがあなたたちを助ける。だから、マリアとその子を受け入れなさい。その言葉は希望の光となりました。ヨセフは神さまに信頼して従い、妻とその子を迎え入れる決断をしたのです。こうしてヨセフはマリアにとって無くてはならない助け手となりました。

天使は「その子をイエスと名付けなさい」と言います。イエスという名前は“神は救い”という意味です。神さまはイエスさまを通して先ず、ヨセフと、そしてマリアに、「共にいる」ことを知らせ、救われました。
わたしたちも、どうしようもない、八方塞がりと思えるような困難に出会った時こそ、神さまが共におられることを思い起こし、神さまが救ってくださることを信じて、希望を持って歩みを進めてゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「クリスマスを迎えるということ」 2022.12.11

今週も、バプテスマのヨハネのお話が続きます。このあとの記事によると、ヘロデ王の不正を指摘したかどにより、ヨハネは逮捕され牢獄の中で亡くなります。牢屋で「これで一巻の終わりか」という予感があったのかもしれません。

自分は命がけで神の国について人々に語ってきた、家族や安定した生活も捨てて自分の役割を果たしてきた、それが使命だと信じていたから。なのに人生の終着点が逮捕と死とは。ひょっとしたら、自分は何か思い違いをしたのではないか。そんな考えがヨハネの頭をよぎったのでしょう。イエスさまのことをみんなに知らせるのは、本当に自分の役割だったのか、自分の思い込みだったかもしれない、自分は情けない敗北者か。そう思うと、ゾッとするような冷たい風が、ヨハネの背中を下から上へと駆け抜けました。そして彼は、イエスさまに聞いてみようと思いました。

そこでヨハネは、牢獄から自分の弟子に使いを送り、「これで良かったのでしょうか」と、イエスさまに問います。ヨハネは、「そうだ。あなたは間違っていない。安心して逝きなさい」というイエスさまの答えを期待していたのかもしれません。

でもイエスさまは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と返事します。なんだか肩透かしのようでもありますが、ヨハネの人生だけに限って、当たりハズレを答えたのではなく、イエスさまを通じて人々の間に起き始めていること、常識的に考えて「ありえないこと」が始まった、つまり神の国が地上に展開され始めているのだ、と答えたのです。

イエスさまが挙げた様々な事例は、当時の常識では、ありえないことでした。目や耳や足が不自由な人は、神から見放され、祝福から漏れているからそうなった、と考えられていました。同様に、「死者」は社会復帰するはずはなく、貧しい人への福音なんてあるはずないと信じられていました。困難に遭う人は、神から見捨てられ、愛される資格がない人、と考えられていたからです。ところがイエスさまは、全く正反対のことを人々に告げています。

掟をきちんと守り、清く正しく生活することができる人ではなく、貧しい人たちこそが「福音」、つまり「良い知らせ」を告げられている、というのです。それは、イエスさまが家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたこととも通じるかもしれません。偉大な神として君臨するためではなく、超能力によって人の興味を引くためでもなく、苦しみや悲しみを抱えた人々と、徹底して一緒にいようとする神を伝える。そんなイエスさまの目的を、バプテスマのヨハネも時には忘れ、大きな不安に取り憑かれた、ということなのでしょう。

社会的に言えば、ひとりぼっちで獄中で亡くなったヨハネは、「成功者」ではないでしょう。でも神さまの目にとっては、自分の役割を果たした人。そんな人々に支えられて、クリスマスを迎えていくのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「荒れ野で」2022.12.4

洗礼者ヨハネはユダヤの「荒れ野で」活動していた、と聖書は伝えています。多くの人びとに教えを伝えようとするなら、普段は誰もいないような荒れ野より、大勢の人が集まっている都市や町での方が都合が良いように思われますが、なぜ荒れ野で、だったのでしょうか。

当時ローマ帝国の軍事支配下にあったユダヤの国は、決して平和とは言えませんでした。例えば現在の沖縄のように、戦争中でなくても軍事基地があったり、兵士が町の中にいくらでもいるような状況では、平穏無事な日常は守られないことでしょう。そんな社会の中で人びとに悔い改めを勧めることは「荒れ野で叫ぶ」ようなことだった、ということかも知れません。

あるいは、ヨハネが悔い改めることをまず勧めたかった人びとは、当時の社会の中で生き辛さを感じている人びと、周縁に追いやられている人びと、人としての尊厳を奪われている人びとだった。荒れ野で過ごすような厳しい生活を強いられている人びとに救いがおとずれることをまず願って、ヨハネは宣教していた、ということかも知れないと思います。

一方で、荒れ野は自分自身を顧みるのにふさわしい場所であるとも考えられます。物事を、普段自分が見ているのとは違う視点から見直すためには、日常の喧騒から離れ、静かに過ごすことは有効です。また、ヨハネが勧めていた悔い改め、そして洗礼は、低みに立って見直すことでした。川が流れる低い土地の、さらに川の底に立って、最も低い所から事柄をながめる。すると、それまで見えなかった景色が見えて来ることでしょう。

もうすぐクリスマス、平和の君なるイエス・キリストがやって来る。その道備えをする者として遣わされたバプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、私たちも今一度、荒野で、低みに立って見直すことをしてみたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「ひとり分を抱きしめる」 2022.11.27

教会の暦の新しい一年が始まりました。日本のお正月ですと、なんとか新しい年を迎えることができて良かった!という意味で、お祝いをもって新年が始まりますが、ユダヤの伝統も引き継いでいるキリスト教では、まず闇の存在を意識することから新年を始めます。クリスマス前の4週間は、1年で最も夜の時間が長い季節。午後の仕事に少しとりかかるだけですぐに夕闇が迫り、なんとも寂しい気持ちになります。でもそれは、単に日照時間が短くなって気が滅入る、ということだけではなく、太陽が燦々と照り輝く昼間には見えなかったものが、闇に包まれると見えてくる、といった暦でもあるのでしょう。言い方を変えれば、心に刺さるような歪んだ社会の構造や、自身の心の陰に潜む弱さや不完全さについて、目をそむけずに向き合ってみましょう、という暦なのではないでしょうか。

弱さや不完全さは克服しなければならない、人に見せてはならない、というモードがとても強い社会に住んでいるせいもありますが、辛いことや面倒なことはなるべく避けたい、話題にせずに済ませたい、と思うのは自然なことかもしれません。人生が順調に進んでいる時はそれでもなんとかなるので、弱さは克服された、もはや向き合う必要もないのだと思い込むことができますが、“逆境”に襲われると、途端に弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされます。だからといって聖書が、「いつもビクビクして備えなさい」「諦めて限界を受け入れなさい」と勧めているわけではないと思うのです。

「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」というこの聖書の言葉は、二人のうち一人しか命が助からない、という意味ではないでしょう。一人分の「わたし」なのにもかかわらず、二人分以上の重荷を背負い潰されそうになりながら、でも現実は見ないようにして進んできても、困難がひとたび襲うと、それを直視することになるという話ではないかと思うのです。しかもこの「直視」は、わたしたちの限界を受け入れ「仕方がないからあきらめましょう」という意味ではなく、実は「ひとり分だった自分」を認めることへのおすすめであり、もしそのことを認識できると、戦い傷つき苦しんでいる、多くの周りの人の姿が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。

一年の初めの日曜日は、クリスマスに向かう心の準備の始めの日です。無防備な新生児の姿をとり、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備とは、思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を大切にすること。そして、そのことを告げるために、命を捧げたイエスさまの声に耳を傾けること。そんな、クリスマスへの準備をしていきましょう。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「隣人の救いだけを」 2022.11.20

イエスさまが十字架に架けられたとき、議員たちはあざ笑って「自分を救うがよい」と言い、兵士たちは侮辱して「自分を救ってみろ」と言いました。イエスさまとともに十字架に架けられた2人の犯罪人のうちのひとりも、「我々と自分自身を救ってみろ」とののりしました。

沢山の人々を救い、人々の称賛を受けていたはずのイエスさまは、同胞のユダヤ人たちを惑わす者として捕らえられてしまいました。そしてローマ総督の前に引き出され、ついには十字架刑を受けることになってしまいました。沢山の人々を救ったイエスさまが、捕らえられ、十字架に架けられたとき、多くの人々はがっかりしたことでしょう。ユダヤの新しい王になると言われていた人が、逮捕され、極刑に合うことになるなんて…。

私たち人間は、大抵の場合まず自分を救うことを考えるでしょう。沢山の人々を救ったのに、自分一人を救うことができない人間が本当の王だとは、とても思えなかったのです。「自分を救ってみろ」と言う人たちには、イエスさまが神さまからの力をいただいているようには見えなかったのでしょう。

しかし、この時ただ一人、ともに十字架に架けられたもうひとりの犯罪人だけは、十字架によって殺されようとしているイエスさまに救いを-神さまからの力を見ました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。それは死んだ後に神の国に行けるというよりも、今この時イエスさまと出会い、救われたということを示しているのではないかと思うのです。

もしイエスさまが、自分自身を救いたい-十字架刑から逃れたい-と思ったなら、いくらでもそうすることはできたはずです。しかしそうはなさらなかった。自分ではなく目の前にある人=隣人の命を救うことに徹し、極刑に処せられることさえ厭われなかった。そして、ご自分の命が尽きようとするその時まで、目の前にいる人が救われることだけを願い、祈り続けたのです。

私たちがどんな困難や苦しみの内にある時も、それを知り、私たちが救われることを願い祈り続けてくださっている方がおられることを、忘れないでいたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「どんな窮地でも!」 2022.11.13

今まで遭ったことの無い事態、対応能力を越えるような状況、考えもしなかった事件など、天変地異も含め想像を絶するような出来事に遭うことは、考えるだけでも怖くなります。今日の福音書を読むと、やがてやって来る危機を前に、わたしたちが怯えないため、イエスさまが教えてくださっているようにも感じます。しかしながら、ルカによる福音書がまとめられたのは、十字架の出来事より少なくとも数十年後。すでにキリスト教徒への迫害の真っ只中の時代でした。多数が犠牲になり、国や民族間だけではなく、家族間でも裏切りや騙し討ちが横行し、もう何が真実なのかわからなくなる。そんなとき、「こうすれば大丈夫」といった怪しい宗教も出没。心配でたまらない人々は、真偽を確かめる心の余裕もなくすがりついてしまう、そんな状況が目に浮かびます。

でもこのことを、遠い昔の出来事なのだから、今は大丈夫と思うのも、少し本当ではない気がします。戦争や殺戮が続く国々、自国民を虐げる権力者が、今この瞬間も力をふるっている事実を、わたしたちは知りながら、しかし呆然とするほど無力で、もう何をどうすればよいのかと絶望的な気持ちになりますが、そんな中でも、わたしたちにできる事があります。

それは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」との約束を、真に受けることです。「もしそれが本当なら、信じてみてもいい。しかし保証はどこにあるのか」と言うなら、この言葉を信じてはいないということでしょうが、イエスさまは、交換条件や取引に応じてほしいと言っているのではありません。むしろ、わたしたちが自分の力だけで窮地を何とかしようと力みながら、絶望感に満たされることについて、そこから救おうとされているのだと思うのです。どんな状況に落とし入れられても、騙されても誤解されても、イエスさまだけはわかっていてくださる。そして必ず、必要な言葉と知恵を与えてくださる。どんな窮地でも「命をかち取る」ために、いたずらに心配を膨張させるのではなく、心をイエスさまに向けること。とてもシンプルなおすすめなのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「復活する」 2022.11.6

エルサレムに入り神殿から商人を追い出したイエスを捕らえようと、機会をうかがっている祭司や律法学者たちがいました。律法を字義どおりに守ろうとし、復活を否定しているサドカイ派の人々も同様でした。 

ある日サドカイ派の何人かが、モーセの書にかかれているレビラート婚と呼ばれる律法を持ち出して、イエスに問答を仕掛けました。結婚した男女に子どもができないうちにその男性が亡くなったら、弟が寡婦となった女性と結婚して兄の跡継ぎをもうけなければならない。もし復活ということがあるならば、7人の兄弟と次々と結婚することとなり、子どもを産むことなく地上での生涯を終えた女性は、その時一体誰の妻ということになるのか。そんな矛盾が起こるのだから、復活などあり得ないではないか。しかしイエスさまは、復活はこの世の営みの続きにあるものではない。地上の世界とは全く違う価値観、在り方がそこにはあるのだとおっしゃっています。 

長男の名前を存続させるための結婚。そこで女性が担わされるのは、男性の所有物となり、その家の子どもを産むことでした。また、結婚した相手が亡くなって独り身になってしまったら、女性は生きて行くこと自体が困難になります。亡夫の弟と結婚するのが、生き延びてゆくただ一つの道だったかもしれません。女性たちは、それらの枷に縛られ、自分自身の生き方を自由に選び取ることはできませんでした。常識とされていたそれらのことによって、実は男性たちもまた、自由を奪われていたはずです。 

この世での生涯を終えて次の世に入った人々は、地上で負わされていたすべての枷から解放されます。そこでは、めとることも嫁ぐこともありません。復活によって新たな命の内に生かされる人は、一人ひとりが神さまとつながり、神さまによって自由に生きるのです。 

牧師補 執事 下条知加子

「温かな声で呼ばれて」 2022.10.30

ザアカイは徴税人でした。徴税人は、正規の税に高額な手数料を上乗せして私腹を肥やし、民衆を苦しめていました。また税金を払えない人に対する懲罰権を持っており、多額の現金を持って歩き回るために護衛を連れていたので、民衆への不当な懲罰や暴行が行われることも多くありました。そんな徴税人の頭であったザアカイは、お金に不自由することこそなかったけれど、人々には嫌われ、疎まれていました。彼は、自分はこのままでよいのだろうかと悩んでいました。自信を持つこともできません。加えて自身が背が低いということも劣等感-自己否定の気持ちに繋がっていただろうと思います。

ある日、イエスという人がザアカイのいる町にやってきました。人びとを救いに導くとうわさされていたその人を一目見たいと思ったけれど、背の低いザアカイは群衆に遮られて見ることができません。そこで先回りしていちじく桑の木に登り、待ち伏せしていました。すると、通り過ぎてゆくと思っていたイエスがその下に立ち止まり、「ザアカイ」と呼びかけます。名前を呼ばれて驚くザアカイ。しかし、さらに「今日、是非あなたの家に泊まりたい」と言われてびっくり。青天の霹靂、急いで木からおりると、大喜びでイエスを家に迎え入れました。

温かな声で自分の名を呼ぶ人に出会い、自分の家に招き、寝食を共にする。すべての人から否定され、自身も自分を否定し、愛されるはずなどないと思っていたザアカイは、イエスさまとの交わりの中で“愛されている”ことを実感したことでしょう。自分が愛されていること、愛されてよい存在であることを知ったザアカイは立ち上がります。「財産の半分を貧しい人に施します…」という宣言は、愛されることによって彼の生き方がすっかり変えられた、人々を愛するようになったということを示しています。
どうかすべての人が、神さまに愛されていることを知り、愛する人とされてゆきますように。

牧師補 執事 下条 知加子

「自分を底上げしない」 2022.10.23 

今日の福音書では、「ファリサイ派の人」と「徴税人」が祈るというたとえ話ですが、まるで勧善懲悪話のような、内容のコントラストに、少しうろたえ気味なのは私だけでしょうか。

イエスさまの時代は、律法をきちんと守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「立派で信用できる」と尊敬されていました。ところがこの人は、口に出しては言いませんでしたが「他人を見下し」、祈りの中でさえも「私は不正や略奪や不倫もせず、献金も断食も正しく行い、徴税人のような者ではない」ので、神に感謝したりしています。

一方の徴税人は、不幸で孤独な職業です。誰もが「ああはなりたくない」と思う人生を送っているわけですが、自分は神さまに合わせる顔などないと言わんばかり。顔を伏せたまま「主よ、憐れみたまえ」と祈ります。そしてイエスさまは、神さまが「義(正しい)人である」と認めるのは、ファリサイ派の方ではなく、惨めな徴税人だと、そういう話です。

このファリサイ人のように、掟の実行を自慢し、人としての自分は「上」であるかのような祈りを聞くと、こんなひどい祈りを普通するか?とも思いますが、実はこの人には、このような段取りを踏まないと、祈れない事情があったのだと思います。見下せる対象を探し出し、「この人よりも上等な私なので、神は喜んでくださる」と思わないと、とても不安で神さまの前になど立てないと。つまり何も出来ない何もしない自分では価値がないので、褒めてもらえそうな善行を身に纏うことによって、やっと神に愛される、と考えているからなのでしょう。この人の一番大きなズレはそこかもしれません。

徴税人の祈りは「こんな私ですが、あなたの憐れみをください」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、彼の生涯が苦痛に満ちていたからではなく、自分を底上げしなくても聞いてくださる神を信頼しての祈りだったから、かもしれませんね。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「信じてゆだねる」 2022.10.16

ひとりのやもめが、その地域を担当する裁判官に「わたしを守ってください」と訴えています。やもめという社会的に非常に弱い立場にあった彼女は、生きてゆくためにはこの裁判官に頼るしかありませんでした。しかしこの裁判官は、このやもめの訴えをしばらくの間は取り合おうとしませんでした。この訴えを取り上げなかったからといって法的には責められることのない状況だったのです。「神を畏れず人を人とも思わない」人でしたから、訴えてくる人の立場の弱さを思いやって何とかしてやろうとは考えなかったのでしょう。 

そんな裁判官でしたが、何度もやって来ては訴えるやもめが「うるさくてかなわないから」自分が困るという理由で、彼女のために裁判をしてやることにしました。裁判の結末は書かれてはいませんが、訴えを取り上げてもらえる、裁判をしてもらえるということ自体、人として生きる権利を認められたことの証しになります。このやもめにとってそれは大きな喜びに違いありません。 

人を人とも思わない、自分のことだけ考えているようなこの裁判官でさえ、ここしか頼れないという必死の訴えを聞きました。まして、一人残らず全ての人を大切な存在として大事にしてくださる神さまは、「昼も夜も叫び求めている」人たちをいつまでもほうっておかれるはずはないのです。 

「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるために、イエスさまはこのお話を弟子たちに語ったと言われています。それは、沢山祈れば神さまが望みをかなえてくれるとか、頑張って祈り続けなさいということではないでしょう。自分は弱く、神さまに頼るしかないことを認めて、自分ではどうしようもないことを神さまの計らい(裁判)にゆだねなさいというお勧めなのです。どんな困難があっても、気を落とさず、神さまに信頼して歩みを進めて行きたいと思います。 

牧師補 執事 下条 知加子

「神を賛美するために戻って来た」 2022.10.9

一生治らないと思っていた重い病を、イエスさまに癒やされた10人のうち、喜ばなかった人は誰もいないでしょう。自分には人並みの生涯なんて、死ぬまであり得ないと思っていた、そんな10人が自分の人生を取り戻し、躍り上がって喜ぶ姿が、まるで目に浮かぶようです。

当時「重い皮膚病」を患っている人々は、間違って近寄る人のないように、また感染することのないように、人の姿が見えるやいなや、「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ばなければなりませんでした。これは、疾病を負って生きる大変さに加え、社会生活をする人権も剥奪され、さらに「病にかかったのは罪の結果」というレッテルも貼られる、とても苦しい人生だったことでしょう。

そんな病いから解放された10人のうち、たった一人だけが、イエスさまのところに戻り、「神を賛美するために戻って来た」者と呼ばれます。この人は、戻って来てイエスさまの足元に辿り着き、神に感謝を捧げた。当時の社会では、感謝することと賛美することは、同義語であったと言われます。しかしながら、「賛美」とは、さすがだと褒め称えられ、祭り上げられ、おそなえが捧げられる、といったようなことではないのは明らかでしょう。

イエスさまが、戻って来たこの人の行動の中に、神さまを賛美する姿を見たのは、「病気を治すとは、すごい神さまだ」と拝んだからではなく、この人が自分もまた「神さまにとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知り、自分も厄介者扱いされるのではなく、愛され大切にされてよいのだという真実を、心の底から信じることができた。そのことこそ、神さまを賛美することであり、神さまが望むことである、と悟ったからではないでしょうか。

わたしたちは聖餐式の中で「感謝と賛美はわたしたちの務めです」と唱えます。わたしたち自身もまた「神さまの大切にしている者」であると、心の底から信じたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「信頼して」 2022.10.2

使徒たちがイエスさまに、「信仰を増してください」と願っています。その理由は色々とあったのだと思いますが、聖書の直前の箇所を読むと、誰かをつまずかせたり、罪を犯した兄弟を戒めることができなかったり、悔い改めている兄弟を赦すことができなかったり、という出来事があったようです。

れに対してイエスさまは、「からし種一粒ほどの信仰があれば…」とおっしゃっています。そんな少しだけで本当に良いのですか?と聞き返したくなるようです。しかし信仰というのは、これくらいありますと誰かに見せることも、その量を客観的にはかることもできない。他の人と比べて多いとか少ないとか言えるものでもない。信仰=わたしに対する信頼=が“有るか無いか”なのだとイエスさまはおっしゃっているのでしょう。 

私たちは日々、様々な問題に行き当たります。それらひとつ一つの出来事は、それにかかわる人々を時に混乱させ、容易には解決策を見いだすことができないことも多々あります。そのような時でも、自分の都合や思いを優先させるより、神さまに信頼してその思いを聞く。祈りをもって神さまの声に聞き従うとき、なすべきことが示されるでしょう。 

そのようにしてひとつ一つ行ないを積み重ねてゆく時、もしかしたら桑の木が地面から抜け出して海に根を下ろすような奇跡が起きることがある。できるはずがないと思っていたことが実現する。信仰生活とはそういうものだと言われているようです。

私たちも「もっと信仰があったら…」と思うことがあるかもしれません。しかし、立派なことをなそうとして大きな信仰を求めるより、なすべきことを、神さまへの信頼をもって祈り求めつつ淡々となして行く時、新しい視野が示されるに違いありません。新しい世界がきっと拓けることを信じて、今日も歩みを進めていきたいと思います。 

牧師補 執事 下条 知加子

「『神の助け』を邪魔しない」 2022.9.25

今日の福音書の内容はイエスさまの「たとえ話」なので、そこに登場するラザロは、実在の人物だったかどうか、定かではありません。それにしても、ラザロ(ギリシア語)という名前は、ヘブル語だとエレアザル(「神は助けです」の意味)になるというのは驚きです。身寄りもなく、他人の家の門の脇に身を横たえ、雨風にさらされながら、残飯が投げ捨てられるのをただ待っている人生。しかも悠々と過ごしているのではなく、痛みや痒みのある皮膚病で全身が覆われ、それが治る/治すという見込みもない。犬が寄ってきて体を舐めても、それを払い除ける体力も気力もない。

「何故、自分は生きているのだろう」と思わなかった日はなかったかもしれません。このような状態にある人を、「神は助けです」として登場させています。

一方「金持ち」は、自宅の門前にラザロがいたことを知っています。名前まで記憶していますが、亡くなってもまだラザロを上から見下ろし使い走りをさせようとします。自分の苦痛を取り除くためにラザロを寄越して欲しいと言い、それが駄目ならせめて身内の役に立つようラザロを使って欲しいと言い、断られても更に食い下がり、それまでは一瞥もしなかったラザロを、自分は利用できると思い込んでいます。

ラザロのような人生が「神は助けです」なのは、お腹を空かせたまま人々から惜しまれることもなく人生を終えても、天上では美味しい食事でもてなされ、アブラハムの歓迎を受けたからではないでしょう。

一方アブラハムは「金持ち」に対して「子よ」と呼びかけるものの、この世的な視点で一目置かれた地位や名誉は、神の目には何の力もないことを示します。
 わたしたちの住む東京にもそしておそらく教会の門前にも、ラザロは座っているのでしょう。わたしたちがその人々を直接「助け」ることには、たとえ失敗しても、神の「助け」を妨害しないことはできるのではないでしょうか。それは、神が最も大切にしている家族の一人として、この人々をわたしたちが認識し得るかどうかにかかっていると思うのです。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「大切なこと」 2022.9.18

「ある金持ちの管理係をしていた人が、主人の財産を使いこみしていると訴えられ、仕事を取り上げられそうになった。彼は他にできる仕事はなく、どうしたら良いか考え抜いた末、主人に負債のある人たちを一人ずつ呼んでそれぞれの証文の負債額を少なく書き替えさせた。そうすれば、仕事を失ったときその人たちが助けてくれるだろうと考えたのだ。すると、主人は彼のそのやり方をほめた。」

これはイエスさまがなさったたとえ話ですが、そんなことをしたら、普通ならば主人の財産を目減りさせたと言って叱られるのではないかと思います。ところが、叱られるどころかほめられたというのです。なんとも不思議に感じますが、何をほめられたというのでしょうか。

管理係には貸し付けの利子の割合を決める権限もあったということで、証文を書き替えさせたとき、自分がかけた利子の分を割り引いてやったのかもしれません。自分に都合がいいように高い利子をつけて、その中から取り分を得て裕福な生活をしていたであろう管理係ですが、仕事を失えば、貧しい生活を強いられるでしょう。その時には、証文を書き替えさせてもらい感謝している人たちが、きっと彼を仲間にいれてくれるに違いありません。

「(主人は)この管理係を、良い感性で対処したと、ほめた」と訳されている聖書があります。貧しい人々から多くの利子を取って不当に散財していた人が、仕事を失うという危機に直面して初めて、貧しい人々の状況や気持ちを理解し、寄り添うようになった。主人はそのことをほめたのかも知れません。

自分のことだけを大切に考えて行動するとき、人間はどうしても間違った方向に行ってしまうのでしょう。そうではなく、貧しさをはじめとする、困難や苦しみ、悲しみの内にあって生きづらさを抱える人々に心を寄せることができた時、私たちは信頼できる仲間を得ることができるのではないでしょうか。何を一番大切にして生きるか。私たちはそのことを問われていると思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「『99匹の側』の羊」2022.9.11

ひとり迷子になり、見つかるまで捜索される1匹の羊の話。子ども時代の私のリアクションは「うらやましい」でした。いなくなったことに気づいてもらえ、自分の99倍の人数(羊数)を長いこと待たせた挙句、発見されたら叱られるのではなく、「喜んで」もらえる。一体そんな世界がどこにあるのだろうか、と思っていた次第です。

しばしば人生に「迷ってしまう」厄介なわたしたちなのに、神さまは諦めず、心を込めて探し出し、真っ当な道に連れ戻してくださる。そういうことなのでしょうが、1匹の捜索中に置き去りにされる99匹の安全についてはどうなのだろうか。羊飼い不在のまま野獣に襲われ天候が急変して犠牲が出ても、そちらの羊は「仕方がない」と諦められてしまうのだろうか。何か腑に落ちない気持ちになります。

このモヤモヤを解決するには、自分自身を「1匹」側だけに投影するのではなく、「99匹」側として読む必要があるのではないかと思うのです。つまり、迷子になった羊に対し「迷惑だ」と思っているだけで良いのだろうか、「1匹くらい諦めたらいいのに」と考える態度に、何か深い落とし穴があるのではないだろうかと。

例えば礼拝で、何十年も唱えているお祈りは、もう暗唱してしまって見なくても知っている、ということがあると思います。それはそれでとても豊かなことですが、そこに「初めて」の方がおられる場合、「暗唱ペース」でどんどん先に行ってしまうのは、神さまは決してお喜びにはならない行動だと思うのです。そんな初心者に対する配慮くらいとっくにしてくださっていると信じたいのですが、礼拝も、聖書の学びも、そして日常生活も「ひょっとしたら自分は99匹の立場かも」と心に留めることで、新たな視点が与えられるのではないでしょうか。たった一人でも、「1匹の羊」がそこにいたなら、いやむしろ「1匹の羊はいる」という前提で、心の目を開き続けていたいと思う次第です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「捨てるべきもの」 2022.9.4

イエスさまはご自分について来た大勢の群衆に向かって、「(~ならば)わたしの弟子ではありえない」とおっしゃっています。小見出しにある「弟子の条件」というよりも、弟子になる覚悟といった方が良いようにも思いますが、それが三度も語られているところに、イエスの弟子になるということの厳しさを感じます。

自分の家族そして自分の命を憎まないなら…と言われていますが、憎むというのは嫌いになるということではありません。二者を比較して他方を大切にするという意味です。つまり、イエスさまよりも家族を、また自分の命を大切にするならば、イエスの弟子ではあり得ない、ということになります。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹というのはかけがえのない存在ですから、平常時ならば何よりも大切にして良いものだと思います。けれども、二度にわたってご自分の死を予告され、いよいよ十字架に向かって歩んでいく緊迫感の中では、平常時と同じというわけにはいかないとのです。

自分の十字架を背負ってついて行く、というのは、自分の命をささげる覚悟をもって歩みを進めるということでしょう。イエスさまの死、それも処刑されることが予想されるような緊急事態の中で、大切にしなければならないことは何でしょうか。

わたしたちは、家族を含めた様々な人間関係の中で、また色々な物に囲まれて生きています。そのような中で日々取捨選択しながら生きているわけですが、自分がその中で一応安定して過ごせているときは、現在手にしているものを手放すことに抵抗を感じるものだと思います。しかし、それらは必ずしも自分の命を生かすものとなっているとは限りません。実は、獲得していると思っているものに縛られて、自分自身が窒息しかけていることがあります。そして、手放すことができないために、関わっている誰かを縛ってしまっていることもあるのです。

そのことに気づく時、手にしている一切のものを捨てる覚悟はあるのか、とのイエスさまの問いかけ。すべてのものから開放されて自由になり、イエスさまに従う道を選び取り、命を輝かせることができますように。

牧師補 執事 下条知加子

「末席に着く」 2022.8.28

昨今、さまざまな「宗教」が話題となっています。ことに「カルト」と「宗教」の区別がわかりにくい人々にとっては、自然科学の考え方と相容れない「宗教」の存在そのものが、嫌悪の対象となりうる場合もあるでしょう。いろいろな考え方があると思いますが、ざっくり整理すると、「カルト」は①思考停止を求める ②団体の提示する教えを鵜呑みにすることが「信仰」 ③個人の決断や決定は尊重されない ④優越意識や利益を強調、といった特徴があると思います。一方、真っ当な宗教に共通することは、①自己理解、他者理解を深め続ける ②疑問や異論も歓迎される ③自分の人生は自分が決める ④損得感情に振り回されない、などが挙げられるかもしれません。人がまっとうに生きようとする志を支えるのが、本来の宗教の役割であるはずです。

その中でもキリスト教は、しばしば「負け犬の宗教」と称されることがあります。(キリスト教を信じると)「人より優れます」「こんないいことがあります」などとは語られず、人生の中でも「負けている」と感じるような辛いとき、惨めなときこそ一緒にいてくださる、と強調するからでしょう。でもそれは、「惨めなわたし」に留まろうという意味ではなく、弱さ醜さも持つわたしたちを最後まで見捨てないことを約束される神、その存在を伝えるからかもしれません。

旧約聖書の中のイザヤ書の53章には、とても不思議な「しもべ」の姿が描かれます。「軽蔑され」「見捨てられ」「懲らしめられ」「他の人が犯した罪を全て背負う」、そしてこれらの苦難の結果、人々が人生を取り戻すのを見て満足すると。あまりにも人が良すぎる話だと思ってしまいますが、イエス・キリストは、ここに真の神の姿を見たようで、この「しもべ」として生き、生涯を捧げるのが自分の使命だと理解されたようです。そして、そのようになりました。同胞や一族の者から誤解され軽蔑され、一緒に活動していた弟子たちからも理解されず、死刑の判決が下ると人々は彼を見捨てて逃げ、最後は窒息死をする。それがキリスト教の神です。

今週の福音書の「宴会に招かれたなら、(なるべく)末席に座りなさい」ということの意味は、謙遜ぶって人に上席を譲っていれば、やがて周りが持ち上げてくれる、というノウハウ話ではないでしょう。辛さや悲しみから立ち上がれず「末席」から動けないでいる人々に対し「そんなところにいないでこっちへ来い!」と、上から目線で「上席」から叫ぶのではなく、最も底辺に降りてその苦しみを分かち合ったイエスのように、どん底の苦しみを味わっている人々のところへ、こちらから出向き現実を分かち合う。それがイエス・キリストのなさったことであり、わたしたちにも求められていることであると思うのです。「あなたが大切だ」ということを伝えるために何でもする神は、「負け犬」と称されることも厭わず、誤解されること軽視されることも恐れません。わたしたちの日常生活の葛藤や苦しみ、生きる難しさなどをよく知り、そして2千年前ではありますが、実際にこの世で生きた神。その方はわたしたちに、「負」の部分を切り捨てて無かったことにするのではなく、そこから立ち上がり前へと進む力になってくださる神です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「狭い戸口から入る」 2022.8.21

イエスさまの時代、ユダヤの都市は城壁にかこまれていました。都市に入るための門は広く、市民生活を支えるものとなっていました。ただ、そこを堂々と通ることができるのは、市民権を持つ、社会的に認められた人たちだけでした。城壁の脇の目立たないところに小さな通用門があり、そこから出入りしている人がいました。広い門を堂々と通ることのできない人たちが、人目を避けて利用していたのです。

広い門を通っている人たちは、そこを通るたびに「自分たちは広い門を通る権利があるからここを通っているのだ」などと意識することはおそらくなかったでしょう。それが当たり前だと思っているので、そこを通ることができることの有難味も、感じることは少なかっただろうと思います。また、そこを通ることができない人たちがいることを意識したり、その不便さを思いやることも、あまりなかったのではないかと思います。

一方、通用門を利用している人たちは、そこを通るたびに、自分たちが広い門を堂々と通ることができない存在であることを意識させられていたはずです。人一人しか通れないような狭い戸口を通る不便さ。それに通用口は目立たないところに設けられていましたから、その戸口を探すのにも苦労したかもしれません。

イエスさまは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。普段広い門を当たり前に通っている人たちは、その言葉をどう受け止めたでしょうか。広い門を通ることを許されている人びとが通用門を利用することはないですから、そこを利用する人々の不便さや苦労を想像することも難しいかもしれませんが、「何故わざわざそんなことをしなくてはならないのか」と思ったのではないでしょうか。しかし、自分だけが狭い門を通る必要のない人間で“あの”人たちとは違うと思っている限り、救われることはないということかも知れません。

ある面で自分自身も「狭い戸口」から入るべき人間だと自覚し、そこから入って行く時、本当の救いが訪れるのではないかと思うのです。

牧師補 執事 下条 知加子

「時を見分ける」 2022.8.14

「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と、イエスさまから言われてしまうと、もっと多くの情報を入手し人の意見も聞いて、冷静に判断できるよう頑張らねば、などと思ってしまいそうです。現代社会の中でどんなニードがあるのか、時を見分けた上で何が正しい行動なのか、専門家でも意見が分かれるところですから、さてどうしたものかと途方に暮れます。でもイエスさまは、さらに情報を得て「見分け」るようになれと勧めているわけではなく、わたしたちは大切なことはすでに知っているのに、その事実から顔を背け、本当のことは知らなくていい、現状は変えたくない、と叫んでいる自分の心と向き合うよう、促されている気がするのです。

私もそうですが、変化は苦手です。言い訳をするとか、まあ後でいいやと思うなど、自分のやり方を変えないで済むために、いろいろな手法を用います。人にもよりますが、一番不得手な「変化」の一つは、人と対立しなければならない状況に追い込まれることかもしれません。今まで穏便に関係を保ってきたのに、家族や友人との関係が崩れてしまうのは避けたい。特に、対立したら困ることになるとわかっている職場では、あえてリスクをおかすよりは「とりあえず穏便」な方法を選択する。それは、身を守る必要のある日常生活の中では、正しいことでもあるでしょう。

少し前の節ではイエスさまが突如、「受けなければならない洗礼」(原文では「私が洗礼を受けなければならないその洗礼」)に言及していますが、これは水に浸る一般的な「洗礼」のことではなく、「十字架にかかって死ぬ」ことを示していると言われています。それは、心身に悶絶する苦しみを受け、仲間から見捨てられ、誰にも理解されない、というイエスさまに与えられた独自の「洗礼」です。「とりあえず穏便」とはほど遠く、出来れば避けて通りたい道であり、その結果は闇の中。ひたすら神さまに信頼するしかない道です。

わたしたちの日常生活でも、現実を直視してしまうと、もう元には戻れないような不安が存在することでしょう。現実と向き合うのは苦しいですが、それを回避するため、「敵対されない」「世間から後ろ指をさされない」ことだけを絶対的価値として、様々な決定をしてしまうと、イエスさまの十字架から遠く離れた人生となってしまうのではないでしょうか。

それではどうすれば良いのか。
イエスさまがこの物語を通じて伝えようとされていることは、こういうことかもしれないと思います。
「不安から逃れるために耳を塞ぎ、本当は知っていることを“わからない”と、自分を言いくるめるのはやめなさい。不安と直面することを避け、心を閉じて、“決められない”と言うのもやめなさい。あなたが不安の真っ只中に投げ込まれ、誰からも忘れられていると感じていても、わたしは一緒に居て最後まであなたと共に歩き通す。なぜならば、それはとても孤独な道だが、わたしと近い道であり、わたしはすでに通ってきた道。そして神さまを信頼しなければ進めない道。だから、さあ勇気を出して、時を見分ける心の目を開こう」と。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「常に備える」 2022.8.7

こどもが親の見ていないところでいたずらをするというのはよくあることですが、こどもだけでなく大人だって、誰も見ていないだろうと思うと、本当は良くないと思っていることをついやってしまうというのは、多かれ少なかれ、誰しもあることではないでしょうか。反対に、誰かが見ていてくれることを期待していることを期待してあえて、世間的に良いとされる行いをすることもあるかもしれません。わたしたちの行いは、誰かほかの人の評価に左右されがちだということでしょうか。

僕が、真夜中か明け方か、いつ婚宴から帰って来るかわからない主人を目を覚まして待つというのは、なかなかできることではありません。主人の評価を得たいと思っていても、何日も起きて待ち続けるなどということは、そうそうできることではないでしょう。でも、泥棒がいつやって来るかということだって、誰にもわかりませんね。

いつ起こるかわからないことのために備えること。それは必ずしも体に鞭打って24時間起きている、ということではなく、必要なことは何かということを常に思いめぐらしている、ということなのではないかと思います。本当に必要なことを知るために、思い巡らし、神さまに祈る。そこには他の誰かの評価は必要ありません。他人の評価を基準に考えていては、本当に必要なことを見失ってしまうかもしれません。

この主人は、帰って来た時に僕が目を覚ましているのを見たならば、帯を締め、僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれると言っています。普通ならば、待っていた僕が主人のお世話をするのでしょうが、この主人は僕のために、帯を締めて、自身が僕となって給仕してくれるというのです。僕にとっては想定外の喜びに違いありません。

現実の世界を見渡すと実現不可能ではないかと思える世界の平和。それでも、その平和の実現を心から求め祈る時、必要なことは神さまが示してくださいます。平和実現という喜びに向かって、わたしたちも常に備えて行きたいと思います。 

牧師補 執事 下条 知加子

「本当の豊かさ」 2022.7.31

ある人がイエスさまに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と訴えました。この時代のユダヤ教の先生は、法律家のように人々の生活の具体的な事柄についても教えていたようです。しかしイエスさまは、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言って、次のようなたとえ話をされました。 

ある金持ちの畑が豊作で、収穫した物が倉に納めきれなかった。「どうしよう」かと考えたその人は、倉を壊してもっと大きい倉に建て直し、その中に穀物や財産を全てしまっておこうとした。そして、「さあ、これから何年も生きて行くだけの蓄えができた」ぞ、喜べ、と自分自身に言いきかせようとした。さて、それはこの人にとって本当の喜びとなったでしょうか。

倉に蓄えがあれば、多少の安心を得ることはできるかもしれません。けれども、そんなに多く持っていたところで、一生かけても使い切れないでしょう。もしかしたら、この人の命は今夜限りかもしれない。死んでしまったら、蓄えた物は何ひとつ持っていくことはできません。残った財産はどうなるのでしょうか。それに、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」、つまり、地上の財産によってはその命をひと時も引き延ばすことはできないのです。

「貪欲」という言葉は、聖書のギリシャ語では“さらに”と“持つ”という2つの言葉が組み合わさった言葉です。今あるもの、与えられているものに満足せず、さらに持ちたいと思ってしまう。イエスさまは、自分にも遺産を分けて欲しいと願った彼が正当な権利を主張したことが良くないと言っているのではなく、「もっと、もっと」と欲が増してゆくことに「注意を払い、用心しなさい」と言っておられるのだと思います。

どんなに沢山持っていてもさらに欲しがってしまう。それは遺産のことに限ったことではなく、人間の常と言えるかもしれません。けれども、その先に本当の喜びは生まれないのです。倉を建て帰るのではなく、沢山とれた収穫物を持っていない人に分け与え、豊作の恵みを人びとと分かち合う時にこそ、本当の豊かさ、心からの喜びが湧きおこるのではないでしょうか。

牧師補 執事 下条知加子

「『祈り』の本質」 2022.7.24 

「求めよ、さらば与えられん」文語の聖書を読んだことのある方には、こちらの言い回しの方がピッタリくるかもしれませんね。でもここでイエスさまは、「祈り求めれば何でも無条件に叶えてくれる神さま」の話をしているのではなく、「祈る」ことについての本質を伝えておられるのではないかと思うのです。

少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「実はこうしてほしい」とは言いにくいものです。つまり一般的には、言葉化して相手に何かを伝える時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見通しがあると確信している、とも言えるでしょう。

しかし、もし「祈る」ことについても、わたしたちが同じように考えると、神さまを矮小化してしまう危険があります。当然ゆるされているという前提で「わたしたちの罪をお赦しください」と主の祈りを唱え、飢えるはずないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、安全な生活を確保している、という気休めに近いかもしれません。

神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたち自身は、神さまの考える「最善」が常に見えているとは限らないでしょう。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと招かれるのではないでしょうか。実現される保証を得たら、神が聞くなら祈ろうではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、それが祈りではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「必要なことはただ一つだけ」 2022.7.17

イエスさまとその一行がある村に入ると、マルタという人がイエスさまたちを家に迎え入れました。大切な方をお迎えするというので、マルタは色々と気をつかい、立ち働きます。そんな時、姉妹(妹?)のマリアはマルタの手伝いをしようともせず、イエスさまの足もとに座り、イエスさまの話に聞き入っていました。

そんなマリアの姿に、マルタは少しいら立ちをおぼえたのでしょう、イエスさまに向かってマリアに何とか言って欲しいと頼みます。しかしイエスさまは、「必要なことはただ一つだけである。…それを取り上げてはならない。」とおっしゃいました。マルタはなぜ不満を直接マリアに言わなかったのだろう、そもそもイエスさまを招き入れたのはマルタなのだからマリアに手伝いを強要することはないのでは…などという疑問も湧いてきますが、「ただ一つ」の「必要なこと」とは一体何なのでしょうか。

大切な方を家に招くという時、わたしたちは掃除をしたり、お茶の準備をしたり、食事を作ったりと忙しく立ち働くことがあるでしょう。そんな時、わたしたちは散らかった家の片付け、用意するお茶や食事のことなどに、必要以上に心や体を使って「思い悩み、心を乱して」しまうことがあります。限られた時間を、迎え入れたその方と共に過ごすこと、分かち合うことが大切なのだけれど、そのことに集中できなくなってしまう、そんなこともあるのではないでしょうか。

教会の活動においても、それと似たようなことがあるように思います。礼拝は、イエスさまをお招きし、イエスさまと共に過ごす大切な時間です。そのためになされる準備ももちろん大事です。イエスさまは不平を言うマルタに、「マルタ、マルタ」と愛情込めて呼びかけられ、彼女を叱責することはしていません。しかし、「思い悩み、心を乱」すことなく、マリアのように聴くこと、そのことが大切で「それを取り上げてはならない」とおっしゃるのです。

どうか祈りに、そして神さまの、イエスさまの声を聴くことに集中して、この限られた恵みの時を過ごしてゆくことができますように!

牧師補 執事 下条 知加子

「よきサマリア人」 2022.7.10

聖書には、「よきサマリア人」という言葉はありませんが、絵画や彫刻、絵本で表現されるこの物語には、多くの場合「よいサマリア人」というタイトルがついています。しかしながら「サマリア人は良い人たちだ」という話ではなく、当時の一般的な先入観が厳然とある中で、自分を正当化しようとする律法学者に対し、イエスさまがわざわざサマリア人を持ち出して「たとえた物語」と言った方が近いのかもしれません。

元々、イスラエルの民も住んだサマリアの地は、イスラエルの首都が置かれたこともある歴史的な場所でしたが、他国の支配にさらされ、外国からの他民族の植民が行われ、結果的に様々な宗教が入って融合したことにより、イエスさまと同じアラム語を話す人々なのにも関わらず、イスラエルの社会から排除されてきました。

それは、彼らが「聖書」と認めるのは「モーセ五書」のみだったり、過越の祭りは祝うのに別の預言者を求めたりといった、彼らの独特な解釈や社会的特質を、ユダヤ人が忌み嫌い、見下す習慣となって行ったようです。そしてそれは、イエスさまがおいでになる700年以上も前から、ユダヤ社会の中に浸透していましたので、それはもう民族に根付いた差別感覚だったとも言えるでしょう。

サマリア人を見下していただけではなく、血を流している人に触れた祭司は、礼拝の司式をすることができませんでしたし、遺体に触れたレビ人は、神殿での奉仕ができないことになっていました。もしこの人々が神殿のお務めに向かう道中であったなら、「命の危機に瀕している人を冷たく見捨てたわけではない。できるなら私だって助けたかったが、お務めができなくなるので」という言い訳ができてしまうわけです。

しかしイエスさまは、彼らが見下しているサマリア人を登場させて、あたりまえの行動をする話をする。それが、「隣人」の定義を求めた律法学者への答えでした。

この物語でイエスさまは、わたしたちが倒れている人を見かけたら「必ず病院に連れて行きなさい」と薦めているわけではなく、食べるに困っている人を見つけたら、2万円(2デナリオン)与えなさいと言っておられるわけでもありません。「隣人とは誰か」と定義を求め、それがわからないと愛することはできない、永遠の命を得ることができないと言い訳をしている、この律法学者のようになってはいけない、と諭されているのではないでしょうか、わたしたちが本当の意味で真の愛と命へと進むために。


牧師 司祭 上田 亜樹子

「財布も袋も履物も持たず」 2022.7.3

イエスさまは、ご自分が行くつもりのすべての町や村に、弟子たちを二人ずつ先に行かせました。それは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われます。イエスさまは続けて、「財布も袋も履物も持っていくな」と言われました。それほど厳しい旅となることが予想されるというのに、遣わされてゆく弟子たちは不安にならなかったでしょうか。

何かをしようとするとき、まず準備万端整えて…と考えるのが一般的な感覚だろうと思います。そしてつい、あれがない、これがまだない…と、足りないものばかりに目が向いてしまいがちです。そして準備ができていないことを言い訳に、‟だから無理だ”とあきらめてしまう(事を始めようとしない)こともあるのではないかと思います。

けれども、必要なのは無いもの探しではなく“あるもの探し”なのかも知れないと思うのです。わたしたちには様々なものが与えられています。ところが、与えられていること、その豊かさに、思いが至らないことが多々あるのです。そして、あれもこれも足りないからうまくいかない、できないのだと考えてしまう。けれども、必要なものはすでに与えられていると、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。

後にイエさまが「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と聞いた時、弟子たち(使徒たち)は「いいえ、何もありませんでした」(ルカ22:35)と答えています。そのままで十分、必要なものはすでに与えられているからそれを探してごらん、と言われているように思います。

イエスさまはわたしたちを、それぞれににふさわしい場へと遣わしておられます。そこでは豊かな実りが約束されています。けれども「収穫は多いが働き手が少ない」とも言われています。どうかわたしたちに、ともに働く仲間が与えられますように。そして、わたしたちの願う、イエスさまの願う平和が実現するよう、祈り求めてゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「真にイエスさまの味方は?」 2022.6.26

ひとつの仕事を、チームで成し遂げようとする時、そこにはさまざまな意見や立場、感じ方があって、それを擦り合わせていくのが楽しいと感じる人がいます。その一方で、議論の内容や目的ではなく、「誰と一緒の立場を取るか」を優先する人もいるように思います。時によっては、どちらも功を奏する場合があると思いますが、今日の福音書では、弟子たちが自身の心の在り様は問わずに、ただ自分たちはイエスさまの「味方だ」と思うことで、頓珍漢な言動をする様子が描かれているのではないでしょうか。

十字架の出来事の前に、イエスさまはご自分の身にこれから起きることについて、また良い知らせ(福音)の真髄について一生懸命語りますが、弟子たちはあまり理解していなかったようです。意味があまりよくわからなくても、イエスさまについて行こうと考える弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なのでそこに加わらない人々は排除してもかまわない、というふうにも聞こえます。

登場する「サマリア人」というのは、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになった人々ですので、ユダヤ人は、付き合いを絶ち、一方、サマリア人も、自分たちが見下されていることを知っていますので、互いを避けていた関係でした。そんな壁を乗り越えて、せっかくサマリア人の村に寄ってやったのに、イエスさま一行を「歓迎しなかった」。そんな輩はやっつけてしまいましょう、と弟子たちは憤ります。

また、弟子かどうかは書いてありませんが、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人も、イエスさまの言われることを真に理解しようとするよりは、「イエスさまに従う」という雰囲気に酔っているようにも思えます。

わたしたちも例外ではないでしょう。教会に来て礼拝をする、イエスさまのことを知っている、神さまの前に正しい生活をしていると、もし思い込んでいたら、もしそんなわたしたちが「イエスさまの側の人間」であり、そうでない人々に対して一線を引く、というような気持ちがあったとしたら、それは果たして本当の意味で「イエスさまの味方」なのでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「自分の十字架を背負う」 2022.6.19

「十字架を背負う」と言うとき、現代では、その背負うものはわたしに背負わされている苦労-生きる上での困難さ-だと解釈されることがあるように思いますが、イエスさまがおっしゃる十字架とは、そのようなことを指してはいません。 

この時代(一世紀)に「十字架を背負う」といえば、十字架刑に処せられるために、イエスさまがなさったように、その十字架を自身が処刑される場所まで担いでいくことに他なりませんでした。「わたしについて来たい者は…自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とは、イエスさまについて行くならば、自分の持っているもの全てを手放す覚悟を持て、ということになるでしょうか。

わたしたちは様々なものを持っています。物質的なものばかりでなく、仕事、家族や友人、職場その他での人間関係など。そして地位や名誉を含めて、多くのものに恵まれ、それらの中で心地よく生きていればいるほど、あるいはそうでなかったとしても、わたしたちは持っているものを失うことに恐れを感じるものだと思います。けれども、それらのものを失うまいと握りしめている限り、イエスさまに従うこと-本当の命を得ること-はできないのです。

イエスさまがスーパーヒーローのように人々を救い、“世直し”をしてくれるかもしれないと期待し、ぞろぞろとついて回っていた群衆は、「(自分が)排斥されて殺され」ると語るイエスさまに失望し、離れてゆきました。けれども、そんなイエスさまに、迷いながらもついて行った弟子たちがいました。イエスさまは彼らに、今価値を感じているものを、必要な時には捨て去りながらイエスさまについて来るならば、真の意味で命を救うのだと教えられました。

「あなたがたはわたしを何者だというのか。」
イエスさまは今もわたしたちに問われています。イエスさまに従うことこそが救いの道であると信じ、自分を捨てつつ進んでゆくとき、わたしたちに与えられる「命」。その価値は計り知れません。どうかその道を進む勇気と力が与えられますように…。

牧師補 執事 下条 知加子

「三位一体?!」 2022.6.12

先週は「聖霊降臨日」でしたが、今週は「三位一体の神」を覚え記念する日曜日。「聖霊なる神」も理解が難しいですが、「三位一体の神」は、さらにハードルが高いかもしれません。しかもイエスさまは、「三位一体」という言葉を用いませんでしたので、何を根拠に?ということにもなりかねない。しかし、「それゆえあなたがたは行って、〜父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイ28:19)と聖書に書いてあることもあり、何とかして教会は「父、子、聖霊」の3者の関係を説明しようとしてきました。悩ましいのは、「神が3人いる」ことが三位一体ではないし、「一人の神が何役かを演じ分けている」ということもおかしい。また、「最初から存在した」のは、父なる神だけだったのか、それとも父と子だったのか、という議論なども行われました。朝夕の礼拝で用いられる「使徒信経」は、かなり初期に成立していると言われていますが、ここでは既に、父と子と聖霊は並列されて登場します。後に(紀元後325年)、ニケヤという場所で行われた会議において、「父と子は最初から存在したが、聖霊なる神は、父と子から出て来た」そして、「父、子、聖霊なる神は同等にして一体」という教義に至り、それが、わたしたちが今、毎週日曜日に唱える「ニケヤ信経」に反映されるかたちとなりました。

結論としては、神さまは一人であることに変わりはないのですが、やっぱりよくわからない話です。人間の場合、別の人格であれば、意見も異なり、行動も言動も違ってきますので、何か一緒にやろうとしても、意見が一致するとは限らず、時には一人が他方を制し、渋々ではあっても全体の善のために皆が従うことはあるでしょう。でも神さまの場合は、三位一体のうちの「一体」が他の2体を制する、ということではなく、「一人の方だ」という理解に立たないと、整合性が取れなくなる、ということなのだと思います。たとえ「三位一体」が今は毎日の生活に必要を感じないことであったとしても、何かあった時に役に立つ説明かもしれません。そんな意味も込めて、わたしたちの教会では、「三位一体の神さま」は、わたしたちのためにそのようなかたちをとってくださったと信じている次第です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「豊かな賜(たまもの)」 2022.6.5

イエスさまが天に昇られた後、弟子たちは同じ場所に集まって祈っていました。そこへ、突然激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、家じゅうに響きました。そして弟子たちは「霊が語らせるままに」様々な国の言葉で話し出したというのです。

大きな物音に大勢の人が集まってきたようですが、その物音に一番驚いたのは、家の中に隠れるように集まっていた弟子たちだったことでしょう。それまで導いてきてくれたイエスさまが不在の中、自分たちだけで何とか頑張って行こうとしてはいても、相変わらず「十字架で処刑された者の仲間」と見られていたでしょうから、不安で身も心も縮こまっていたに違いありません。そんな彼らの心と体を、突然の大きな物音が揺さぶりました。それは聖霊の働きでした。

弟子たちが突如として「他国の言葉で話し出した」のは、神さまから遣わされた聖霊が強い風のように彼らの体と心を揺さぶり、その愛の力によって彼らの心と体が解放され、それぞれの中に隠されていた力が発揮されたという出来事ではないかと思うのです。様々な国や地方から集まった人々は、それぞれの故郷の言葉を聞くように、その魂に響く言葉、愛の言葉を、弟子たちから聞きました。

人は、不安だったり、緊張したりしていると、その人の本来持っている能力や素晴らしさは発揮されません。わたしたちは、自分でもまだ気づかない沢山のものを神さまからいただいていますが、その賜はわたしたち自身がが愛されていることに気づいて安心し、心と体が解放される時、初めてその力が豊かに発揮され、わたしたちの住む社会も豊かに、素敵に変化してゆくと思うのです。

神さまの豊かさの中にあって、それぞれがいただいているユニークな賜が、聖霊によってその力を発揮し、愛に満たされた豊かな社会・世界が実現してゆきますよう、願って止みません。

牧師補 執事 下条 知加子

「『一つになる』ということ」 2022.5.29

十字架にかかられる前、最後となった夕食の時、イエスさまは自ら弟子たちの足を洗われました。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合う」ようにと教えられました。それは、身分や立場を超えて、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と教えるためでした。

そして、いよいよ裏切られ、逮捕される直前、イエスさまはその時が来たことを知り、天を見上げて、ご自分のために、弟子たちのために、そして「すべての人」のために祈られました。イエスさまを愛したのと同じように、神さまはすべての人々を愛しておられることが、世界に知られるようにと。そしてそのために、「すべての人を一つにしてください」と祈っておられます。「一つになる」とは、どういうことでしょうか。

「あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように」(あなた=神さま、私=イエスさま)と言っておられるのは、神さまの愛がイエスさまの内に充満しており、イエスさま自身が神さまの愛の中にいる、ということではないかと思います。すべての人が一つになるというのは、すべての人に愛が充満し、(すべての人が)神さまに愛されていることを知るということでしょう。愛するとは、尊厳を認め、大切にすることです。

一つになるということは決して、みんなが仲良くなるとか、争いがなくなるということではありません。また、人々の考え方が画一的になることでも、価値観が同じになることでもありません。人にはそれぞれ違った個性があります。性別も、人種も民族も、みな違います。それは神さまが与えてくださったものです。そんな一人ひとりを、神さまは心から愛しておられるのです。そのことをすべての人に知ってほしい。そして、互いの個性を尊重し合ってほしい。それこそが、イエスさまの願いだったのではないでしょうか。

牧師補 執事 セシリア 下条 知加子

「おそなえはいらない」 2022.5.22

今日は、使徒書(使徒言行録)の話に触れたいと思います。リストラは、イエスさまが活動されたガリラヤやエルサレムからは遠く離れた内陸の町(現在はトルコ領)です。一緒にいる時はほとんどイエスさまの言うことが理解できなかった弟子たちですが、復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通じて、神さまによる平和、真の愛の力がわかると、遠い国々まで福音を広め始めました。

さてこのリストラに、「生まれてから一度も歩いたことのない男」がいました。「生まれてから一度も歩いたことのない」人生とはどういうものなのか。私には乏しい想像しかできませんが、少なくとも当時の社会では、先天性にせよ後天的にせよ身体や精神に不調をきたすのは、何か悪いことをした結果だと信じられていました。つまりこの人は「歩けない」という具体的な不便さに加え、社会的には「恥ずべき人」「神様に見捨てられた男」というレッテルも貼られていたのだと思います。

しかし、イエスさまの事をどこかで伝え聞いていたのでしょう、彼はパウロたちが話を始めると、じっと座って聞きます。そして「癒やされるのにふさわしい信仰」があると認めたパウロが、この人に声をかけると、彼は躍り上がって歩き出します。物理的に立ち上がって歩き出したのかもしれませんが、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げて、神さまが愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんなふうにも思います。

ところがそれを見ていたリストラの町の人々は、パウロたちを「神だから」この男の人を治癒したと考えます。つまり、自分たちは心を入れ換える必要も、何かを変える必要もない、それよりも偉大な神が自分たちの味方となってくれれば、魔法のようにあらゆる必要を満たしてくれる、という構図です。これに対して弟子たちは、躍起となってやめさせ、雄牛や花輪のおそなえを捧げて、自分たちの都合のいいように神を操作しようとする町の人々の勘違いを指摘します。

わたしたちの知っている神さまは、おそなえもので行動が変わる神さまではないでしょう。そんなことより、何よりも一番、わたしたちが喜びで満たされることだけを望んでおられる神さまです。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「互いに愛し合いなさい」 2022.5.15

十字架にかけられる前、イエスさまは弟子たちに新しい掟を与えられました。「互いに愛し合いなさい」。この言葉はその夜、繰り返し語られています。それは、最も大切なこととして弟子たちに伝えようとしたこと、もっと言えばイエスさまの命令です。そしてイエスさまはその「愛する」ということを、言葉だけでなく、ご自身が弟子たちの足を洗うという行為によって教えられました。

当時の人々は、舗装などされていない道を素足にサンダル履きで歩いていましたから、コンクリートの上を靴下や靴を履いて歩くことの多い私たちに比べたらはるかに足が汚れるわけです。その足を洗うのは億劫なこと、本来は奴隷がする仕事でした。自らたらいに水を汲み、腰に手拭いを巻いて彼らの足を丁寧に洗い始めたイエスさま=自分たちの師の姿に、弟子たちは心底驚いたことでしょう。立場や身分を超えて愛する=尊敬の念を持って大切にする、そこに新しさがあります。

私たちは、誰かのために何かをしたいと思っても、つい、自分にふさわしいことは何かと考えたり、相手よりも自分のことを優先させたりしてしまいがちです。相手を愛して(大切にして)いるつもりでも、常識にとわられたり、何か制限をつけてしまっていたりします。でも、イエスさまの愛は無制限。身分や立場を超えて、あるいはそんなものには全っく左右されることなく、相手が予想も期待もしていなかったようなこと、普通には考えられないようなことさえしてしまう。ひとのためにご自分の命さえ差し出してしまう愛なのです。
このイエスさまの命令に従って、「互いに愛し合い」つつ進んで行く私たちでありたいと願います。

牧師補 執事 下条 知加子

「共感する羊にならう」 2022.5.8

教会では、イエスさまを羊飼いに、そしてその生き方に共感するわたしたちを羊にたとえる習慣があります(そういう宗教画も多いですね)。それは、聖書の中で「わたしは良い羊飼い」とご自身で言っておられることもありますが、人々にとっての特別感はなく、身近でわかりやすい喩えを考えたらそうなった、ということかもしれません。都市に住むと、羊や山羊と対面するには動物園に行かなくてはなりませんが、わたしたちが当たり前に電車や地下鉄を利用するように、当時は羊や山羊が生活の一部だった、ということなのでしょう。

数年前に、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって走って来ました。それは歓迎しているのではなく、侵入者をチェックするような威圧的な態度でこちらを睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。後に聞くところによると、山羊はテリトリーの守備意識がとても強く、飼われているという自覚もないとのこと。一方羊は、心身共に脆弱で、知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するのかなど、あまり心配したことがなく、ただただ身を守るため、そして自身のメンタルを安定させるために、常に群れの一部として過ごすことが大切とのこと。山羊も羊も個性はあるのでしょうが、(山羊と比較した)羊の特徴を聞けば聞くほど、人間の話をしているような気持ちになってきます。

しかしながら、動物の羊とわたしたちの異なる点は、イエスさまの声を「聞き分ける」ことではないかと思うのです。それは、音声を認識するということではなく、また、言われたことを鵜呑みにするということでもなく、イエスさまの語る内容に納得し共感し、その生き方に心が揺さぶられ、そのように生きたいと自分で決断し従っていくことが、「聞き分ける」内容ではないでしょうか。イエスさまからの声、それは時にはわたしたちの理解を超え、全体像が見えなかったり、落とし処がわからなかったりもします。でも、わたしたちがそれをイエスさまからの声だと確信するときは、大きな計画の中で信頼して前に進も追うという決断ができる羊になりたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「ともにいる」 2022.5.1

復活されたイエスさまに出会い、イエスさまがともにいてくださることを一度は実感した弟子たちでしたが、彼らを取り巻く状況が好転したわけではありません。捕らえられ処刑されたイエスの仲間として、当局から目をつけられていることでしょう。イエスさまと共に行動していた時は良かったが、自分たちだけで何をどうしていったらいいのだろう。弟子たちは途方に暮れていました。

漁師だった7人はガリラヤ湖畔に戻り、何も手につかないまましばらくの時を過ごしていました。そんな中でシモン・ペトロが、とりあえずできることをしようと思い立ったのでしょう。「私は漁に出る」と言うと、他の弟子たちも「一緒に行こう」と言って漁に出て行きました。しかし、夜通し頑張っても、何も捕れませんでした。

夜が明けるころ疲れ切って戻って来ると、誰かが岸に立っていて「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と聞いてきました。誰だかわからないその人に「捕れません」と答えますが、「舟の右側に網を打」てば「捕れるはずだ」と言われます。常識的に考えてそんなわけはない、疲れているし、どうしよう。でもこの人を空腹のまま放っておくわけにもいかないか、と思って網を打ってみると、びっくりするほど沢山の魚が掛かりました。

網を引き上げられないほどの魚が捕れて驚き、そういえば「子たちよ」と呼び掛けられていたことに気づいた一人の弟子が、その人がイエスさまであることに気づき、「主だ」! と言います。イエスさまは、火をおこし、魚を焼き、パンを用意し、弟子たちとともに食事をされました。弟子たちは誰も「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしませんでした。イエスさまがともにいてくださることを改めてしっかりと、心に刻むことができたからです。

イエスさまのご復活を一度は確信したとしても、また見失ったり、迷ったり。そんな私たちにイエスさまは、何度でも“ともにいる”ことを知らせようとしてくださいます。途方に暮れているとき食事に招き、ともに食し、そこに網を打てと声をかけ、力づけてくださるのです。

ご復活の喜びを覚える復活節。イエスさまがともにいてくださることに信頼して、新たな一歩をあゆみ始めたいと思います。

「信じられないときもある」 2022.4.24

大盛り上がりだった礼拝と盛大なお祝いで過ごしたイースター。その次の日曜日は一転して、とても地味な日曜日、といったイメージがあるようです。さらに何故だか、ABC 年のいずれの日課でも、この日の福音書は、お弟子さんのひとりであるトマスの物語が読まれます。

十字架の上で亡くなってから三日目によみがえったイエスさまは、お弟子さんたちのところに出現しますが、「イエスさまはいなくなったのではない、私たちと共におられる!」と皆に言い伝えて怯まない女性たちよりも、息を潜めて恐怖の真っ只中に引きこもっているお弟子たちが気になって仕方がなかったのかもしれません。彼らが鍵をかけて籠る家に、イエスさまが入って行ったとき、トマスは不在でした。そしてあとで、イエスさまの訪問を聞いたトマスは、「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。のちに教会では、このトマスを「疑い深いトマス」などと呼び、なんだか恥ずかしい例と決めつけてきましたが、自分以外全員のお弟子さんが「イエスさまは生きてここに来た」と言っている中で、「いや、わたしは信じられない」と言うのは、なかなか大変なことだと思うのです。心の中でこっそり「いや、あり得ないでしょ」と思っていても、口に出さないでいる方が非難されないし。

このようなトマスのために、イエスさまは再び来てくれます。そしてトマスに直接「さあ、この傷に手を伸ばすように」と語ります。それは、神さまの愛をわかってもらうために、イエスさまが繋いでくださった永遠の命が伝わるために、そのためなら、なんでもしようとする神さまの姿です。

わたしたちも、ひょっとして「信じたつもり」になっていないかどうか、時々自分に問いたいと思います。このトマスの率直さに学びつつ、神さまを信じている時も、信じたつもりになっている時も、そして信じられない気持ちでいる時も、変わりなく呼びかけ続け、そして愛で包んでくださる神さまが共におられることを忘れないでいたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「復活された」 2022.4.17

週の初めの日の明け方早く、婦人たちはイエスさまが葬られた墓に行きました。ところが、入り口を塞いで動かせないと思っていた大きな石はわきに転がされ、それどころか、葬られていたはずのイエスさまのご遺体は、そこには見当たらなかったのです。

愛するイエスさまが亡くなってまだ三日と経たないこのとき、彼女たちは、ショックと悲しみのどん底にいたに違いありません。イエスさまとの出会いを与えられて救われ、頼りにして生きてきたのに、ずっと自分たちを導いていってくれると信じていたのに、十字架刑という残酷な仕方で殺されてしまった。せめてその亡骸を丁寧に葬ることでイエスさまを感じていたい。そばにいると思いたい。愛する人を亡くした人ならだれでも、そんな風に思うのかもしれません。

けれども、おられるはずだと考えていたところに、イエスさまはおられませんでした。もはやできることは何もなくなってしまった。どうしたら良いのだろう。途方に暮れる彼女たちにの前に、輝く衣を着た二人の人が現れました。そして言います、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と。

わたしたちは、傷つき、苦しみ、悲しむとき、過去を振り返り、原因を探したり、誰のせいかと考えたりすることに時間を費やしてしまいがちです。まるでお墓の中を調べに行くように。けれども、過去を、うしろをふりかえることの中に救いはありません。イエスさまは死の世界に閉じ込められてはいない。今も生きておられ、わたしたちの人生を共に歩いてくださっているのだ。「三日目に復活することになっている、と言われた」イエスさまの言葉を思い出しなさい、と言われています。

「復活」を信じることは、過去から解放されて「今を生きる」ことだと思います。イエスさまご復活の喜びが、すべての人々に伝わっていきますように。
イースターおめでとうございます!

牧師補 執事 下条 知加子

「降りてこられる神」 2022.4.10

いよいよ、イエスさまの十字架を記念する「聖なる週」を迎えました。今日の第一日課として登場する、イザヤ書第53章を読むと、わたしたちがどんな神を信じているのか、よくわかる気がします。

それは「君臨」とは対極をなす神。圧倒的な力で相手をねじ伏せ、精神的に人間を支配するようなタイプとは全く違う神です。

この社会に生きていると、どうしても「わかりやすい」ことを求められます。「私を納得させろ」という重圧も感じますし、利益をもたらす片鱗をチラつかせて初めて話を聞いてもらえるという現実があります。そういう意味では、イザヤ書の神は、「神々しい」どころか、まるで押しが効かず、誰にも相手にされないような姿を晒します。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかも、「わたしたちの病、痛み」を代わりに負ったのに、「神に懲らしめられている他人」と傍観していたのは、他でもないわたしたちであったと続きます。しかし、神は「わたしたち」に怒りや罰則を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と。呆れるばかりの人のよさです。

人に誤解されたり、やっていないことで糾弾されたり、あるいは無視されたり、軽蔑されたりするのは、とても辛いことです。あまりに辛いので、白日の元に事実をあばき「私は間違っていない」と声を大にして言いたくなります。そして深い孤独に襲われます。しかし聖書の物語は伝えます、事実を知る神、心の奥底の深い悲しみや痛みを分かち合う神、わたしたちの惨めさ見捨てられる辛さを理解する神を。

おそらくイエスさまはユダヤ教徒の習わしとして、こどもの時から、このイザヤ書を繰り返し暗唱なさったに違いないのです。そして、ご自分がどんな道を歩むことになるのか、咀嚼しつつ成長され、十字架への道を踏みしめていかれたのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子


「自分勝手なのは?」 2022.4.3

「ぶどう園と農夫」のたとえ話に出てくる農夫たちは、ぶどう園の収穫を納めさせるために主人が送った僕を袋だたきにし、侮辱し、何も持たせないで追い返したり、傷を負わせてほうり出したり、挙句の果てに、送られて来た主人の愛する息子を、ぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。このお話を初めて聞いた中学生の頃は、「そんなひどいことをする人がいるんだろうか」くらいに思っていました。そして、イエスさまを捕らえ、無き者にしたいと考えている律法学者や祭司長たちが「自分たちに当てつけて」このたとえ話をされたと気づいたと書かれていたので、ああ、そんな自分勝手な人たちも実際いるんだな、と他人事のように考えていたことを覚えています。

でも、繰り返しこのお話を読んだり聞いたりし、歳を重ねても来るうちに、実は人間だれでも、ぶどう園の収穫を(主人に渡さず)自分たちのものにしようとしてしまうことがあるのではないかと思えてきました。主人が送った愛する息子がイエスさまであるなら、このぶどう園はわたしたちの住む世界そのものということになるでしょう。主人である神さまは、ぶどう園を造るように、丹精込めてこの世界を造られました。そこで生き・働く農夫であるわたしたち人間は、そこで得られる豊かな収穫を仲良く分け合っているでしょうか。すべての人に行き渡るよう心がけているでしょうか。もし、わたしたちがそのようにしていたら、戦争や紛争が起こったりしないのではないでしょうか。

人間だれしも、どこかに身勝手な思い持ってしまうものではないかと思います。自分さえ良ければというその思いは、他の誰かを疎外し、分断を招き、争いごとを招きます。
2015年の国連サミットから始まったSDG’s(世界中にある環境問題・差別・貧困・人権問題といった課題を、世界のみんなで2030年までに解決していこう」という計画・目標)でも、「誰一人取り残さない」ということが掲げられています。
どうかわたしたちが、自分勝手な考えや思いから解放され、平和に向かって一歩一歩、歩みを進めてゆくことができますように!

牧師補 執事 下条 知加子

「迷子になりやすい?!」 2022.3.27

実は私は方向音痴なところがあって、右折左折を繰り返すと、もうどっちへ向かって歩いているのか見当がつかなくなります。今日の聖書は「迷子になった羊」そして「家の中で迷子になった銀貨」の話に続いて、「放蕩息子」の話となりますので、この話もおそらく、迷子になった話ではないかと思うのです。

ある家族の中、家督を継ぐお兄さんはしっかり者。家族中が信頼を置いています。一方の次男は「自分はどうせ当てにされない」とばかりにやりたい放題を繰り返し、やがて食うにも困り、はっと気がついて家に戻り、父に赦しを乞う。この次男は、自由や解放ということを履き違えた挙句、生きる目的を見失ってしまいます。そして、生まれて初めて「貧困」という壁に打ち当たったことで、自分が人生の「迷子」になっていることに気がついた。「生きる」ことそのものが、実はとても尊いという真実に気がつき、父親に自分の負の行動を隠すことなく詫び、頭を下げて仕事を与えてくれるようお願いする。すると、父は次男の謝罪を受け入れて、彼が生きて帰ったことをすなおに喜ぶ。

しかし、しっかり者のお兄さんは苛立ちを隠せません。父親が「あのひどい」弟の謝罪をへらへらと受け入れたようで、家に迎え入れたことが面白くありません。自分ももっと自由に生きたかったのに我慢した。自分の希望も願いも犠牲にして、家族一族のために尽くしてきた。それなのに、苦労一つしたことのない弟は歓待される。さんざん迷惑をかけられた兄として、素直に喜べない気持ちは、わたしたちも共感するところ大かもしれません。

でも、このお兄さんも「迷子」になっていると思うのです。最初は家族のため、大切な人々のため、身を粉にする働き尽くめの毎日に、愛する家族のためですから何の不満もなかったことでしょう。しかし、生活が安定し、自分の役割や地位が確定してくると、だんだん「何のために生きているのか」見えなくなってきたのだと思います。

兄パターンかあるいは弟パターンか、わたしたちもきっとそれぞれなのでしょう。でもいのちの輝きと、生かされている事実に気がついたとき、常に大きな腕を広げて待ち続けていてくれる神の存在を忘れないでいたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「忍耐強い方」 2022.3.20

園庭に藤棚があるのですが、このとろこ何年も、ほとんど花芽をつけていません。原因をあれこれと想像し、専門家にもアドバイスをもらい、木の周りに肥料をやったり剪定の仕方を工夫したり、色々と試してみたけれど、なかなか咲いてくれないのだとか。それでも、ある年小さな花芽をひとつ見つけた時には、皆で喜び、他にも花芽がついていないかと熱心に探しました。そして、来年こそはもう少し…と期待したりしています。

イエスさまが「実のならないいちじくの木」のたとえ話をされました。その土地の主人は、自分の畑に植えたいちじくがもう3年もの間「実を探しに来ているのに、見つけたためしがな」かったので、園丁に「切り倒せ」と言いつけます。しかし園丁は、「今年もこのままにしておいてください」と頼みます。「木の周りを掘って、肥やしをやってみ」るから、「そうすれば、来年は実がなるかもしれ」ないから、と。そして「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言います。

では、このいちじくが翌年実をつけなかったら、切り倒されてしまうのでしょうか。いいえ、この園丁は、今年は、ではなく「今年も(このままに…)」と言っています。ですから、次の年も、もしかしたらその次の年も実を見つけられなくても、「今年もこのままにしておいてください」と主人に頼むことでしょう。来年こそは実がなるかもしれないから、と。

このいちじくの木がわたしたち人間だとすれば、この忍耐強い園丁はイエスさまかもしれません。期待されている実をみのらせることができないでいるわたしたちに、イエスさまは、周りを掘り、肥やしを与え、必要な時には剪定し、ひたすら見守ってくださっているのではないでしょうか。そして、その実というのは、神さまの願う平和ではないかと思うのです。

どうかわたしたちが、愛に基づく平和という果実を実らせることができますように。困難に次ぐ困難がわたしたちを襲ってきているようなこの時にあっても、忍耐をもってわたしたちを支えつづけてくださる方がいることを覚えて、祈りをもって進んでゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「狭い門から入る」 2022.3.13

「せまい戸口(←「門」とも訳される同じ言葉)から入るように努めなさい」
偏差値高めの私立、一流大学、有名企業入社などを目指す人はたくさんいるので、そんな「狭い門」に入れるよう自分を磨きなさい、といった意味で使われることが一般的かもしれませんが、聖書のこの言葉は「人に誇れる人生を手に入れる努力」という意味ではなく、「救いを得るにはどうしたらいいか」という流れの中で登場しています。

ある程度生活が安定し何とかやっていける、という階級の人々に対し、イエスさまは少し厳しいところがありますが、安定がいけないと言っておられるわけではなく、保身志向というか、手に入れた物を失わないためには目も耳も塞ぐ、自分を守るためには他人はどうなってもかまわない、といった姿勢に対しての指摘なのだと思います。不安定な生活を余儀なくされる時、あるいは不安定な心を抱えて苦しい時は、きちんと定収入があり穏やかな生活を送っている人々の人生が、夢のように美しく見えることがあります。そして、そんな生活を手に入れれば、自分も幸福になれるような気がして、みんなが求める広い門、つまり大勢の人が入っていくような安定した広い門に自分も向かおうとする。しかし、そんな広い門の中にいざ入ってみると、心の中に葛藤が生まれます。これが本当に、神さまが私に備えて下さった人生なのだろうか、これが果たして幸せなのだろうか、と。

この大斎節の40日間は、イエスさまの十字架刑がジリジリと迫るのを感じつつ、その物語を、ひとつひとつ噛み締める期節でもあります。わたしたちに「救い」、つまり人生の意義を見い出すこと、他の人と比較する必要のない「わたしの存在」そのものが尊いこと、わたしたちを大切に思う神さまの存在を確信すること、愛の力強さを信じること、をもたらすために、わたしたちのために十字架にかかる決断をしていくイエスさまの姿を追います。

「みんなが行くから」という理由で広い門に流されていき、その中に入って保身や諦めを決め込むのではなく、「狭い門」を見つけそこから安心して入りなさい、とイエスさまはすすめます。何故ならば「狭い門」は、あなただけのために神さまがわざわざ作られた門であって、あなた以外は誰も入れないからです。人と比較したり、争ったりする必要が全くない門でもあります。しかし「狭い門」は、人の賞賛を得られないかもしれず、周りから理解されにくく、価値も認められないかもしれません。でも、自分の門を見つけ出し、その門を入ることが叶うなら、わたしたちは最上の幸せを見出すに違いないのです。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「悪魔の試み」 2022.3.6

ガリラヤでの伝道を始める前、イエスさまは「霊によって荒野に導かれ、40日間、悪魔から試みを受け」たと聖書に書かれています。その間イエスさまは、ご自分の進もうとしている道について想い巡らし、ひたすら神さまに祈っていたことでしょう。40日間という長い間、どのような思いで過ごされたのでしょうか。

私事で恐縮ですが、かつて聖職への道を示され、そちらに進んでみようかと考え始めたとき、本当にそれでよいのか、それが神さまが示してくださった道なのか、いくら悩み祈っても確信が持てず、とても迷っていました。そんなとき、図書館でマザー・テレサの本に出合いました。そこには、彼女が自分の進む道について迷い、奉仕の道に進み始めてからもずっと悩み、祈り続けたことが書かれていました。他の人がなし得ないような奉仕の働きを始められた、多くの業績をなして人々からとても尊敬されているマザーのような人は、神さまの示された道を迷いなく進んで行ったに違いないと思っていたわたしにとって、それはとても意外なことでした。そして同時に、神さまに対する信頼さえあれば、迷い悩みながら進んでよいのだという励ましを受けたのです。

イエスさまはどうだったのだろう、と考えます。神さまの子なのだから、正しい方だから、与えられた使命をはっきりと自覚し、不安も迷いもなく宣教し、十字架への道を進んで行かれのだろうか。決してそうではないでしょう。人として悩み、苦しみ、迷いつつ進んで行かれたに違いありません。しかしそこには、揺るがぬ神への信頼がありました。3つの大きな試みをも退けたイエスさまに、「悪魔はあらゆる試みをし尽くして」離れてゆきました。

コロナ禍にあって、また人の命が大切にされにくいこの世の中にあって、わたしは、わたしたちは、そして教会は、どのように進んで行ったらよいのか。その道はたやすく見つけることはできないかもしれませんが、神さまへの信頼を忘れず歩むところに光が与えられることを信じて、ともに悩み、迷いつつ進んでゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条知加子

「大斎節がはじまる」 2022.2.27

その時、イエスさまのお弟子のペテロさんはとても眠かったようで、何か大事なことがおきているから、しっかり見ておかなくてはと頑張ったけれども、イエスさまたち三人が話している内容が理解できず、眠気と戦いながらその場を耐えていた。それはちょうど、誰かが議会で答弁をしている間、不本意にも舟を漕ぎ鼾をかく様子がネット配信されてしまう議員たちのよう。2千年たった今も「ペテロさん、あなたはあんな大事な場面で居眠りしてましたよね」と繰り返されるのは、少しお気の毒かもしれません。

いろいろな解釈があるとは思いますが、「夢」とは別に、聖書の中の「眠り」は、その人が不在だということを示すひとつの暗号ではないかと思うことがあります。つまり「心ここにあらず」と言ったりするように、外見はそう見えなくても、心がそこに無ければ、その人はそこには居ないと。ペテロさんは積極的に居なくなろうとしたわけではないですが、その時点では「居られなかった」という話ではないかと思うのです。

先週、ハードルの高すぎる「愛すること」のお話をしましたが、この時のペテロさんも「愛すること」の意味をおそらくわかっていなかったのでしょう。そしてまた、これから起ころうとしているイエスさまの十字架が何故必要なのか、まるで失敗者のように惨めな最後を遂げられることも含めて、わけがわからなかったのだと思います。そして、「小屋を三つ建てましょう」などと口走りますが、まだこの世的な成功、つまり皆から称賛を得ることや、理解され歓迎され喜ばれるイエスさまのイメージしか、思い描いていなかったのかもしれません。

それでも、です。神さまはペテロをはじめとしたお弟子さんたちに、イエスさまの生涯を語り伝える役割を託しました。わたしたちは、この後の聖書の物語を読んでいるので、イエスさまが一番辛いその時に、自己保身のために逃げ出し、言い逃れの嘘もついてしまう彼らであることを知っています。でも「だから駄目」なのではなく、底辺の底辺から180度転換して、イエスさまの伝える「愛すること」を伝える使命に、いのちがけで取り組んでいく弟子たちに変えられた。それは、無力で人の役にはとても立てないように感じるわたしたちも、「愛すること」の真意を受け取る可能性が開かれ、人生が変えられていくということなのだと思います。今年は、3月2日から大斎節が始まります。わたしたちの本当の心の姿、弱さ、情けなさをすべて受け止めた上で、愛することを教えてくださっている神に、一瞬でも顔を向けることが出来ますように!

牧師 司祭 上田 亜樹子


「敵を愛する」 2022.2.20

誰でも、自分と関係が良い人を愛することは易しいものです。けれども、関係が悪くなってしまうと、その相手を愛することは難しくなります。それは、同僚であれ、友人であれ、家族であれ、同様でしょう。ましてその相手が「敵」であるならば、とてもじゃないけれど愛することなどできない、と感じるのが普通でしょう。それなのに「敵を愛しなさい」とは、どういうことなのでしょう。

また、憎まれたら憎み返し、呪われたら呪い返したくなる、それが一般的な感覚ではないかと思うのですが、聖書では「あなたがたを憎む者に親切にし」「呪う者を祝福し」なさい、また「奪い取る者」にはそれ以上に与え「取り戻そうとしてはならない」と言っています。

そんなことは無理だ、と思います。けれども一方で、もしかしたら私たちは、人に何かを与えるという時、相手から同じだけ返してもらうことを期待しているのかもしれない、あるいは何か取られたら、同じだけ取り返さないと気が済まないのかもしれないと気づかされます。同時に、与えることができる人は、すでに多くを与えられているのだ、ということにも気づかされるのです。そして、与えてくださっているのは、神さまだと。

いま自分が持っているものは、すべて神さまからいただいたものだと感じることができる時、私たちは「求める者には、誰にでも与え」ることができるのかもしれません。また、愛するよりも先にまず、神さまから愛されていることを知る時、私たちは「敵」を愛することができる者とされるのではないでしょうか。

神さまは私たちを豊かに愛し、必要なものをすべて与えてくださっています。その慈しみ深さに信頼して、私たちが、愛し合える関係を築いて行けるようにと願い、祈ってゆきたいと思います。

牧師補 執事 下条 知加子

「幸いな人は、神からの力を見る」 2022.2.13

宗教の目的は、「人として幸せに生きる道」を示すことであるはずなのに、今日の福音書の中でイエスさまは、貧しかったり飢えていたり泣いている人々を「幸いである」と表現します。「幸いである」と言われても、「泣く人はラッキー」と言われているようで、なんだかついていけない気持ちになります。

わたしたちは、人と比較して「幸いである」かどうかを測ってしまうことがあります。誰かに「経済的に恵まれていて幸いですね」と言っても、そうですねとはなかなか返ってきません。それはどこかで、「もっと上」の人に比べて自分の幸せ加減はまだ薄い、と感じているからなのかもしれません。「勉強をする機会があって幸せですね」と言われても、「もっと恵まれている人はいる」と心の声は響き、そんな人々をうらやましく思う気持ちだけが膨らんだりします。生きるには必要なのですが、地位・学歴・収入を、他者との比較で捉えると、「幸いである」と安心して言えないような現実があります。

ここでイエスさまが言われる「幸いである」という言葉ですが、辞書によると「神々における、不安、労働による苦しみ、死のない至福の状態を示す」意味とのこと。英語では「blessed」〜祝福されている〜と訳すのが一般的で、カトリックの本多哲郎神父は「神からの力がある」と訳します。

誰しも、貧しかったり飢えていたり泣くような人生は避けたいです。でもそんな状態にある時こそ、神さまを身近に感じることができる、と言っておられるように思うのです。普段は心に壁を築いて、神さまの愛や慈しみを妨害してしまう人々も、貧しく飢え泣けてくるような節目には、その壁が打ち砕かれ、万人に満遍なくずっと注がれてきた太陽の光のような暖かさの存在を認知するチャンスなのだと。つまり「非の打ちどころの無い自分」ではなく、無防備な状態で生きるしかない時こそが「幸いである」と言っておられると。わたしたちも「神からの力」を望み見る心を持ちたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「疲れ果てているとき」 2022.2.6

ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の湖畔で、舟からおりた漁師たちが網を洗っています。その日は一晩中漁をしたのに、悔しいことに何も撮れなかったのです。きっと皆くたくたに疲れて、そろそろひと眠りしたいと思っているところだったかもしれません。

そこへイエスがやってきて、漁師の一人シモンに、自分を舟に乗せて岸から少し漕ぎ出してほしいと頼みます。疲れ切っていたシモンでしたが、言われたとおりに舟を漕ぎ出しました。岸に集まっている人々に向かって話をした後、イエスは沖へ漕ぎ出して漁をするように言われます。シモンは「こんな時間から漁をしたところで何も捕れるはずがない」と思ったけれど、この人がそう言うのなら、もう一度だけ…と思って網をおろしてみました。すると、信じられないほど沢山の魚が捕れたのでした。

漁師として生きてきたシモンは、プロとしての経験を頼りに漁をしてきたことでしょう。そんな自分があんなに頑張ったのに、成果が出せなかった。心も体も疲れ切っていたであろう彼に、にもかかわらず「もう一度」トライする力が湧いてきたのは、舟の上で人々に話をしていたイエスの言葉が彼の心を動かしたからに他ならないと思うのです。

「お言葉ですから」と、イエスという人の促しを受け止め、沖へと漕ぎ出した結果、それまで経験したことのないような大漁になるという思いもかけない状況に遭遇したシモンは、「すべてを捨ててイエスに従」ってゆきました。彼にとって“すべてを捨てよう”と思ってしまうほどの衝撃的な出会いが、出来事が、そこに生起していたということでしょう。

シモンの心に響いたイエスさまの言葉が何であったか、それがシモンにとってどんな出会いであったのかは、聖書に書かれていません。なぜなら、イエスさまの言葉も、その時に起こる心や体の変化も、客観的な言葉で説明できるような事柄ではなく、その人の内側で起こる、その人だけが経験する出来事だからです。

わたしたちが疲れ果てている時にこそ、イエスさまは「ともに漕ぎ出そう。一緒にいるから、もう一度やってごらん」とはげまし、声をかけてくださるに違いありません。

牧師補 執事 下条 知加子

「耳を傾ける」 2022.1.30

生まれ育ったナザレに行き、安息日に会堂で聖書の朗読に続いて話をされるイエスさまの言葉は、素晴らしい恵みの言葉でした。けれども、それを聞いた人々の反応は冷ややかでした。イエスさまは、聴衆(ユダヤ人たち)のそんな心の内を見抜いておられました。

「この人はヨセフの子ではないか。」この発言は、イエスという人がどんな境遇の人間かということを聞き手が判定している言葉です。同じエピソードがマタイの福音書では「母親はマリアと言い…」と語られていますが、これには“父親のはっきりしない子”という侮蔑の意味合いが込められています。そんな人間の言うことなど、自分たちが聞く価値はないと言っているようです。

次にイエスさまは、異邦人が救われたエピソードを、ユダヤ人が大切にしている聖書(旧約聖書)から引用して話し、ユダヤ人だからという理由では誰一人救われることはないのだということを示しました。すると、聞いていたユダヤ人たちは皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、崖から突き落とそうとしたのです。

この出来事は、イエスさまがナザレで教え始められてすぐに、一日二日で起こったことではないかもしれませんが、そう長くない期間のうちに、イエスという人を排斥しようという動きが起こったのではないかと想像します。

私たちは誰かの話を聞く時、その人がどういう人かということを勝手な物差しでジャッジしてしまい、話の内容に関わらず、聞いたり聞かなかったりするということがあるのではないでしょうか。また、恵みがあると語られていたとしても、それが自分たち-しかも、特権を持っている自分たち-に恵みがあるという話ではないとしたらどうでしょうか。自分には関係ないと無視するだけでなく、“そんな人たち”に恵みがあるなんて許せないという、ある種の憎しみのような感情を抱いてしまうことはないでしょうか。

イエスさまの言葉が語られる時、自分たちの都合でなく、偏見を持たず、素直にその言葉に耳を傾けられる私たちでありたいと願います。

牧師補 執事 下条 知加子

「聖霊に包まれて生きる」 2022.1.23

私がかかわる別の教会で「礼拝の休止」や「ZOOMのみの礼拝」となったことをお知らせすると、数人の方が「またかと寂しい気持ちになりますが、一方でどこかホッとしている自分もあります」とお返事くださいました。礼拝がなくなってホッとしている、という意味ではなく、大切な方の命を危険に晒しながら、(ことにオミクロン株は、症状が全然出ない人もおられるので)知らない間に、誰かに感染させてしまっているかも、という不安を口には出さないけれどずっと抱えておられたことに、改めて気づかされました。

今日の福音書は、イエスさまが洗礼を受けられて聖霊に満たされ、故郷に帰り(ユダヤ教の)会堂で聖書を読み上げるシーンです。そして、わざと?なのか、それとも現代のわたしたちのようにその日に読まれる聖書の箇所が決まっていたのかは、わかりませんが、よりにもよって「貧しい人に福音を告げ知らせ、囚われている人に解放を、目の見えない人に回復を、圧迫されている人を自由にする」という旧約聖書イザヤ書の箇所が選ばれています。これはまさに、イエスさまの生涯そのものです。つまり、教養人や権力者、また人々から尊敬されている人などは、全く無視されています。それどころか、当時の社会で「神さまの恵みから漏れている」と決めつけられていた貧しい人、病気の人、抑圧されている人こそが、イエスさまからの愛を注がれる人であり、神さまがもっとも関心を持つ人々であると告げています。

しかしながらそれは、「かわいそう」だから、神さまが豊かに哀れみを下されるという意味ではなく、生きていることが苦しくてたまらない、なんとか自分の生き方を変えようと七転八倒している、努力してもいっこうに事態が改善されない、そんな人々の最も近くに神さまがおられる、その人々の苦しみや悲しさを理解し寄り添ってくださる、そういう神さまである、と告げに来られたイエスさまを、表していると思うのです。

今回のコロナ禍で、できなくなったことがたくさんあります。失ったこともたくさんあります。未だにどうしたらいいのかわからないことも多いです。でも、今すぐ変えることのできない現状に、圧倒的な無力感を感じて立ち尽くすのではなく、わたしたちは今この瞬間も、神さまの霊に包まれて守られていることを思い出したいのです。自分でなんとかして不都合なことを捻り伏せようと力むのではなく、聖霊が働くのを邪魔しないこと、これもまた、神さまへの大きな信頼ではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子




「カナの婚礼で」 2022.1.16

イエスと弟子たちが招かれた婚宴の席は、多くの人々が招かれて一週間ほども続くような大きな催しでした。そこでは沢山のぶどう酒が必要でした。そんな最中、その大切なぶどう酒が足りなくなるという事件が起こります。それはあってはならないこと、人々を招いた側にとっては大変な事態でした。

母マリアがイエスに、ぶどう酒がなくなったことを訴え、助けを求めます。そして召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。イエスは、水がめに水をいっぱい入れるように言いますが、そこには80~120リットルも入る石のかめが6つもありました。水は井戸から汲んで来なければなりません。井戸は2㎞位離れた所にあったと思われます。空身で歩いても20分くらいはかかるその道程を、水を運ぶのは大変な仕事です。召使たちは一生懸命重たい水を運び、かめの縁まで水を満たしました。そして、イエスに言われるままに、その水を改めて汲んで宴会の世話役のところへ運んで行くと、何と美味しいぶどう酒になっていました。人々は大変驚きます。

一番驚いたのは、その水がどこから来たのかを知っている召し使いだったかもしれません。汲んできたのは確かに水だった。水は水でしかないはずなのに…。けれども、水は生活のため、私たちが生きて行くため、命のために欠かせないものです。毎日井戸からせっせと水を汲み、飲んだり、料理に使ったり、身体を洗ったり。そんな日常そのものの中に「命」があるのです。

ぶどう酒が無いという訴えは、婚宴にはぶどう酒が欠かせないという常識、私たちの‟こうあらねばならない”という思い込みから発せられているのかもしれません。大切なのは常識ではなく、水(命)そのものであることを、私たちは忘れがちなのではないでしょうか。

イエスさまに頼り、イエスさまにお任せしたとき、無味無臭で価値が薄いと思い込んでいた水が、実は芳醇で美味しいぶどう酒(とても価値のあるもの)であることに気づく。常識を破るこの出来事(しるし)を見た弟子たちは、イエスを信じました。

水からぶどう酒に変えられるのは、私たち自身かもしれません。すべての人の命が、イエスさまの光によって解放され、その輝きを取り戻してゆきますように。

牧師補 執事 下条知加子

「洗礼の意味は?」 2022.1.9

クリスマスの季節が終わり、1月6日から顕現(=いろいろなことが明らかになるという意味)節に入りました。そんな顕現後の主日は、バプテスマのヨハネと、イエスさまの洗礼の記事です。それにしても「洗礼」とは何でしょうか。イエスさまにとって、洗礼を受ける前と後では何かが変わったのでしょうか。信徒ではない方々からはしばしば「洗礼を受けると、不安がなくなるのですか」というようなことを聞かれることがあります。これは「その通り」の部分と、「ちょっと違うかな」という両方の部分があると思います。

「その通り」については、とにかく精一杯、自分の生涯を生き切れば、最終的には神さまがどうにかしてくれる。失敗したり、不十分だったりしても、わたしという存在を否定なさることは決してなく、「よくやってくれたね」という眼差しで迎えてくれるような安心感はあります。生きている以上、様々な選択や決断をしなければならないことは多いですが、結果が正しかったのか間違っていたのか、ずっと後になってもわからない時もあります。また、その時は我が意を得たりと自信満々でも、だんだんその思いが濁ってくる時もあるでしょう。でも、神さまの時間の中で生かされ、限界や弱さを抱えたまま我々は、自分に出来ることをやればいいし、完全さを自分に強いなくて良い。そのままで神さまが大切にしてくださる、という意味では、「その通り」なのかもしれません。

一方、「ちょっとちがうかも」の部分は、洗礼を受けると嫌な目には合わなくなる、という意味では、ちょっと違うかなと思います。洗礼を受けても、相変わらず迷ったり苦しんだり、悲しいことが起きたり、人に誤解されたり、という、人生の苦しみは避けられないです。

な〜んだ、そんなことなら、洗礼を受ける意味はないじゃないか、ということになるかもしれません。でも、もし「洗礼」ということを、「損か得か」というような視点で捉えてしまうと、イエスさまが伝えようとされた一番大切な核心を見失う気がするのです。礼拝に「慣れて」きたり、聖書の知識が増えたり、キリスト教や教会の伝統やしきたりをたくさん知っていたり、ということは、イエスさまが命がけで伝えようとされたこととは、全く別のことだと思うのです。

そうではなく、神さまの愛に触れること。社会がどう否定しようと、人々が何を言おうと、わたしたちが疑おうと、神さまは揺るぎなく、わたしたちを愛してくださる、そのことを信じること、信じようとすることが、洗礼を受ける、という内容なのだと思います。

わたしたちは礼拝を通じて、神さまの愛に触れます。また、一緒に聖書を読んだり語り合ったりして、ひとりでは気がつかなかった神さまの世界を知ります。それらが、必ずしも都合の良いことばかりとは限りませんが、概念的に頭で理解できたら神さまがわかった、ということではなく、心の一番底にストンと落ちるというか、世界がちがって見えてくるような「神さまの世界」を、本当に信じて生きていきたい、ということが一番、基にあるように思います。

イエスさまは、神さまの愛の中でこの世に送り出された。そして、改めて「神さまの世界」をこの世に伝えるために生かされている、そのことを身体に刻みつけるために、改めてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「弱さを持っているからこそ」 2022.1.2

モーセは言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記 31:1-8参照)

不可能とさえ思える神の召し出しに応えて、「奴隷の家」エジプトから同胞たちを導き出したモーセは、約束の地を目前にして自分の後をヨシュアに託すこととなりました。モーセもヨシュアも神に選ばれ召し出された人ですが、彼らに並外れた頭脳や体力、強固な信仰があったわけではありません。むしろ人として、弱さを持ち、それを深く自覚している者だからこそ、民を新しい天地に導く使者として選ばれたのです。

弱さ・足りなさのゆえに恐れを抱くヨシュアに、神は繰り返し「強く、雄々しくあれ」と呼びかけます。神は、困難な道程を行く彼をはげましつつ、常に民とともに歩もうとされました。

牧師補 執事 下条 知加子

「神への信頼という原点へ」 2021.12.26

旧約聖書の一番始めに位置する「創世記」は、書かれた年代が一番古いわけではありません。しかも聖公会の教会では、創世記が記すストーリーを文字どおり「こうやって人類が誕生した」とは考えていないのですが、それでもなお、「人が生きるは何のためだろうか」という問いに応える神話として、含蓄は深いものがあります。

今日の特祷では「(神は)驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造」り、「さらに驚くべきみ業によりイエス・キリストによって、その似姿を回復してくださ」ったとありますが、この2つが並列していると、以下のように読む人がいるかもしれません。

目に見えない神さまを、そっくりそのまま目に見えるかたちにした被造物がわたしたち人間であり、最初から「完全無欠で完璧な存在」として造られた。しかしその後、人類は途中で道から外れ、神が意図した「完全さ」から離れていった。元の「神のみかたち」に戻すため、イエス・キリストがこの世に送られ、十字架刑によってわたしたちは、神に似た存在へと復帰したと。新約聖書の中にも似た表現があるので、「傷のない神の似姿に復帰した状態が、わたしたちの本来の姿」という認識を強めてしまうかもしれません。でも、本当にそうなのだろうかと疑問にも思います。創世記の「甚だ良かった」という表現は、果たして「傷のなさ」を意味するものなのでしょうか。神さまが望んでおられるのは、わたしたちが失敗を避け汚点を作らないことなのでしょうか。

わたしたちがこの世界で、うまく生きていくためには、失敗を避けることは必須でしょう。しかも人にわからない範囲なら、心の中で何を考えていても自由だし、誰にもバレないと思っています。だから、人に知られるような汚点を持つことや、失敗を指摘されることを非常に恐れている、というのが正直な心中かもしれません。こんな現実の私たちが、イエスさまの十字架によって回復されなければならないのは何なのか。それは間違いをしでかさない強靭な精神力や完璧さではなく、神への混じり気のない信頼なのではないかと思うのです。何をしていても、あるいは何もできなくても、神さまが全てを統治し、無駄なことは何一つないのだと心の底から信じること。それが信仰の核心であり、そして神へのそんな信頼は、わたしたちを本当の意味で自由にしてくれるはずです。今年の最後に今一度、神さまへの信頼があなたを自由にしているかどうか、心に手を当てて問うてみましょう。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「マリアの賛歌」(アヴェ・マリア) 2021.12.19

イエスの母となったマリアが天使ガブリエルから「身ごもって男の子を産む」と告げられたのは、ヨセフと婚約中でまだ結婚する前、しかも彼女がまだ13~14歳という若さのときでした。あり得ない、あってはいけないことが身に起こる、あるいは起こってしまった。マリアはきっと、誰にも相談することができず途方に暮れ、思い悩み、苦しんでいたことでしょう。その戸惑い・不安はどれほどだったでしょうか。

マリアは、天使が話していた親戚のエリサベトおばさんになら相談できるかもしれないと思い立ち、急いでユダの山里エインカレムに向かいます。エリサベトは長い間子どもができなかったのですが、かなり高齢になってから願い叶って子を宿していました。聖書に詳細な記述はありませんが、エリサベトはマリアの話をしっかりと聴き留め、彼女の戸惑い、悩みを暖かく受け止めたに違いありません。高齢になるまで子どもを授かることなく、長く不妊の女として神さまの祝福から遠いと思って過ごしてきたエリサベトだからこそ、マリアの苦しみを理解することができたのではないかと思います。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」と伝えます。そして「お言葉どおりこの身になりますように」と神さまにゆだねたマリアを「なんと幸いでしょう」と祝福するのです。

エリサベトのところに3か月ほど滞在している間、マリアは沢山話を聴いてもらい、色々なことを考え、思い巡らしたことでしょう。そして、あらためて神さまを信じて歩んでゆく決意をしたのだと思います。そこで生まれたのが「マリアの賛歌」です。貧しく、取り立てて地位もなく、世間的に許されない状況に追い込まれてしまった私に神さまは目を留めてくださった! 神さまはそういう方なのだというマリアの目覚めから生まれた賛美の歌。

日々の夕の礼拝でささげられ、アヴェ・マリアの祈りとして唱えられ、沢山のアヴェ・マリアの曲が作曲されている「マリアの賛歌」。この賛歌を歌い唱えるとき、神さまの祝福そして救いが、私たちに、そして多くの人々に訪れることを願い、祈りたいと思います。 

牧師補 執事 下条 知加子

あなたの「お役目」 2021.12.12

今週もまた、バプテスマのヨハネの話が続きます。ヨハネのもとには、洗礼を受けようと、たくさんの人が集まって来ましたが、誰でも無条件に洗礼を授けてもらえたわけではなさそうです。どんな人が洗礼を受けることができ、誰がお断りされたのか、物語を読んでいきましょう。

まず、由緒正しい家柄の人たちがやって来ます。自分たちはきちんと伝統を守り、礼拝や献金もしている「アブラハム」の子孫なのだから、他の人たちより優れていると、どこかで思っています。まさか洗礼を受けたいと申し出て、お断りをされるなんて夢にも思っていません。
そんな人々にヨハネは、そのままでは神の国には入れないと伝えます。安定して衣食住が確保でき、生きていく上での様々な必要を心配なく満たせるのは、むしろ特別なこと。伝統を守れず、礼拝に出席したくても出席できない人々を、見下すような心根は、神の国から遠く離れていると指摘します。そして、自分たちが当然と思っている特権を分かち合うよう勧めます。

次にやって来たのは徴税人と兵士たちでした。徴税人は、税を集める仕事ですが、その業務に対しては対価が支払われないので、生活費を上乗せして税を集めざるを得ません。中には法外な金額を要求する裕福な徴税人もいるので、とても嫌われています。
一方、兵士は、ローマ帝国に属する下っ端です。命は尊重されず、ある意味消耗品のように使い捨てられ、しかし暴力を奮ったり、権力を笠に着たりする兵士もいて、ユダヤの人々にとっては帝国支配者の手下です。できれば口もききたくないし、目も合わせたくない存在です。

ヨハネはこの人たちに対して、洗礼を受けるためには、まず今の仕事を辞めて出直して来なさい、とは言いませんでした。そうではなく、騙したり恐喝したり乱暴をふるったりするのはやめて、まず自分の与えられた場で、役目を果たしなさいと勧めます。それは、その人々にとって簡単ではないにせよ、人としての存在を認める知らせです。

ヨハネが行っていたバプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていました。しかし、気持ちよく生活するために、洗礼を受けてさらに人生のグレードアップを目指しましょう、という話ではなく、余計なものや不必要なものを振り捨て、質素な生活に立ち返り、本来の自分の役割に目を向けるという強調点があったようです。

わたしたちには、それぞれこの世での「お役目」がありますが、気がつくとあまり大事ではない飾りに埋もれて、見えなくなっていることも多いのではないでしょうか。また、時にはそれを不満に思い、損をした、不公平だと感じたり、もっと楽に得をする道を探したくなったりもします。
でも、何をしていても、一見幸福なように周りからは見えても、実は自分の「お役目」を見失い、忠実に生きられない人は不幸です。紫の季節、余計なものをまといたくなる誘惑を振り捨てつつ、わたしたち自身の本当の「お役目」に耳を澄ませたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「悔い改め」 2021.12.5

「悔い改め」という言葉を辞書で引いてみると、“キリスト教で、自らの罪を懺悔して神にゆるしを願うこと”と書かれていました。今まで沢山聞いてきた言葉なので、それがいわゆる‟キリスト教用語“だということに少し驚き、悔い改めるとはどういうことなのか、あらためて考えてみました。

何か悪いことをしてしまったとき、あるいは悪いことをしていることに気がついたとき、相手に謝ること、ごめんなさいと言うことは、人間関係の中ではとても大切なことです。ごめんなさいと言う時、そこにはおそらく「もう(同じことは)しないようにします」という気持ちが含まれているように思います。では、悔い改めることは、神さまにごめんなさいを言うことなのでしょうか。

今日読まれた福音書にあるイザヤ書の言葉に「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」とあります。沢山の谷があり、たくさんの山と丘がある世界が、人々が悔い改めることによって平らにされていく、という風にとらえることができるように思います。

今私たちが生きている世界も、谷=低い所と、山や丘=高い所が数えきれないほどあります。もし高い山の上にいる人がその山頂から谷の底にいる人に向かって「ごめんなさい」と言ったとしても、その声は遠すぎて聞こえません。心から謝ってその気持ちが届くようにするためには、山を崩して、その土で谷を埋めて、お互いに同じ平面に立つ必要があるのです。

まず、自分がどこに立っているか、あらためて見つめ直してみることが大切ではないだろか。そうして、自分の行いを振りかえり、思い巡らし、同じ過ちを繰り返さないためには自分はどう変わって行けるのか、神さまに問うてみる。それこそが悔い改めであり、世界が平らになっていく一歩になるのではないか。

降臨節の2週目、そんなことを思い巡らしてみたいと思います。    

牧師補 執事 下条 知加子

「暗闇からはじまる」 2021.11.28

前にもお話ししたかもしれませんが、イエスさまがおられたユダヤの習慣では、日没後に一日が始まりました。太陽が西の空に沈むと「今日」が終わり、新たな1日が暗闇から始まるのです。朝は必ず来ると知ってはいても、何も見えない闇の時間は、なんとも長く感じられたにちがいありません。時計を持っていない当時の人にとっては、夜は不安がいっぱい、時には恐ろしい時間だったことでしょう。闇の中で野獣の唸り声が聞こえれば身がちぢみ、遠くの方で雷が落ちて谷にこだますればぎょっとして跳ね起きたかもしれない。そんな「一日の始まり」を過ごしたのでしょう。

今日から始まる新年、そして降臨節は、2つの異なるテーマが同時に存在します。一つは赤ちゃんの姿でわたしたちのために生まれてきてくれたイエスさまを迎える準備のとき。もう一つは、世の終わりが来て、今まで曖昧であった正義と不正義がはっきりするための備えのとき。この2つは、まるで違うようにも感じますが、1日の終わりがまず暗闇から始まる生活習慣を伝統として守ってきた人々にとっては、そんなにかけ離れたテーマではなかったのかもしれません。

都会にいるとなかなかピンと来ませんが、夜のとばりの中では、何か困ったことがおきても、おいそれとは助けを求めにくいものです。危機的状況に直面しても、誰かに知らせるのさえ難しいことがあります。そしてそれは、荒れ野や村はずれに住んでいた聖書の人々の生活状況ということに留まらず、今を生きるわたしたちも、同じような難しさを抱えています。困ったことがずっと解決できなかったり、疲労困憊して何も考えられなかったりすると、本当は助けを求めて動かないければならないのに、どうにも声をあげることさえ難しくなります。また、困り切っている自分の状態を誰も知らず、知らせる意味も見えず、さらに自分を追い込むことになります。そんな時のわたしたちは、自分の弱さをいやというほど思い知らされます。それなりにうまく乗り切っている時は、自分の弱さのことは忘れ、ある意味自分をもうまく誤魔化してやりくりしていますが、ごまかしも底上げも通用しない時がやって来た時、本当の自分の姿を見ることになるのです。その時がいつ来ても大丈夫でしょうか。降臨節のメッセージは、もう一度ご自分を見つめ直し、「今の生き方で大丈夫ですか?」という問いに向き合うよう、招いているのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「どういう罪で?」 2021.11.21

“ピラトから尋問される”という小見出しがつけられた今日の福音書の箇所を読むと、イエスという人が、罪と認められることは何一つしていなかったのに、死刑の判決を受けることになったと書かれています。ヨハネによる福音書のその前後を読んでみても、イエスにはっきりとした罪は認められていません。

ユダヤの大祭司カイアファのもとで、何か悪いことをわたしが言ったのならその悪いところを証明しろと言ったイエスは、態度が悪いというだけで平手打ちされ、ローマの総督官邸に連れて行かれます。総督ピラトは、罪が認められないままイエスを鞭で打たせ、兵士たちは茨の冠を頭に乗せます。そして最後はイエスは死刑に、しかも十字架に架けられて公開処刑されることとなりました。


なぜそんなことになってしまったのか。イエスを無き者にしようとたくらんだ人たちがいたのはもちろんですが、沢山のユダヤ人たちが、イエスを「十字架につけろ」と叫んだからです。そして、イエスが殺されることを他人事として傍観していた人々も、彼を死に追いやったといえるでしょう。


今の日本には磔刑(十字架刑)こそありませんが、罪のない人が罪に問われ、死に追いやられることはいくらでもあるように思われます。権力によって、あるいは多くの人の声によって。沢山の人々の叫び声は、出来事の本質を見失わせ、本人やその人を支えようとする人々の声も主張もかき消してしまいます。そして、その人に起きている出来事を他人事として傍観する人びともまた、彼/彼女を死に追いやってしまうのです。

 
年間最終主日(日曜日)の今日私たちに与えられた福音書の物語は、かの幼子が何のために生まれてくるのかということを、あらためて思い起こさせてくれます。来週から始まる教会暦の新年、アドベント(降臨節・待降節)。キリスト・イエスを迎える準備の時として心豊かに過ごすことができますように。       


牧師補 執事 下条 知加子

「ニセモノとの対峙」 2021.11.14

昔々、「エクソシスト」という映画がありました。かわいい少女に何かが取り憑いたので司祭が呼ばれ、悪霊払いのため四苦八苦といった内容だったと思います。でもこの映画では聖書に登場するような「悪霊による心的身体的異常/疾患」の話ではなく、主人公の少女の目つき顔つきが別人のようになり、家族を傷つけ罵り続ける、という怖い内容でした。呼ばれた司祭は、その少女の心身の解放を祈り求めましたが、全然効果はありません。また、時間が経つにつれ悪霊もいろいろと策を練ってくるようになります。まず、親しい友や尊敬する先輩の声音を使い、「そんなことをしても意味がない」と説得にかかります。それでは効かないので、今度は亡くなった司祭の母親になりすまし、諦めるよう泣き落としにかかります。

ところで、今日の福音書が書かれた時代(実際にはイエスさまが生きた時より少し後)は、イエスさまを信じる人々が窮地にありました。ユダヤ教からもローマ帝国からも迫害を受け、みつかれば次々と投獄され、処刑されるような日常で、誰を信じたらよいのか、何をどうしたら状況を変えられるのか、本当に誰もわからない。少しでもわずかでも、今持っているものを失わないように努力する以外、なすすべがありませんでした。そんなときは、生きるために努力をしたり、あれこれと大切な決断しても、無力感に打ちひしがれ、虚しくなります。そんな絶望的な気分になると、ニセモノのスーパースターがあらわれ、少し変だなと思っても、なんだかすべて解決してくれる妄想に皆が取り憑かれてしまい、すがりつきたくなります。

わたしたちも、実は似たような窮地に追い込まれることがあります。どうしたものか苦しみ悩んでいるとき、自分のもっとも弱いところを突いてくる悪霊の声に惑わされそうになります。「これが皆にウケる」「こちらがトク」とささやき、思考停止へと誘導します。ニセモノほど本物らしく振舞いますが、様々な苦難を乗り越えニセモノとの遭遇にひるまず、正しい決断をして来た人には、今度はさらに高度なニセモノが接近して来ます。しかし、惑わそうとする声が勝手にやって来るのではなく、私たちの中にある[欲を求める心]に共鳴して引き寄せられて来るのではないでしょうか。そんな時わたしたちは心を奮い立たせ、主のみ心がどこにあるのか真っ直ぐに顔を向け、神が大切になさりたいことを見極めたいと思います。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「持っている物をすべて」 2021.11.7

イエスは教えの中で、「律法学者たちに気をつけなさい」と言っています。律法学者と言われている人たちがどんな振る舞いをしていたかというと、「長い衣をまとって広場を歩き回」ったり、「広場で挨拶されること」を望んだり、「会堂では上席、宴会では上座にすわることを望」んでいました。また、「見せかけの長い祈りを」していました。どうしてそういった行いをするのでしょう。それは、人々に見せるために他ならないと思います。人々に見てほしくて、それらのことをしているのです。最近ではマウントを取るという言い方がされたりもするようですが、自分の優位性を相手や周囲に示す行為と言えるでしょう。ついそのような行為をしてしまったり、そんな気持ちが心の中に起こることは、私たちにもあるのかもしれないと思わされます。

一方、レプトン銅貨2枚(100円位?)を賽銭箱に入れたやもめは、その行為を人びとに見てほしくてやったのでしょうか。彼女は「大勢の金持ちがたくさん入れている」中で、それしかささげるものがないことに、肩身の狭い思いをしていたのではないかと想像されます。ですから、目立たないようにこっそりと賽銭箱に入れたに違いありません。それでも、それは彼女の持っている物すべてでした。「生活費」と訳されているbiosというギリシャ語には、“人生”、“生活”といった意味もあります。ですから、“生活のすべてをささげた”と受け取ることもできるでしょう。

列王記上17章に登場するサレプタのやもめは、手元にわずかに残っていた小麦粉と油を食べてしまったら、後は自分も息子も「死ぬのを待つばかり」だと思っていました。ところが、神の人エリヤに、言われたとおりまず小さなパン菓子を作ってささげたところ、「壺の粉も瓶の油もなくなら」ず、食べるものに事欠くことはなくなったのです。

たとえわずかであっても、自分の持っているもの、生活、人生のすべてをささげるとき、神さまはそれを価値あるものとして受けとめ、私たちを豊かに養ってくださるのです。

牧師補 執事 下条知加子

「諸聖徒日」 2021.10.31

キリスト教では11月1日を諸聖徒日(諸聖人の日、万聖節)、11月2日を諸魂日(死者の日、万霊祭)として覚え、記念しています。日本にはお盆(7月または8月)というものがあり、亡くなった先祖をお迎えして供養します。先にこの世を去った人たちを思うという点では同じかもしれないのですが、違っているところもあるように思います。この世を去った人たちと地上にあるわたしたちとの距離感が、その一つではないかと思います。

聖餐式の“感謝聖別”の祈りの中で司祭は「み使いとみ使いの頭、および天の全会衆とともに」と唱えます。それは、地上にある私たちだけで礼拝しているのではなく、天にいる人びとと一緒に祈りをささげているということです。人の地上での命は有限で、いつか必ず死んでその体は葬られ、生きている私たちの目には見えなくなる。けれども、消えて無くなってしまったわけではなく、神さまに招かれてその御許にいるのだという信仰です。

墓地で礼拝する毎に、またご葬儀の度に私は、亡くなった人たちがいるはずの世界、というか空間のようなものをあらためて意識させられます。普段は忘れているものが不意にづいてくるような感じと言ってよいでしょうか。すると、その世界は、どこか遠いところにあるのではなく、見えていないだけで実はいつも私たちのすぐそばに、いつもあるのではないかと思えてきます。そして時に、そちら側に移されて行ったあの人・この人の生きている姿が私に迫ってくることがあるのです。

明日から11月。諸聖徒日・諸魂日を覚えて、関係の各霊園・墓地で逝去者を記念する礼拝がささげられます。今年は残念ながら、感染症予防のため合同礼拝は行われませが、それぞれの墓地においでになる方もおられるでしょうか。死者の月として覚えられているこの月、逝去されたご家族や信仰の先輩たちを思い起こし、み国での平安を祈ります。そして、今一度自分自身を振り返る時として、大切に過ごしてまいりたいと思います。

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」(マタイによる福音書 5:11)

牧師補 執事 下条知加子

「靴屋のマルチン」 2021.10.24

年末が近づく気配がすると、どうしても思い出してしまうのがトルストイ原作の「くつやのマルチン」です。文学としてだけではなく、かわいい挿絵の絵本もたくさん出ていますので、きっと一度はお読みなったことがおありかと思います。マルチンは、年取った靴屋さんですが、息子も妻もだいぶ前に亡くなり、喜びも楽しみもないまま半地下の作業場で靴の修理をしてきました。「心の中には悲しい涙がいっぱい詰まっていました」というくだりがあり、もうすでにここでグッと来てしまいます。作業場にしつらえた小さな窓から見える、行き交う人々の足元だけが、マルチンの外の世界とのつながりでした。でも生きている意味もわからなくなっている彼には、それは目に入りません。

ところがある晩の夢で「マルチン、明日行くからね」というイエスさまの声が聞こえます。半信半疑のマルチンですが、さあ翌朝からは、窓の外が気になって仕方がありません。ふと外を見ると雪かき作業に疲れ果て、呆然としているおじいさんがいます。今まではそんなこと考えたこともなかったのに、お茶をご馳走することを思いつき、作業場の中に入ってもらって暖かなお茶でもてなすと、雪かきのおじいさんは「心もからだも温まって」帰っていきます。しばらくしてまた窓の外を見ると、雪の中なのに薄着の女の人が赤ちゃんを抱いて震えています。マルチンが暖炉の前へと招き、スープとパンの残りでもてなし、自分の上着を差し出すと、朝から何も食べていなかったその人は泣き出してしまいます。でも、マルチンがあげた上着に赤ちゃんをしっかりくるむと、元気を出して帰っていきます。そんなこんながあった1日でしたが、イエスさまは来なかったし、やっぱり幻想だったのかと落胆するマルチンに、再びその声は訪れます。「おじいさんも女の人も、それからあの人もこの人も、あれは全部わたしだった」と。

「不幸」ではないけれど、社会の中で「不便な」状況に置かれた人のところへ、イエスさまは真っ先にいらっしゃる。そして、やがてそのことに気がつくわたしたちを待っている、ということなのかもしれません。不便な状態に追い込まれるのは誰でも嫌ですが、でもそうなったのは、自分の落ち度でも、何かのバチが当たったのでもなく、恥じることでもないと聖書は明言します。それこそマルチン本人もまた、生きる意味を見失い、「涙のいっぱい詰まった心」をどうすることもできず、感謝も感動も喜びもない、言わば屍のような毎日を、とても「不便に」過ごしていた一人でしょう。そんな地下室からもっと広い世界へと、やさしく連れ出してくださるイエスさまの物語です。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「見ていてください」2021.10.17

昨日は葛飾学園(保育園)のプレイデーでした。昨年に引き続いての感染症予防対策で、競技数を減らし、第1部(0~3歳児)と第2部(4・5歳児)に分けて完全入れ替え制に、観覧席も入場制限ありという、例年とは少し違った運動会となりました。でも、朝からパラついていた雨は開始時刻にはピタッと止んで青空も…。すべての競技が無事に行われました。

保育園の先生たちが、沢山の手をかけ時間をかけ、心をこめて準備してきたプレイデー。こどもたちも一生懸命練習して、本番に臨みました。けれども、お天気も然り、本番では何が起こるかわかりません。乳児クラスでは、普段は上手にできている子が大泣きしてしまったり、予想外にスムーズに競技に参加できていたり。かけっこでは一人の幼児さんが転んでしまって、起き上がって走り始めた途端片方の靴が脱げてしまい、それでもあきらめずに最後まで走り切りました!練習のときには多少の不安が残っていた(?)組体操、本番ではものすごく上手にできました。年長さんの和太鼓も立派でした。沢山のドラマが生まれ、泣き笑いがあり、保護者の方たちも先生たちもきっと、涙が出るくらい感動したのではないかと思います。

私たちの人生においても予想外のことは次々に起こります。念入りに準備して、一生懸命努力したとしても、そうそう思った通りにはいかないのが常ではないでしょうか。想定外のことが起こって慌ててしまったり、もはやどうしてよいかわからなくなり、行き先の見えない暗闇の中に独り置いて行かれたような気持になることだってあるでしょう。そんな時、もし“誰かがわたしを見てくれている”ことに気づいたなら、もう一度立ち上がってみようと思えるかも知れません。

プレイデー第2部の最初に、みんなを代表して4人の年長さんが言ってくれた「はじめのことば」に、「神さま見ていていください」という言葉がありました。「見ていてくれる誰かがいる」というのはどんなに心強いことでしょうか。神さまの視線を感じつつ生きている彼らが、その視線の中にあって、これからも活き活きと生きてゆくことができますように。

牧師補 執事 下条 知加子

「手のひらを開くように」 2021.10.10

小さいときから、清く正しく生きようと、ずっと精進してきた信仰深いお金持ちが、イエスさまに聞きます。「どうしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」この人が聞いている永遠のいのちとはいったい何を指すのか、それも大変気になるところですが、詳細はさて置き、この人はこう言われてしまいます。「行って、あなたの持っているものを売り払い貧しい人々に施しなさい。」するとこの人はがっかりして悲しみながら立ち去っていきます。たくさんの財産を手放す気はなかったからです。

家族や自分のために一生懸命働いて築いた財産なのに、大切に蓄えておいたのに、それを全部吐き出して、世の中の困っている人々を助けなければ、神さまに顔向けできない、と言っているように聞こえたのかもしれません。財産の全部ではなく、一部だけなら施すとしても、自分の分をとって置こうとするのは、いけないことなのでしょうか。

ところでイエスさまは、この質問をした人を「慈しんで」返事をされた、と書いてあります。この人に対する非難の言葉も発していないし、貧しい人に施せないとは残念な人だとも言っていません。むしろ、たくさんの財産を失わないように管理する重圧に耐え、財産があるがゆえに不自由になっているこの人の心をいとおしむように、「何よりもまず守るべきは財産で、そこは変えないままで、可能なら『永遠のいのち』もほしいと思っていませんか?」と言っているように聞こえます。

それは、たいした財産のないわたしたちに対しても、呼びかけられている言葉なのかもしれません。これはさすがに手放せないと思い込み、万全な管理保管をするために、自己犠牲を強いられている事柄。どうせ変えられないからと、今までどおり我慢している事柄。もう今さら変えられないと思い込んでいる人生。そして、情けなく認めたくないような悲しい自分。それらは、ひょっとしたら「変えたくない」という気持ちがどこかにあって、それをイエスさまに見抜かれているのかもしれません。自分を変えるつもりはないけれど、追加で手に入るなら「救い」も欲しい、という思考経路から自由になるようにというお招きなのではないでしょうか。わたしたちが、人に強いられてではなく、自分の意志で手のひらを開き、心を開くとき、今まで見えなかった恵みがそこにあるのが見えてくるのではないでしょうか。

牧師 司祭 上田 亜樹子

「結びあわせてくださったもの」 2021.10.3

「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」(マルコ10:2) ファリサイ派の人からのこの質問(というより詰問)は、「離婚をすることは、律法に適っているでしょうか」と聞くのと同じようでいて、実は全く違っています。「離縁状を書いて離縁することを許し」たというのは、女性がひとりで生きて行くことが非常に困難な社会において、主人の身勝手で女性がいとも簡単に放り出されるようなことが平気で行われていたので、せめて公式な離縁状を渡すようにと決められた、と考えられるでしょう。つまり、夫の側が一方的に「離縁する」と言っているのであって、妻の意思や希望は無視されています。

男性(強者)の所有物のように扱われ、軽んじられていた妻(弱者)の人権を、イエスさまは大切に考えておられました。律法というルールを盾にして自分たちの権利を主張する人たち(強者)に対して、イエスさまは、それは神さまのみ心ではないと諭しておられるようです。

「神が合わせられた者を人は離してはならない」(マルコ10:9)という言葉は、祈祷書(現行)の聖婚式文の中で、宣言の言葉に続けて司祭が言うことになっている言葉です。教会の結婚式に何回か出席していると、つい結婚式のための聖書の言葉であるかのように錯覚してしまいそうですが、イエスさまがおっしゃっている「神が結び合わせてくださったもの」というのは、何も結婚という結びつきだけを言っているのではないでしょう。

自分の都合だけで、これは要る、これは要らないと選別することは、物に対してなら構わないでしょうが、少なくとも相手が人ならば、そういう勝手をするべきではない。人との出会いはすべて神さまが用意してくださっているものだと思います。家族、学校や職場、そのほかどんな場であっても、何十億といる人びとの中から、神さまはわたしに今、大切な人と出会わせてくださっているのかも知れません。

「神が結び合わせてくださった」と信じて、一つひとつの出会いを大切にしていきたいと思います。そして、私たちをイエスさまと出会わせてくださったのもまた神さまであることを信じて、この出会いを大切にしつつ歩んで行きましょう。

牧師補 執事 下条 知加子

「小さなもののひとりを」 2021.9.26

礼拝を見たこともなければ、キリスト教に興味を持ったこともない人々と話していると、(聖書ではなく)神話に出てくる天使の名前が出てくるアニメを語り出し、「だから自分はキリスト教をけっこう知っている」とのたまう大人がいることに正直驚きます。そんな時は「あ、そうなのね」と流しますが、その方々にとっては超越的な力を武器にした戦闘シーンが感動的らしく、この怪物はキリスト教で一番えらい!などと強調されると、多少複雑な気持ちになります。

一方、直接宗教に関わったことのない一般的な日本人にとって、「宗教とはお金目当ての活動」というイメージもあるようです。目に見えない「希望」や「信念」を言葉にするのは、何かを誤魔化すためであり、「その背後に何かある」はずなので、人の弱みにつけ込んで金銭的な搾取をするような「宗教団体」の全貌が明らかになると、逆に、変に納得したりもするようです。いずれにせよ日本で宗教/信仰と呼ばれるものは綺麗事であり、心の弱い人や非科学的な思考の持ち主が飛びつくもの、と相場が決まっています。

こうなってしまった原因のひとつには、1995年の地下鉄(日比谷線、千代田線、丸の内線)サリン事件があると思います。「宗教」に洗脳され思考停止した人々はお金のためなら何でも実行、そして反社会的な行動や破滅も厭わないというイメージを広げた事件なのだろうと思います。そして、あのような酷い事が再び起きないためには、宗教や信仰に近寄ってはならず、ある種の自己防衛からか、目に見えない世界を茶化し、心や精神の存在を軽んじるのが安全、という風潮に繋がっているのかもしれません。

でもだからこそ、なのだと思います。イエスさまは徹底して、声の小さな人、社会の果てに押しやられている人、切り捨てられている人のところに身を置きました。何が得か、役に立つかという話ではなく、徹底して「痛み」を共有し、神の愛こそがわたしたちを解放し、人生を美しくするものだと伝え続けました。お弟子たちの中には、そんなわかりにくく、まどろっこしいことを言っていないで、早く人々を唸らせたいと急いだ人もいましたが、それこそが「小さな者のひとり」をつまずかせる入り口であることを、イエスさまはご存知だったのでしょう。キリスト教の玄関の中にいるわたしたちもまた、効率と結果に心を奪われるとき、玄関の外にいる「小さな」人々をつまずかせる危険を持つものです。もしわたしたちが神さまの愛に信頼していなければ、イエスさまのメッセージをうわべだけで捉え、まちがって伝える危険があります。神の愛によって生かされていることを、まずわたしたちが心から信じているかどうか、自身に問うことから始めていきましょう。

管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「後を継ぐ者」 2021.9.19

イエスさまから、ご自身が捕らえられ、殺され、3日後に復活すると聞かされた12人の弟子たちは、その意味を理解できませんでしたが、怖くて、尋ねることもできませんでした。自分たちが信じ、すべてを捨てて従ってきた方が捕らえられるなどと考えることは耐え難いこと。それに、まさか殺されるなんて想定外だったでしょう。不安になった弟子たちが旅の道々議論していたのは、自分たちの中でだれが一番偉いかということでした。イエスさまには聞こえていないつもりで…。

イエスさまがおられなくなるようなことがあったら、残された私たちの中の誰かが、イエスさまに代わって、共にやってきたこの活動のトップになるのだろう。ではそれは誰か。頭のよいあの人か、声の大きい彼か、それとも…。いや、イエスさまに一番愛されていたのは…。そんな弟子たちの心を、イエスさまはすっかりお見通しでした。そしておっしゃいました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

本当の意味でトップやリーダーになる人というのは、人々を後ろに従えて引っ張って行くというよりは、人々の後から、困っている人を助け、倒れている人を起こし、人々に仕えてゆく人なのでしょう。12人の弟子たちは、イエスさまがなさっていたように人々を助けてはきたけれど、「すべての人の後になる」というイエスさまの姿を、本当に理解することはできていなかったのかも知れません。

誰かに「仕える」という時、もし相手の尊厳を認めていないとすれば、イエスさまがなさったように仕えることはできないのだと思います。あのときイエスさまが「手をとって彼らの真ん中に立たせ」た「子ども」は、少なくとも当時、一人の人間として尊厳を認められていなかった存在です。そのような相手を、一人の尊厳ある人として受け入れ、仕えるときはじめて、イエスさまの後を継ぐ者とされるのでしょう。 

牧師補 執事 下条 知加子

「十字架を負う」 2021.9.12

私の十字架とは何だろうか。子ども時代、20代、そして司祭按手までの20年間は、神さまから無理矢理背負わされた「十字架」を負ったつもりになっていた。とにかく他のことにはかまっていられないと信じていた自分は、他者のことなどまるで視野になく、自己中心そのままのような生き方だったにもかかわらず、家族が負えないから私が負うしかない、くらいの横柄な心でいたと思う。

しかも当時、不平不満たらたらで負っていた十字架は、私を支配していた。そこから自由になろうともがくほど、支配の力は増していた。でも私はきっと、様々な節目に恵まれ、無駄にしなかったのだろう。強大な支配力があったそれらは、気がつくと栄養の一部として消化されており、浅薄さと軽率さで勝ち越したつもりが実は逃避であったことを認められるようになると、それらは内省への手がかりとなっていたことに気づく。

だからと言って、今は仙人のように悠々、マイペースで暮らしているとは到底言えない。複数の教会と施設の中を右往左往し、しょっちゅうあちらとこちらを取り違え、緊急の電話がかかってくるかもと怯えつつも、薄氷を踏みながら外出する。鍵と携帯電話があるべきところになくてうろたえ、紛れた書類やメールを発見できず探し物ばかりする。何か頼まれ事をすると、なんだか出来そうな気がして大風呂敷を広げ、それがいくつも同時多発的に重なると、だから言わんこっちゃないと後悔する。もはや自分の十字架が何であったかさえ、忘れている。

できることなら解決して終わりにし、二度と同じ目に遭わないようにしたいような出来事、しかもその重さと圧力に押し潰されそうになりながらも、とりあえずは背負うほかはないような事柄を、人は「自分の十字架」とよぶのかもしれない。そんな十字架は、一刻も早く捨ててしまいたいし、離れてせいせいしたい。またそれがあるから、自分の人生がうまくいかないのだとも思う。しかしそれが本当に「自分の十字架」であったなら、いくら目をそらしても無視しても、存在そのものを消すことはできないし、相変わらずあなたを支配しようと圧力をかけてくるものだ。逃げても、「大したことじゃない」と虚勢を張っても、自分ではなく他の誰かが悪いのだと唱えても、それは相変わらずそこに居る。

それが一体なんのためにそこに在り、いつまで居座るつもりなのか、聞いても答えはない。そしてそれがいつまで続くのかもわからない。でも、逃れようとする気持ちに向き合って、本当のところ、自分はそれをどうしたいのかと問うとき、流れは変わってくるように思う。すぐに「正解」は出せなくても、逃げるのを辞めた時、何かが変わる。そのように信じたい。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「エッファタ」(開かれなさい) 2021.9.5

かつて中学生時代から通っていた教会に、ひとりの耳の不自由な方がおられました。彼女は私と同世代でしたが、礼拝後の交わりのときご両親が一緒に座っておられることも多かったです。若者が集っている時、一緒に話をしたいと思って彼女を誘うことがあったのですが、筆談やリップリーディングだけで皆の話のペースについて行くことは難しく、結局彼女を置いてけぼりにしてしまいました。自ずと彼女に声をかけることも少なくなってしまっていたように思います。

今日の福音書で、人々が連れてきたのは「耳が聞こえず舌の回らない人」でした。彼らはその人の上に手を置いてくださるようにと願いました。ところがイエスさまは、「この人だけを群衆の中から連れ出し」一対一の時間を作られたようです。耳が聞こえないことで、この人にはイエスさまについての情報が他の人々よりずっと少しか伝わっていなかったと思われます。どういう人かよくわからない人と二人きりになることは、不安もあったでしょう。イエスさまにしても、初対面の耳の不自由な人とコミュニケーションを取ることは難しかったのではないかと想像します。それでも、いえ、だからこそイエスさまは、この人と正面から向き合い、関わろうとされたのではないでしょうか。人々の願いのように上から手を置くというのでなく、「指をその両耳に差し入れ」「唾をつけてその舌に触れ」たのです。「エッファタ」(すっかり開かれなさい)とのイエスさまの愛の言葉によって、このひとの耳は「開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるように」なりました。

ところで、「エッファタ」は「この人」に向かって語られた言葉ですが、実はすべての人に語られている言葉なのではないかと思います。耳障りのよい言葉は聞くけれど、耳障りの悪い言葉は、聞こえないふりをしたり、聞かなかったことにしてしまう。あるいは、思ったことをうまく表現できなかったり、言いたいことを言えなかったり。そんな私たちが、聞くべきことをきちんと聞き、話すべきことをちゃんと話せるよう、イエスさまは今も私たちに「エッファタ」=「開け」と呼び掛けてくださっています。

牧師補 執事 下条 知加子

「人を見下すことへの警告」 2021.8.29

昨年の2月以来、コロナ禍はわたしたちの生活をすっかり変えてしまいました。手を洗うのも生活の一部となり、買い物から戻ったら、冷蔵庫に食品をしまう前にまず手洗い、着替える前にまず手洗いという毎日。ウィルスに晒されたかもしれない手や持ち物の表面に「長居させない」衛生上の理由から、もはや手を洗うのが「常識」のわたしたちですが、今日の福音書に登場するユダヤ人たちが「常識」とした手洗いは少し意味が違うようです。

少し話は違いますが、「十字架につけよ」と叫んだ群衆を止めることが出来ず、ローマ総督ピラトは手を洗いました。死刑執行の権限がありながら、「自分は無関係」という証として群衆の目の前で手を洗ったのは、万が一の場合、自己保身に役立つと考えたのでしょう。一方、福音書のユダヤ人たちは「昔の人の言い伝えを固く守」り、出かけ先と、自宅との境界線をはっきりさせる意味で手を洗っていたようです。でも衛生概念というよりは、しきたりを守る常識人としての、いわゆるパフォーマンスだったのかもしれないと思うのです。

聖書の時代でも、現代のわたしたちも、共同体の中で生きる以上は、ある種の「パフォーマンス」と無関係ではいられないでしょう。大切だから何かを実行しているとは限らず、とにかく「常識のない人」と決めつけられないために、無理をしていることがあるかもしれません。時には心にもない言葉を並べたり、買いたくないものをお付き合いしたりするかもしれません。

でもイエスさまが非難しているのは、そのパフォーマンスそのものではありません。要は中身なのですが、パフォーマンスをしていることを他者に強要したり、あるいはそれに従わない人を「非常識」と決めるつけるのは、自分の立場が「上」だという前提がないと不可能です。尊敬されている律法学者や、地道なファリサイ派の中にも、自らを義とし、他の人を見下す輩は結構いたようです。常識的に生きようと努力している人全てが、そうとは限りませんが、もし他者を見下す視線を持ちはじめたなら、イエスさまはとても心配されます。きっと誰にでもその可能性はあるのでしょう、もしファリサイ派の人々のような態度で何かを決めつけている自分に気がついたら、ハッとするわたしたちでありたいと思います。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子

「神さまはあきらめない」 2021.8.22

神さまはあきらめない 

8月に入ってから4週続けて「ヨハネによる福音書」を読む暦なので、「いのちのパン」のイメージが繰り返し出てきます。でも、今日の福音書は、「いのちのパン」も重要だけれど、何か変えられない運命のようなものがあって、誰がイエスさまを裏切り、誰が天国に行くのかは、父なる神によってもう決まっているとも聞こえ、こんな話には耐えられないと、たくさんのお弟子がイエスさまから離れ去っていく話です。

わたしたちからすると、イエスさまといつも一緒にいて、働きや言葉を分かち合っていたのに、イエスさまに見切りをつけて離れてなんて、「もったいない」気がしますが、離れて行った人々にとっては、イエスさまに何かちがう期待を持っていたのでしょう。例えば「奇跡」を操れるとか、社会変革ができるとか、期待していた人もいたかもしれません。あるいは、イエスさまを頼りないと感じて離れた人もいたかも。また、よくわからないので、これ以上一緒に居てもラチがあかないと離れた人もいたでしょう。そして、「それよりもっと大事なこと」を優先しようと、心を切り替えて去っていった、ということかもしれません。

でもこれは、元お弟子さんたちだけの話ではなく、「今はそれどころじゃない」と神さまを放置して、他を最優先するような行動をとるのは、日常生活では毎日起きているのかもしれませんが、希望があるのは、キリスト教の神さまは、そんなわたしたちであっても、決して見捨てないということです。イエスさまから離れて行った人々は、そのまま闇の中へと消えるのではなく、恵みと希望に満ちた言葉を再び聞こうと立ち返ってきた時には、神さまは、両手で抱きとめることを躊躇するような方ではない、ということをわたしたちは知っています。自己都合で離れていった人に、二度と戻って来るな、などと言う神さまでもありません。たとえ、多くの人々が離れていっても、その先のことはわかりません。ただわたしたちは、どんな時でも神さまは見守り続け、待ち続けておられることを心に留めていましょう。
管理牧師 司祭 上田 亜樹子                                         

「日ごとの糧を」 2021.8.15

先々主日から3週に亘って「イエスは命のパン」と題されたヨハネによる福音書のお話(6:22-59)を読んできましたが、今あらためて私は、人間は体を養うパン無しに生きて行くことはできないということを思いめぐらしています。

8月15日は日本では終戦(あるいは敗戦)の記念日として覚えられています。私は先の戦争を直接知ってはいません。けれども、以前母が「戦争の話はいやだ、話したくない」と言いながら時折語って聞かせてくれた苦しい・悲しい・悔しい体験が、私の中に「二度と戦争を起こしてはいけない」という思いを強く起こさせてきたということを、今改めて感じています。

空襲警報が鳴ると大慌てで明かりを消して息を潜めていなければならなかったこと、防)空壕に逃げんだ話、あるいは燃えさかる火の中を母親とともに幼い妹たちを連れて逃げ惑ったというような戦時中の話も聞かされましたが、何よりも強く印象に残っているのは、戦後の食糧難の話です。学校へ行く時にお弁当を持たせてもらえず、仕方なく昼休みには一旦自宅にるのだけれど、帰ったところで家に食べるものがあるわけではない。中学生で育ち盛りだった母はどんなにひもじい思いをしただろうか。私ならとても耐えられないだろう…。戦争は飢えをもたらすものなのだと思いが、心に深くまれました。

敗戦から76年目を迎える今、世界は新型コロナのパンデミックにあってウイルスとの闘いが続いています。平常時にも増して人と人、民族と民族、国と国の助け合いが必要)とされる時でしょう。しかし、このような時でさえ人間同士の戦いが止むことはないようです。むしろ、かえって色々な局面での戦いが激しくなっているようにさえ感じます。そして、そのために今日の食事に事欠いている人々が、どれだけいることでしょうか。

体を養うパンを誰もが得ることのできる世界・社会の実現を願います。「日ごとの糧を今日もお与えください」と、心から祈り続けたいと思います。
牧師補 執事 下条 知加子

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